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わたしたちの日ごとの食物を,きょうもお与えください

D・トッド・クリストファーソン長老
十二使徒定員会


D・トッド・クリストファーソン長老,  “わたしたちの日ごとの食物を,きょうもお与えください,”  Jan 2011

ヤングアダルト対象の教会教育システムファイヤサイド・2011年1月9日・ブリガム・ヤング大学

親,教会指導者,大学教授,友人など,皆さんの人生の先輩に当たるわたしたちは,皆さんに将来の計画を立てるよう頻繁に勧めています。これからの長い人生に備えて,教育や職業訓練を受けるようにしてください。結婚して家族を育てるための準備をし,計画を実行するよう皆さんに強く勧めます。(インターネットに何を投稿するかなど)今日皆さんが何をするかを決めるときには,その結果どのようなことが起こり得るかについて考えてください。どうすれば充実した人生を送れるのかについて考え,そのような人生につながる行動や習慣を身につけるようお勧めします。

これらの助言に従うなら,賢明で安全な道を歩めるでしょう。将来について考え,備えることが大切であるということは言うまでもありません。思慮深く計画し,準備することは実り多い未来への鍵となります。しかし,わたしたちが生きているのは未来ではなく,現在です。将来の計画は毎日の積み重ねにより実現していくものです。一日,一日と目標を達成していくのです。わたしたちは一日を積み重ねて家族を養い育てます。一日を積み重ねて不完全さを克服します。一日を積み重ねることで,信仰をもって終わりまで堪え忍びます。充実した日々を数多く重ねることで,実りある人生となり,徳高い人になるのです。そこで今晩は,充実した一日を過ごし,それを重ねていくことについてお話します。

日々必要とされることのために,神を仰ぎ見る

ルカによる福音書には,弟子の一人がイエスに次のように願ったことが記されています。「主よ,ヨハネがその弟子たちに教えたように,わたしたちにも祈ることを教えてください。」(ルカ11:1)イエスはその後,祈りの手本を示されました。それは「主の祈り」として知られています。同じ手本が山上の垂訓の一部としてマタイによる福音書に記録されています(マタイ6:9-13参照)。

主の祈りの中には「わたしたちの日ごとの食物を,きょうもお与えください」(マタイ6:11)またはルカによる福音書の「わたしたちの日ごとの食物を,日々お与えください」という願いがあります(ルカ11:3)どのような日でも,わたしたちには必要なことがあり,それを得るために天の御父の助けを望んでいることは,だれもが認めることでしょう。中には文字どおりの食物,すなわちその日を生き抜くための食物を必要としている人がいるかもしれません。慢性の病気や長期のつらいリハビリにもう一日耐えるための霊の強さや体力を求める人もいるでしょう。レッスンを教え,試験を受けるなど,特定の日に行う責任や活動での必要,ほかの人からは分かりにくい必要を抱えている人もいるでしょう。

イエスは,弟子であるわたしたちに,その日その日に必要とする食物,すなわち助けや支えを得られるよう神に頼るべきだと教えておられます。これは次の勧めと一致するものです。「〔あなたがたは〕気を落とさずに常に祈ら〔なければならない。〕そして,主があなたがたの行うことを神聖にしてくださり,あなたがたの行うことが自分自身に幸いをもたらすものとなるように,キリストの名によってまず御父に祈らずには,主のためにどんなことも行ってはならない。」(2ニーファイ32:9

日ごとの食物を天の御父に願い求めなさいという主の勧めから,神が愛にあふれた御方であられることが分かります。神は御自身の子供たちの日常的な小さな必要までも気遣い,一人一人を助けたいと願っておられます。主は,「とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える」御方に信仰をもって尋ね求めれば「与えられるであろう」(ヤコブ1:5)と述べておられます。これは大いなる安心を与えてくれる言葉ですが,この教えにはある原則があります。それは一日一日を何とか過ごすための助け以上のものです。神に日ごとの食物を求め,頂くことで,神と御子に対するわたしたちの信仰と信頼が強まるのです。

