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総大会
2006年4月
(せ い)(さ ん)にあずかるとき

(せ い)(さ ん)にあずかるとき

L・トム・ペリー
十二使徒定員会

聖餐を取ることで,聖なる場所で神聖な時間を過ごすことができます。

L・トム・ペリー 昨年か一昨年,ユタ州ローガンで開かれているインスティテュートを訪問しました。インスティテュートを行う建物は改築が終わったばかりでした。工事のとき作業員が礼拝堂から古い説教壇を移そうとしていると,長い間密封された棚が見つかったそうです。開けてみると,中には聖餐のトレイが入っていました。年代物のようでした。聖餐のカップとしてガラスのコップを使っていたのです。その一つがこのように台に載せられて,わたしに贈られました。恐らくコップの時代を知っている唯一の年寄りだからでしょう。

このコップを見て,楽しい記憶がよみがえりました。人生の重要な節目である12歳の誕生日を迎えるころ,聖餐式ではガラスのコップが使われていました。12歳の誕生日は日曜日でした。わたしは何年も,執事たちが聖餐を配るのを見ながら,自分もアロン神権を受けてあのような光栄にあずかるのを楽しみにしていました。

いよいよその日を迎えたとき,わたしは教会に早く来て,第二副監督のアンブロズ・コール兄弟に会うようにと言われました。コール兄弟はわたしを教室に招き入れ,祈るように言いました。それからコール兄弟は聖典を開き,教義と聖約第13章をわたしに読んで聞かせてくれました。

「わたしと同じ (しもべ)であるあなたがたに,メシヤの 御名(みな)によって,わたしはアロンの神権を授ける。これは天使の働きの (かぎ)と,悔い改めの福音の鍵と,罪の (ゆる)しのために水に沈めるバプテスマの鍵を持つ。また,レビの子らが再び義をもってささげ物を主にささげるまで,これは決して再び地上から取り去られることはないであろう。」

コール兄弟から,この章について説明するように言われました。わたしはまとまりのない説明しかできませんでした。そこでコール兄弟は,聖なる神権を持つ意味について,時間をかけて説明してくれました。神権を持つふさわしさを保つなら,神が人に託しておられる力を行使する資格がわたしに与えられるのです。神権を保持するにふさわしい人は,神が人類の救いのために定めておられる儀式を,正当に執行することができます。この権能は,神権者の系譜を通して,救い主御自身から直接与えられます。

わたしはコール兄弟との面接になんとかパスしたようで,それから執事定員会の集会へ連れて行かれました。集会の中で,監督会の人たちがわたしの頭に手を置きました。そして監督が(実は当時の監督はわたしの父でしたが)わたしにアロン神権を授け,執事の職に聖任してくれました。それから執事の兄弟たちは,わたしが神権定員会の一員になることを支持してくれました。

その日の夕方の聖餐会で,わたしは初めて神権を行使する機会を得ました。ワードの会員に聖餐を配ったのです。その日,わたしにとって聖餐は新たな意義を持ちました。聖餐のトレイが教会員の席を回っているのを見ながら,必ずしもすべての人が同じ態度で聖餐を受けているのではないことに気づきました。単なる習慣として聖餐を取っているように見える人もいましたが,非常に多くの人がとても 敬虔(けいけん)な態度で取っていました。

皆さんと同じように,わたしも長年にわたって数多くの聖餐会に出席してきました。わたしにとって聖餐会はほかと比べられない集会です。聖餐を取ることで,聖なる場所で神聖な時間を過ごすことができます。聖餐を取るとき,わたしたちは,主が教義と聖約第59章で与えられた戒めに従う必要があります。

「また,あなたは,世の汚れに染まらずに自らをさらに十分に清く保つために,わたしの聖日に祈りの家に行って,聖式をささげなければならない。」(9節)

初めから,すなわち世が組織される前から,神は計画を示されました。それにより,神は,戒めに対する従順さに応じて,御自身の子供たちを祝福されるのです。しかしながら,神はわたしたちがこの世のことで時々思い煩うことを御存じでした。神はまた,わたしたちが交わした聖約と神から頂いた約束を定期的に思い起こす必要があることも御存じでした。

