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2006年4月
シオンをバビロンのうちに得る

シオンをバビロンのうちに得る

デビッド・R・ストーン
七十人

わたしたちはバビロンの標準やしきたり,道徳を取り入れる必要はありません。わたしたちはバビロンのうちにシオンを造ることができるのです。

デビッド・R・ストーン 去年の夏,妻とカリフォルニア州サンディエゴに行って,オールドグローブ劇場でシェークスピアの「マクベス」を見る機会がありました。娘のキャロリンが3人の魔女の1人を演じていたので,公演を2回見ました。演じる娘を見るだけでもうれしいものでしたが,劇的な場面であの有名なせりふを娘が言ったときには,もっとうれしくなりました。「親指がぴくぴく動く,何か悪いものがこっちに近づいて来るな。」(『マクベス』第4幕第1場,福田恒存訳,新潮文庫,77)

これを聞いて思ったのは,悪の接近を早い段階で告げる警報装置があって,悪に備えることができたらどれほど重宝するだろうということでした。警報装置があろうとなかろうと,悪は近づいて来るのですから。

後になって,妻と車で地方を旅行していた夜のこと,間もなく大きな町に入ろうとする辺りで丘を登ると,地平線に明るい光が見えました。わたしは妻をつついて起こし,言いました。「バビロンの町を見よ!」

もちろん, 今日(こんにち),バビロンを象徴する町が特にあるわけではありません。バビロンとは古代イスラエルの時代にあった,肉欲に満ち,退廃的で腐敗した町です。その町の重要な建物は,ベル,あるいは,バアルとしばしば呼ばれる,偽りの神を祭った神殿でした。

しかし程度の差はあるものの,肉欲も腐敗も退廃も,そして,偽りの神を礼拝することも,世界中の多くの町で見られます。主は言われました。「彼らは主の義を打ち立てるために主を求めようとせずに,すべての人が自分の道を,自分の神の像を求めて歩む。その像は俗世の形であ……る。」(教義と聖約1:16)

世界では多くの人が昔のバビロンに似てきており,自分の道を歩み,その従う神の「像は俗世の形」をしています。

将来克服すべき大きな課題は,そうした世にあって,どうにかして世の者とならないことです。バビロンのうちにシオンを造らなくてはならないのです。

「シオンをバビロンのうちに得る。」何と明るい輝きを持った言葉でしょうか。ちょうど,霊の暗黒のうちで輝く光のようです。バビロンがさらにはびこる中,心にしっかりとどめておくべき考えです。バビロンはわたしたちの町の中に,また,地域社会の中にあります。バビロンはどこにでもあるのです。

拡大するバビロンに対し,わたしたちはその中にシオンを造る必要があります。取り巻かれている文化にのみ込まれてはなりません。自分が生活する場所と時代の文化からどれほど影響を受けているかは,めったに気がつかないのです。

古代イスラエルの時代には,主の民は,偶像礼拝という大海に浮かぶ唯一まことの神のみを信じる島のような存在でした。大海の波は途切れることなくイスラエルの岸に打ちつけました。刻んだ像を造りそれを拝んではならないと戒められていたにもかかわらず,土地と時代の文化に影響を受けて,イスラエルはどうすることもできなかったようです。主から戒められても,預言者や祭司から勧告を受けても,イスラエルは何度も異なる神々を求めて拝んだのです。

イスラエルは自分たちをエジプトから導き出してくださった主を,どうして忘れることができたのでしょうか。当時彼らは,住んでいた社会の中で広まっていたものから常に圧力を受けていました。

生活に根付く文化とは,何と油断のならないものなのでしょうか。文化は社会に染み渡り,一方,人は分別があり,論理的だと自負しています。しかし非常に多くの場合,人を形成してきたのはエートス,ドイツ語で言うツァイトガイスト,つまりその場所と時代の文化です。

これまで10の異なる国に住んできた妻とわたしは,社会の風潮が行動に及ぼす影響を見てきました。ある文化では完全に受け入れられている習慣が,別の文化では受け入れられないものと見なされます。ある所では丁寧な言葉も,別の所では嫌がられます。どの文化でも,人は幻想と自己満足という保護膜の内側で行動し,自分の考え方こそ物事の道理だと固く信じているのです。

食べ物の好み,服の着方,礼儀,好きなスポーツ,音楽の好み,教育の重要性,正直さに対する姿勢。これらは文化によって決まる傾向にあります。また,文化の影響を受けて,男性は娯楽や宗教の重要度を決め,女性は仕事と出産のどちらを優先するかを判断します。生殖や道徳の問題に対する取り組み方に強い影響力を持っているのも文化です。文化が「かっこよさ」を左右するために,わたしたちが操り人形のようになってしまっていることがあまりにも多すぎます。

当然,注意を払うべきツァイトガイスト,つまりその場所と時代の文化もあります。それは主のエートス,すなわち,神の民の文化です。ペテロは言いました。「しかし,あなたがたは,選ばれた種族,王国の神権者,聖なる国民,神につける民である。それによって,暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを,あなたがたが語り伝えるためである。」(欽定訳1ペテロ2:9から和訳)

これが,主の戒めを守り,主の道を歩み,「神の口から出る一つ一つの言葉に従って生き〔る〕」人々の文化です(教義と聖約84:44)。これによって「神につける民」になれるのなら,そうなりましょう。

マンハッタン神殿の建設にかかわっていたわたしは,奉献される前に神殿の中に入る機会が頻繁にありました。外のにぎやかなニューヨークの通りからまったく音の入らない日の栄えの部屋に座り,完全な静けさの中にいるのは,すばらしいことでした。ほんの数メートル離れた所では都会の 喧噪(けんそう)が渦巻いているというのに,なぜ神殿にこれほどの静けさと 敬虔(けいけん)さがあるのでしょうか。