必要を満たすために日々神を仰ぎ見ることで信仰が養われる

イスラエルの部族がエジプトから逃れ,荒れ野で40年過ごした末に約束の地に入ったことを思い出してください。100万人をはるかに超えるこの巨大な群衆は食物を得る必要がありました。一か所にこれほど大勢の人がいるのですから,狩りで獣を獲るだけでは足りませんし,常に移住を伴う生活のため十分な量の農作物や家畜を育てるわけにもいきません。エホバは天から毎日食物を,すなわちマナを与えるという奇跡によって問題を解決されました。毎朝地面に現れたこの小さな食べ物は新しい,未知のものでした。実はマナという名前は「それは何ですか」という意味の言葉から来ています。主はモーセを通して民に,その日に必要な分だけを集めるように命じられました。ただし,安息日の前日は2日分集めることになっていました。

初めは,モーセがはっきりと指示したにも関わらず,一日分以上集めて余りを蓄えようとした人々がいました。

「モーセは彼らに言った,『だれも朝までそれを残しておいてはならない。』

しかし彼らはモーセに聞き従わないで,ある者は朝までそれを残しておいたが,虫がついて臭くなった。」(出エジプト16:19-20

ところが 6日目にいつもの倍のマナを集めても,それは約束されたとおり腐りませんでした。「彼らはモーセの命じたように,それを朝まで保存したが,臭くならず,また虫もつかなかった。

モーセは言った。『きょう,それを食べなさい。

きょうは主の安息日であるから,きょうは野でそれを獲られないであろう。六日の間はそれを集めなければならない。

七日目は安息日であるから,その日には無いであろう。』」(出エジプト16:24-26

しかし,目で確かめなければ信じられない人々は,安息日にマナを集めに行きました。

「そこで主はモーセに言われた,『あなたがたは,いつまでわたしの戒めと,律法とを守ることを拒むのか。見よ,主はあなたがたに安息日を与えられた。

ゆえに六日目には,ふつか分のパンをあなたがたに賜わるのである。おのおのその所にとどまり,七日目にはその所から出てはならない。』」(出エジプト16:28-29

現代と同じように古代でも,安息日に買い物をせずにいられない人がいたようです。

エホバは一日分の食べ物を日ごとに与えることにより,約400年の時の流れの中で先祖の信仰をほとんど失いかけていた国民に,信仰について教えようとされていました。主は民に対し,主を信頼し「あらゆる思いの中で〔主〕を仰ぎ見なさい。疑ってはならない。恐れてはならない」(教義と聖約6:36)と教えておられたのです。主は,一日に必要な分を用意しておられました。6日目を除いて,民は2日分以上のマナを保存することができませんでした。つまり,イスラエルの民は一日を主とともに歩み,翌日分の食べ物は主が翌日に用意してくださると信頼しなければならなかったということです。このようにして,主は民の思いと心が主から遠く離れられないようにされたのです。

ところで,主は,何もしなくても食物が得られるという意図で40年間マナを与えられたわけではないという点に注意してください。イスラエルの部族は自力で食糧を用意できるようになると,自分で食物を得なければならなくなりました。ヨルダン川を渡り,エリコを始めとするカナンを征服する準備が整ったイスラエルの民について,聖文にはこうあります。「過越の祭の翌日,〔前年に収穫された〕その地の穀物……

を,その日に食べたが,その地の穀物を食べた翌日から,マナの降ることはやみ,イスラエルの人々は,もはやマナを獲なかった。その年はカナンの地の産物を食べた。」(ヨシュア5:11-12

わたしたちも,日ごとの食物,すなわちそのときに自力では解決できない事柄への助けを神に求めますが,自分でできることや用意できるものについては積極的に努力しなければなりません。

主を信頼する――時を経て解決方法が見つかるかもしれない

中央幹部に召される少し前,わたしは数年の間,経済的な試練に直面しました。人生にはそういうときもあるものです。ほかの人の過失や悪意によって起きたのではありません。深刻で一刻の猶予もないという時もあれば,多少状況が改善される時もありました。しかし完全に解決することはありませんでした。わたしと家族の生活が脅かされることもあり,破産の文字が頭に浮かんだ時もありました。奇跡的な助けにより問題から開放されるよう祈りました。そのように誠心誠意,熱心に繰り返し祈りましたが,最終的な返事は「いいえ」でした。結局,わたしは救い主のように「わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください」(ルカ22:42)と祈ることを学びました。わたしは主の助けを求めながら,最終的な解決までの小さな一歩一歩を進んで行ったのです。