アダムに与えられた最初の戒めの一つは,主を礼拝し,主へのささげ物として群れの初子をささげることでした。この儀式が与えられたのは,イエス・キリストがこの世に来て,最終的に御自身を犠牲としてささげられることを人々に思い起こさせるためでした。

「アダムは主の戒めに従順であった。

多くの日の後,主の天使がアダムに現れて言った。『あなたはなぜ主に犠牲をささげるのか。』そこで,アダムは彼に答えた。『わたしには分かりません。ただ,主がわたしに命じられたのです。』

すると,天使は語って言った。『これは,御父の,恵みと真理に満ちている独り子の犠牲のひながたである。』」(モーセ5:5-7)

その日から救い主の時まで,天の御父の子供たちは犠牲をささげるように命じられました。それは救い主の贖いの犠牲とともに終わりました。その前夜,救い主は,主の 晩餐(ばんさん)の聖餐を定められました。わたしたちが主を覚え,主が全人類のためにしてくださる贖いを覚えるようにするためです。このように,古代の犠牲の律法と,その後の聖餐を通して,主の約束を覚え,主の模範に (なら)い,主の () (こころ)に従う必要があることを覚えられるようにしてくださったのです。

新約聖書には,主が弟子たちに聖餐を施しておられる様子が描写されています。マタイによる福音書第26章にはこうあります。

「一同が食事をしているとき,イエスはパンを取り,祝福してこれをさき,弟子たちに与えて言われた,『取って食べよ,これはわたしのからだである。』

また (さかずき)を取り,感謝して彼らに与えて言われた,『みな,この杯から飲め。

これは,罪のゆるしを得させるようにと,多くの人のために流すわたしの契約の血である。』」(26-28節)

モルモン書の第3ニーファイ第18章には,救い主がニーファイ人に聖餐を施される様子が詳しく描写されています。

「さて,イエスは弟子たちに,幾らかのパンとぶどう酒を持って来るように命じられた。

そして,彼らがパンとぶどう酒を取りに行っている間に,イエスは群衆に,地に腰を下ろすよう命じられた。

そして,弟子たちがパンとぶどう酒を持って来ると,イエスはパンを取り,それを裂いて祝福された。それからイエスは,弟子たちに与えて,食べるように命じられた。

彼らが食べて満たされると,イエスは群衆にも与えるように命じられた。

そして,群衆が食べて満たされると,イエスは弟子たちに言われた。『見よ,あなたがたの中の一人を聖任しよう。わたしはその人に力を授け,彼がパンを裂いて祝福し,わたしの教会の人々,すなわち信じてわたしの名によってバプテスマを受けるすべての人に,それを与えることができるようにしよう。

またあなたがたは,わたしがしたように,すなわち,わたしがパンを裂いて祝福し,それをあなたがたに与えたように,いつもこれを行うように努めなさい。

あなたがたは,わたしがあなたがたに示したわたしの体を記念して,これを行いなさい。それは,あなたがたがいつもわたしを覚えているということを,父に示す (あかし)となるであろう。そして,あなたがたは,いつもわたしを覚えているならば,わたしの () (たま)を受けるであろう。』

さて,イエスはこれらの () (こと) ()を語ると,弟子たちに,器のぶどう酒を取って飲むように告げ,さらに群衆にも与えて飲ませるように命じられた。

そこで,弟子たちはそのようにして,飲んで満たされた。また,彼らは群衆にも与え,群衆も飲んで満たされた。

弟子たちがこれをなし終えると,イエスは彼らに言われた。『あなたがたはこれを行ったので,幸いである。これはわたしの戒めを守ることである。またこれは,わたしの命じたことをあなたがたが喜んで行うということを,父に証明するものである。』」(1-10節)

主はわたしたちに,主から命じられたことを喜んで行いなさい,と明快に指示されました。当然予測されていたとおり,わたしたちの時代にも再び聖餐を受けるように命じられました。教義と聖約にはこうあります。

「教会員は,主イエスの記念としてパンとぶどう酒を受けるために,しばしば集まることが必要である。」(教義と聖約20:75)