答えは神殿の構造にありました。この神殿は既存の建物の中に建てられており,神殿の壁に当たる内側の壁は,わずか数か所の連結点で外側の壁とつながっているだけなのです。それでこの神殿(シオン)では,バビロンつまり外の世界からの影響が制限されていたのです。

ここに教訓があるようです。バビロンから生活に受ける影響に限界を設けるなら,自分たちの中にほんとうのシオンを造ることができます。

紀元前600年,ネブカデネザルはバビロンからやって来てユダを征服し,主の民を連れ去って,その中から数人の若者を選び,特別な教育と訓練を施しました。

彼らのうちに,ダニエル,ハナニヤ,ミシャエル,アザリヤがいました。彼らはバビロンから連れて来られた若者の中でも特に優遇され,王の (しもべ)は彼らに王の食物を食べ,王の酒を飲むようにと言いました。

この4人の若者にどのような圧力がかかっていたか,はっきりと理解しておきましょう。彼らは征服者の力によって捕虜として連れ去られ,王の家に属し,生きるも死ぬも王の手の内にありました。しかし,それでもなお……バビロンの文化がどれほど正しいと信じられていても,ダニエルと仲間は,自分たちが正しくないと信じていることを行うのを拒否しました。そして,その忠実さと勇気のために,主は彼らを祝福し「知識を与え,すべての文学と知恵にさとい者とされ」ました(ダニエル1:17)。

わたしたちは今の文化に迷い,バビロンの世界にはびこるものに操られて,自分の偶像礼拝に気づかないことがよくあります。「 浮世(うきよ) 瑣事(さじ)があまりにも多し」と詩人ワーズワースが詠んだとおりです。(ウィリアム・ワーズワース,田部重治選訳「浮世の瑣事が余りにも多し」『ワーズワース詩集』岩波文庫,160)

ヨハネは第一の手紙の中でこう書いています。

「あなたがたに書きおくったのは,あなたがたが強い者であり,神の (ことば)があなたがたに宿り,そして,あなたがたが悪しき者にうち勝ったからである。

世と世にあるものとを,愛してはいけない。」(1ヨハネ2:14-15)

わたしたちはバビロンの標準やしきたり,道徳を取り入れる必要はありません。わたしたちはバビロンのうちにシオンを造ることができるのです。音楽や文学,ダンス,映画,言葉について,独自の標準を持つことができるのです。服装と行動,礼儀正しさと敬意も,独自の標準を持つことができます。主の道徳の律法に従って生活し,メディアを通して家庭に入り込むバビロンの多くを制限することができるのです。

自分が望むなら,わたしたちはシオンの民として生活することができます。それは難しいことでしょうか。もちろん難しいことです。バビロンの文化という波が途切れることなくわたしたちの岸に打ちつけているからです。勇気が必要でしょうか。もちろん必要です。

およそあり得ないような苦難に直面してもそれを克服する勇気ある人の話は,いつでも人の心を魅了します。勇気は,あらゆる徳の基礎であり土台です。反対に,勇気の欠如はわたしたちが持つほかのすべての徳を損なってしまいます。バビロンのうちにシオンを持とうとするなら,勇気が必要です。

試しを受けて,勇敢に行動する自分の姿を想像したことがありますか。わたしは子供のころ想像しました。危険が迫っている人を命がけで救い出す自分を想像しました。あるいは,恐ろしい敵との危険な戦いに,勇気をもって勝利する光景を想像しました。子供はそのような空想をするものです。

70年近く生きていると,そうした英雄になるような機会は,たとえあったとしてもごくまれだと分かります。

しかし,圧力が知らず知らず迫ってきて,友人からその時々に広まる偶像礼拝を勧められるときには,義を守る機会があります。しかも,頻繁にあります。そこには,英雄的な行為を撮るカメラマンもいなければ,新聞の一面を飾る記事を書く記者もいません。ただ,静かに良心に照らし合わせて,シオンを選ぶかバビロンを選ぶかという勇気が試されていることを知るのです。

欺かれないでください。ほとんどではないにしても,バビロンの多くは悪です。わたしたちにはぴくぴく動いて警告を発する親指はありません。しかも,波は次から次へと岸に打ちつけてきます。シオンを選びますか,それとも,バビロンを選びますか。

バビロンが俗世の町なら,シオンは神の町です。主がシオンについて「日の栄えの王国の律法の諸原則によらなければ,シオンを築き上げることはでき〔ず〕」(教義と聖約105:5),また「心の清い者,これこそシオンである」(教義と聖約97:21)と言われました。

どこにいても,何という町に住んでいても,日の栄えの王国の諸原則に従って自分たちのシオンを建設し,いつも心の清い者になる努力をすることはできるのです。シオンは美しいものです。そして,主御自身の 御手(みて)の中にあります。シオンがそうであるように,家庭を避け所や保護地にすることができます。

わたしたちは,場所や時代の文化に操られる人形になる必要はありません。勇敢になって,主の道を歩み,主の足跡をたどることができるのです。そうするならば,わたしたちはシオンと呼ばれ,主の民となるのです。

わたしたちが強められてバビロンの攻撃にもくじけず,家庭と地域社会の中にシオンを造ることができるように祈っています。実際に「シオンをバビロンのうちに得る」ことができますように。

わたしたちがシオンを求めるのは,それが主であるイエス・キリスト,わたしたちの救い主,贖い主のお住まいになる所だからです。シオンの中で,そして,シオンの中から,主の明るい光は輝き渡り,主の統治は永遠に続きます。主が生きてわたしたちを愛し,これからも見守ってくださることを証します。

イエス・キリストの 御名(みな)により,アーメン。

 
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