あらゆる手を使い果たし,頼れる場所も人もなく,まったく孤独な状態で目の前の緊急事態に対処しなければならないときもありました。天の御父以外に頼れるものは何もなく,神の前にひれ伏し,涙ながらに助けを懇願したことが何度もありました。すると御父はほんとうに助けてくださいました。ただ平安な気持ち,絶対に大丈夫だという確信だけを感じるときもありました。どの道を進むべきか,どのように進んで行くのかが自分ではよく分からなくても,直接または間接的に主が道を開いてくださるということを主は教えてくださいました。状況が変わったり,これまでにない役立つ考えが浮かんだり,思わぬ収入やその他の手段にタイミングよく恵まれたりしました。何とか解決策を見いだすことができました。

当時は苦しい思いをしましたが,今振り返ると,問題が即座に解決されなかったことに感謝しています。何年もの間,ほとんど毎日神に助けを求めざるを得なかったため,どのように祈り,答えを受けるべきかを確かに学び,非常に実践的な方法で神を信じることを学びました。ほかの手段であったら,このような方法で,これほど深く救い主と天の御父について知ることは不可能だったか,さもなければ知るまでにもっと長い年月を要したと思います。わたしは毎日の食物が貴重な必需品であることを学びました。現代のマナも,聖書の時代の物質的なマナと同じように実在することを知りました。心のすべてをもって主を信頼するようになりました。毎日毎日主とともに歩むことを学んだのです。

大きな問題に,毎日少しずつ取り組む

1週間分,1か月分,あるいは1年分の食物ではなく,その日の食物を神に願い求めることはまた,より小さく,扱いやすい形にして問題に取り組む方法でもあります。大きなことに取り組むには,少しずつ,一日の単位で努力する必要があるかもしれません。時には1回に1日分しか(あるいは1日分の一部しか)こなせないときもあります。聖文にはない事例を紹介しましょう。

最近読んだ『孤独な生存者』(Lone Survivor)という本です。アメリカ海軍特殊部隊の4人のチームが5年半前アフガニスタンの辺境区域で秘密任務を遂行する際に体験した悲劇が描かれています。この4人は,不注意から羊飼い,すなわち二人の男性と一人の少年に遭遇してしまいます。特別な訓練を受けてきたこの兵士たちは二人を殺すか,逃がすかを選ばなければならなくなりました。行かせてしまえば,羊飼いが彼らの位置を明かして,アルカイダやタリバンの攻撃を即座に受けることになるかもしれません。それでも兵士は罪のない羊飼いたちを逃がします。その後100人を優に超える敵との銃撃戦が起き,生き延びたのは著者のマーカス・ラトレルだけでした。

著書の中で,ラトレルはアメリカ海軍の特殊部隊に入るための過酷な訓練や忍耐力についてつづっています。例えば,164人で始めたラトレルの訓練部隊の中で最終的に修了できたのはわずか32人でした。彼らは何週間もの間,ほとんど休む間もなく続いた肉体の酷使に耐え抜きました。冷たい海で泳ぎ,ゴムボートをこぎ,そして運び,砂の上を駈け回り,毎日数百回の腕立て伏せをし,丸太を抱えながら障害物の間を走ったのです。彼らはほとんどいつも疲労困憊という状態でした。

わたしは,彼らが最後の,最も困難な訓練を始めるときに上官が言った言葉に感銘を受けました。

彼はこう言いました。「まず,今感じているプレッシャーに負けないでもらいたい。どんなに苦しくても耐え抜きなさい。今日という日を終えなさい。それでも苦しいときは,やめようと決める前に時間を取って,一生懸命,今日を終えることだけを考えなさい。第二に,一日ずつこなしなさい。1〔段階〕ずつ行うのです。

先のことを考えてはいけない。後のことが不安だから,どこまで耐えられるか分からないからやめようなどと思わないように。明日の苦しさを考えてはならない。とにかく今日を生き抜けば,先にはすばらしい成功が待っている。」1

一般的には,将来起きることを予測してそれに備えようとすることは良いことです。しかし,時にはこの隊長の助言が賢明なときがあります。「一日ずつこなしなさい。……明日の苦しさを考えてはならない。とにかく今日を生き抜きなさい。」明日起きること,あるいは起きる可能性のあることを心配すると,人は弱くなっていきます。先に進めなくなり,物事をあきらめるようになってしまいます。