聖餐にあずかる目的は,もちろん,主と交わした聖約を新たにすることです。

聖約について,デルバート・L・ステープレー長老はこう述べています。

「わたしたちの主イエス・キリストの福音は,神とその民との聖約です。……権能を受けた神の (しもべ)からバプテスマを受けるとき,人は神の御心を行い,神の戒めに従うと聖約します。……聖餐にあずかることによって,主と交わしたあらゆる聖約を新たにし,御子の御名を受け,いつも御子を覚え,御子が与えてくださった戒めを守ることを誓います。」(Conference Report,1965年10月,14)

聖餐は,教会の最も神聖な儀式の一つです。聖餐をふさわしく受けるなら,霊的に成長する機会になります。

子供のころ,聖餐が配られている間,美しい音楽が演奏されていたのを覚えています。間もなく幹部の兄弟たちから,演奏をやめるようにとの指示がありました。主と救い主の贖いの犠牲よりも音楽の方に気が向いてしまうからです。聖餐が執行されている間は,この世のことはわきに置きます。それは霊的再生の時間であり,一人一人が自ら受けるその儀式の霊的な深い意味を考えながら過ごす時間です。形式的に聖餐を取るだけだと,霊を成長させる機会を失ってしまうことでしょう。

メルビン・J・バラード長老はこう言いました。

「わたしは,聖餐が施されるとき,御霊が宿り,頭のてっぺんから足のつま先まで温かくなることを知っています。霊の傷が (いや)され,重荷が軽くなることを知っています。この霊の食物の祝福にふさわしい,真に望ましい平安と幸福が心に訪れるのです。」(“The Sacramental Covenant,”Improvement Era,1919年10月号,1027)

聖餐をふさわしい状態で受けるとき,わたしたちは主なる救い主の犠牲を思い出します。すなわち人が不死不滅という祝福を得られるよう,主が命を差し出し,世の罪を負われたことを思い出すのです。わたしたちは,救い主の御名を受け,主を常に忘れず,主の戒めを守ると約束します。戒めとはすなわち「神の口から出る一つ一つの言葉に従って生き〔る〕」ということです(教義と聖約84:44)。

親である皆さん,皆さんには,毎週聖餐会に出席することの大切さを子供に教える責任があります。それを家族の習慣にするのです。どの家族も,救い主の教えに添って福音に生きるという決意を新たにするための時間が必要です。自らをよく備えてきた家族は,敬虔な気持ちで聖餐式に出席し,神聖な象徴にあずかる機会に感謝することでしょう。

行楽地で家族と休暇を過ごしたときに記憶に残る経験をしました。滞在期間に日曜日も入っていたので,家族で最寄りの礼拝堂に行き,聖餐会に出席することにしました。同じように行楽に来ていた家族がたくさんいて,礼拝堂はいっぱいになりました。聖餐会が始まる前に,監督は,出席者の中で,ふさわしく,適切な服装をしている執事は皆,聖餐を配るのを助けてほしいと呼びかけました。白いワイシャツにネクタイ姿の執事がたくさん前に進み出て,大勢の出席者に配る方法について説明を受けました。儀式は敬虔に,またスムーズに行われました。出席者の様子を見ると,多くの人がその聖餐会の御霊に深く感動しているのが分かりました。

行楽地に戻ってみると,平日とはまったく違う雰囲気でした。ボートは係留され,湖で泳ぐ人はほとんどいません。安息日の服装がとてもふさわしく感じられました。その場にいた家族は,主の約束が果たされるのを見ました。すなわち,主の聖なる日に祈りの家に行き,戒めに従う聖約を新たにしたので,世の汚れに染まらず,自らをさらに清く保つことができていたのです(教義と聖約59:9参照)。

一人一人が安息日をさらに敬虔に過ごしたいという思いを持てますように。聖餐にあずかることができるという特別な祝福と,聖餐が人生に及ぼす意義をさらに深く認識できますように。また,人生の目的を達成し,来るべき永遠への希望を満たすために,いつも主を覚え,主の戒めを守れますように。わたしたちが携わっているこの業は主の業です。神は生きておられます。イエスはキリストであり,世の救い主であられます。わたしたちはこの偉大な福音の計画に携わることを許されており,聖餐はこの計画の中できわめて重要な位置を占めています。イエス・キリストの御名により,アーメン。

 
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