1950年代に母はがんのために大きな手術を受けました。手術自体つらいものでしたが,手術後も今から見ればかなり原始的な医療環境で何十回も痛みの伴う放射線治療を受けました。母はそのころ,自身の母親からあることを教わりました。その言葉がずっと支えとなってきたそうです。「具合が悪く,すっかり弱っていたわたしは母親にこう言ったの。『ねえ,お母さん,あと治療が16回もあるなんて,とても耐えられない。』母はこう尋ねました。『今日は頑張れる?』『ええ。』『今日は,そのことだけ考えればいいのよ。』この言葉のおかげで,わたしは一度に1日分だけ,あるいは1つのことだけをできるようになったのよ。」

先のことに目を向けるべきか,あるいは今日一日や今の一瞬だけを考えるべきかは御霊が教えてくれます。わたしたちが求めれば,主は聖霊を通して,御自分が古代の使徒に与えられた次の戒めを当てはめるのが適当なときを教えてくださいます。「だから,明日のことは思い煩ってはならない。明日のことは明日自身が思い煩うであろう。その日はその日の苦労だけで十分である。」(3ニーファイ13:34マタイ6:34も参照)

神の「日ごとの食物」はわたしたちの可能性に到達するために不可欠である

今日,日ごとの食物を神に求め,神の手から頂くことが,神を信頼し,人生の困難に堪えるうえで大切な役割を果たすということを話しました。わたしたちは,自分がなるべき人物になるためにも毎日天の食物をいただく必要があります。悔い改めて改善し,パウロが言うようにいつか「キリストの満ちみちた徳の高さにまで」到達する(エペソ4:13)ことは1歩ずつ進む道のりです。新しい,健全な習慣を身につけたり,悪い週間や依存症を克服したりするには,ほとんどの場合,今日努力して,明日も,その次の日も,あるいは何日も,何か月も,何年も,成功するまで努力を続けなければなりません。しかし,わたしたちが日ごとの食物,すなわち日々に必要な助けを神に求めるなら,それは現実となるのです。

新年の目標を立てる時期に当たり,かつて大管長会の顧問を務めたN・エルドン・タナー管長の言葉を引用します。「より良い業を行おうと決心することの大切さについて思い巡らすとき,どのような決心をするのか慎重に考慮し,何のために決心するのかを考えましょう。そして最後に,どんな障害に遭っても心に決めたことを守り抜くという決意をするために,自らを訓練しましょう。一日の始めに,今日だけなら決心したことを守れると思うようにしましょう。これは実行するにつれて次第に容易になり,やがて習慣となります。」2

1年と少し前に,デビッド・A・ベドナー長老は,家族の祈り,聖文研究,家庭の夕べなど,毎日簡単なことを続けることが実りある家族を築くのに不可欠であると話しました。ささいに見える小さな日々の1歩を一貫して続けることは,主の弟子の道を進むことも含めて,どんな偉大なことをも成し遂げるための大きな原則となります。ベドナー長老は日々の行いを,絵画を描く際の一筆にたとえ,それらがやがて一つの芸術作品となると述べました。長老はこう語ります。

「わたしのオフィスには麦畑の絵があります。一本一本描かれた無数の線が集まって1枚の絵になっています。どの線も1本ずつでは,おもしろくも心を打つわけでもありません。実際,キャンバスに近づくと,目に入るのは,何の関係も何の魅力もないような無数の線が,黄色や,金色や,茶色の絵の具で描かれているだけです。けれども,少しずつキャンバスから離れると,先ほどの線一本一本がすべて合わさって,麦畑の壮大な風景が現れるのです。 ……

黄色や,金色や,茶色の絵の具で描いた一本一本が補い合って印象的な傑作を生み出すように,一見取るに足りないことを一貫して行うことで,意義深い霊的な実が得られるのです。『それゆえ,善を行うことに疲れ果ててはならない。あなたがたは一つの大いなる業の基を据えつつあるからである。そして,小さなことから大いなることが生じるのである。(教義と聖約64:333

エズラ・タフト・ベンソン大管長は悔い改めについてこのように勧めました。

「〔さらにキリストに似た者となる〕ための努力をしていく中では慎重さが求められるということ,また落胆したり,希望を失ってはならないということです。キリストに似た者となるための努力は生涯を通して続けるべきものです。また成長や変化といっても,きわめてゆっくりとしたものであり,自覚できないことが非常に多いのです。聖典の中には,息子アルマ,ダマスコへ旅していたパウロ,夜になるまで長く祈り続けたエノス,ラモーナイ王など,きわめて短時間の内に劇的な変化を遂げた人物に関するすばらしい記述が幾つかあります。罪の中に浸っていた人々をも変えたこれらの驚くべき力の事例は,贖いの力は失意の底にある人々にも達するという確信をわたしたちに与えてくれます。

しかし,これらの傑出した例について論じるときには注意が必要です。確かにこれらの事例は真実であり,力強いものです。しかし,きわめて例外的なものであるということです。結果的にパウロあるいはエノス,ラモーナイ王のような生活の変化を経験した人はいるでしょう。しかしそのような人々の場合でも,多くはきわめて緩やかなプロセスを歩んでいるのです。彼らには神に近づいているという意識はほとんどありませんが,日々主に近づくための歩みを続けています。〔彼らは善を行い,奉仕し,献身的で穏やかな生活を送っています。〕……

希望を失ってはいけません。希望はわたしたちの錨となるものです。サタンはわたしたちにこの錨を捨てさせようとしています。それによってサタンはわたしたちを失意の淵に落とし,屈伏させることができるのです。希望を失ってはいけません。たとえ小さな事柄であれ,さらに主に近づこうと日々努力することを主は喜んでくださるのです。」4

人々に仕えるとき,主の助けを求める

また,天の食物を毎日求める際,自分だけに目を向けないようにしてください。「仕えられるためではなく,仕えるため」(マルコ10:45)に来臨された主のようになるには,毎日同胞に奉仕できるよう主の助けを求めなければなりません。

トーマス・S・モンソン大管長はわたしの知っているだれよりもこの原則をよく実践しています。大管長はどの日でも,あるいは一日のどの瞬間でも,周囲の人々を助ける必要や方法があればそれを明らかにしてくださるよう心の中で神に祈り続けています。大管長がビショップを務めていたころの話から,ほんの少しの努力でも,御霊の働きと一つになって大きな実を結ぶことがあることが分かります。ハイディ・スウィントンが著したモンソン大管長の伝記『救助に向かう』(“To the Rescue”〔英語〕)から引用します。

「〔モンソン大管長が〕手を差し伸べた一人にハロルド・ギャラカー兄弟がいます。妻と子供たちは教会に活発に集っていましたが,ハロルドは集っていませんでした。娘のシャロンはモンソンビショップに,父親がまた活発になれるよう『何かしてもらえないか』と頼みました。モンソンビショップはある日,ハロルドを訪ねるべきだと感じました。暑い夏の日,彼はハロルドの玄関の網戸をノックしました。ハロルドが椅子に座り,たばこを吸いながら新聞を読んでいるのが見えました。ハロルドはうつむいたまま不機嫌そうに答えました。『どちら様ですか。』

モンソンビショップは答えました。『ビショップです。お知り合いになって,ご家族で教会に来ませんかとお誘いしようと思って来ました。』

『忙しいのでお断りします。』返答は冷ややかなものでした。ハロルドは一度も顔を上げませんでした。モンソンビショップは話を聞いてくれたことに感謝を述べて,玄関を去りました。ハロルドが一度も集会に出席しないまま,その家族は引っ越しました。

何年もたった後,ギャラカー兄弟と名乗る人からトーマス・S・モンソン長老の執務室に面会を希望する電話がありました。

モンソン長老は秘書にこう言いました。『その人に,名前はハロルド・G・ギャラカーか,そしてビッシングプレイス55番地に住んだことがあって,娘の名はシャロンか聞いてください。』秘書がハロルドにそのことを尋ねると,ハロルドはモンソン長老がそこまで詳しく覚えていたことに驚きました。その後,再会した二人は抱き合いました。ハロルドはこう言いました。『何年も前のあの夏の日,椅子に座りっ放しであなたを中に招き入れなかったことを謝りに来ました。』教会に活発に集っているかモンソン長老は聞きました。ハロルドは苦笑いをしながら答えました。『今はワードのビショップリック第二顧問をしています。教会に来るようにというあなたの誘いと,それに対する自分の否定的な返答が絶えず頭に残って,何とかしなければと思ったのです。』」5

日々の選択が永遠の結果を生む

毎日の食物について考えることで,自分の生活の細かい事柄について,そして日々のささいな事柄の重要性について知ることができます。例えば,夫婦の間では,たまに盛大に,お金をかけて何かをするよりも,親切な行い,助け,気遣いを続ける方がお互いの愛を維持し,夫婦関係を強めるうえではるかに効果的であることが分かっています。しかし,結婚している兄弟に申し上げますが,皆さんの奥さんがおろしたてのすてきな服や,時には,皆さんの気持ちがはっきりと伝わるプレゼントをもらっても喜ばないというわけではありません(もちろん,プレゼントは皆さんの決して多いとは言えないかもしれないお小遣いの範囲でお願いします)。大切なのは,長い目で見ると,毎日絶えず,言葉と行いの両方で愛を表現する方がはるかに意味があるという点です。

同様に,わたしたちは毎日の選ぶことで,悪い影響が徐々に生活に入り込み,わたしたちの人格の一部とならないように防ぐことができます。何年も前,ニール・A・マックスウェル長老と一緒にあるステーク大会に参加しました。神権指導者との個人的な会話の中で,わたしたちは,良い選択をしていればほとんどのポルノグラフィーやポルノグラフィーに類する画像を避けられるという見解を示しました。物理的にも,インターネット上でも,ほとんどの場合,問題はポルノグラフィーが潜む場所に近づかないという自制心があるかどうかなのです。しかし,悲しいことにポルノグラフィーが蔓延しているため,良い選択をしていても不意に遭遇してしまうことがあるという話にもなりました。マックスウェル長老はこう語りました。「そうですね。でも,そのようなときは即座に拒絶すればよいのです。心の中に招き入れ,いすを勧める必要はありません。」だらしのない身だしなみ,軽率な行動,暴力的で神を冒とくする言葉,意地悪な批判,悔い改めの引き延ばしなど,ほかの悪い影響や習慣に関しても同じで,そのようなことが身につかないよう毎日注意していれば,不注意が原因で悪事や弱さがいつの間にか心にしっかり根づいていたという現実に直面することはないでしょう。

実際のところ,一日の中で意味のない事柄というのはあまり多くありません。繰り返し行う,平凡な事柄でさえ,ささいなものに見えても,やがては自分の計画や夢を実現するために必要な規律と人格と秩序を形作る基礎となります。ですから,毎日の食物を祈り求めるときは,不足しているものと自分に近寄らせたくないもの,両方の必要についてよく考えてください。寝る前に,その日に成功したことや失敗したことについて,次の日をより良いものにするにはどうしたらよいか考えてください。あなたを一日中支えるために天の御父がマナをくださったことに感謝を述べてください。一日を振り返ると,あなたが主の助けを受けて何かに耐えたり,人を変えたりしたことに気づき,主への信仰が強まるでしょう。永遠の命に向けての新たな一日,新たな一歩を喜ぶことができるでしょう。

イエス・キリストは命のパンである

何よりも,マナが示し,象徴する御方,すなわち命のパンであられる贖い主がわたしたちとともにおられることを覚えてください。

「イエスは彼らに言われた,『わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく,わたしを信じる者は決してかわくことがない。……

よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。

わたしは命のパンである。

あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが,死んでしまった。

しかし,天から下ってきたパンを食べる人は,決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきたパンである。

それを食べる者は,いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは,世の命のために与えるわたしの肉である。』」(ヨハネ6:35,47-51参照)

命のパンであるイエス・キリストが生きておられること,そしてキリストの贖罪には無限の力と広がりがあることを証します。結局のところ,主の贖罪,主の恵みこそがわたしたちの日々のパンなのです。毎日主を求め,主の御心を行い,主が御父と一つであられるようにわたしたちも主と一つになることを求めましょう(ヨハネ17:20-23参照)。これらを主に求めるとき,天の御父が日ごとの食物を与えてくださいますよう,皆さんを祝福します。イエス・キリストの御名により,アーメン。

© 2010Intellectual Reserve, Inc.版権所有。英語版承認:2010年10月,翻訳承認:2010年10月。原題:Give Us This Day Our Daily BreadJapanese PD50028437 300

Notes

1. マーカス・ラトレル,パトリック・ロビンソン共著Lone Survivor: The Eyewitness Account of Operation Redwing and the Lost Heroes of SEAL Team 10(2007年),124

2. N・エルドン・タナー, 「『今日』という日に」“Just for Today,” 『リアホナ』2003年3月号,27-28

3. デビッド・A・ベドナー「家庭でもっと勤勉に家庭のことに携わる」『リアホナ』2009年11月号,19

4. 「大いなる改心」『聖徒の道』1990年3月号,7

5. ハイディ・S・スウィントン,To the Rescue: The Biography of Thomas S. Monson(2010年),160-161

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