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識する

七十人会長会
D・トッド・クリストファーソン長老
ヤングアダルト対象の教会教育システムファイヤサイド
2004年11月7日
ブリガム・ヤング大学

今日は「聖さを認識する」つまり,神聖な事柄を認め,敬うというテーマでお話しします。社会全体について言えば,わたしの世代の多くは,神聖なものに対する気持ちや,それらをどのように敬うべきかについて,皆さんの世代に正しく伝えてこなかったと思います。

わたしは,皆さんを取り巻く邪悪な風習を打ち破るために,できるかぎり力になりたいのです。皆さんが神聖なものを認識し,さらに敬虔な態度でそれらを扱うことができるように助けたいのです。

神聖な事柄を認識することがなぜ大切かと言えば,それができないと,自分自身の神聖さを失ってしまうからです。敬虔な思いがないと,次第に敬意が失われ,振る舞いもだらしなくなります。神との聖約によって得た祝福の土台から離れ,神への義務感も薄くなり,やがて忘れてしまいます。そうなると,自分の楽しみだけに心が向き,果てしなく欲望を追求するようになります。あげくの果てに,神聖なものや,神さえも軽んじて,ついに自己嫌悪に陥るのです。

これに対して,聖さを認識することのできる人は,理解を深め誠実さを増していきます。聖なる御霊を頻繁に感じ,やがて,御霊が常に伴侶となります。聖なる場所に立つことが多くなり,聖なるものを託されるようになります。最終的には,永遠の命という,ねたみや絶望とは正反対の報いを受けるのです。

逆説的ですが,これらはいくら望んでも,手から手へ渡すことはできません。心の中に育つものなのです。ですから,皆さんが心に深く考えられるように話したいのです。そうすれば,御霊の影響を受け,何が神聖であるかについて,また神聖なものをどのように扱えばよいかについて,人から指摘されるまでもなく,自分で感じられるようになるでしょう。それは皆さんの人格となります。実際のところ,皆さんはその多くをすでに自分の人格としています。

 あることを理解したいとき,その逆を考えるとよく分かることがあります。比較が理解を助けてくれるのです。神聖な事柄を認識し,敬うことについてよりよく理解するために,幾つかの例を挙げながら,聖さに対する認識と,不認識について考えてみましょう。

1.預言者と聖文

まず預言者と聖文について考えましょう。神の使者たちと彼らのメッセージを粗末に扱う傾向が,周囲に,また時に会員の中にさえ見られることがあります。これは今に始まったことではありません。アダムの時代から,主の御名によって遣わされた人々は,無視され,攻撃されてきました。イエスはこうたとえておられます。

「ある所に,ひとりの家の主人がいたが,ぶどう園を造り,かきをめぐらし……やぐらを立て,それを農夫たちに貸して,旅に出かけた。」

これは,主がわたしたちのためにぶどう園,つまり地球を創造されたことと,人間が主から離れた場所で土地を借り,管理を任されていることをたとえています。

「収穫の季節がきたので,その分け前を受け取ろうとして,僕たちを農夫のところへ送った。」

つまり,神はわたしたちを教え,任せたことについて報告を受けるために,預言者や使者を遣わされるのです。

「すると,農夫たちは,その僕たちをつかまえて,ひとりを袋だたきにし,ひとりを殺し,もうひとりを石で打ち殺した。

また別に,前よりも多くの僕たちを送ったが,彼らをも同じようにあしらった。

しかし,最後に,わたしの子は敬ってくれるだろうと思って,主人はその子を彼らの所につかわした。

すると農夫たちは,その子を見て互に言った,『あれはあと取りだ。さあ,これを殺して,その財産を手に入れよう。』」(マタイ21:33-38)

神の御子であるイエス・キリストを拒絶し,殺すことは神に対する究極的な冒涜です。しかし今もそのような冒涜が続いているのです。今日,世界のいたる所で,神の御子はますます拒絶されています。御子の神性は疑われ,福音は古くさいと考えられています。日常生活で,主の教えが無視されています。主の御名によって語る権威を持つ人に,この世は敬意を払っていません。

主とその僕を無視するのであれば,無神論者と同じです。実質的に同じ結末を迎えることになります。モルモンは,このような状態は平和と繁栄の後によく起こると述べています。「そのときに,彼らは心をかたくなにし,主なる神を忘れ,聖者を足の下に踏みつける……のである。」(ヒラマン12:2)ですからこう自問してください。「わたしは聖者と彼が遣わされた人々を敬っているだろうか。」

ロバート・D・ヘイルズ長老は,使徒に召される数年前に,自分の父親が使徒の召しの神聖さについて抱いていた思いを知りました。ヘイルズ長老はこう語っています。

「数年前のことです。当時,父は80歳を過ぎていました。ある雪の日に,十二使徒定員会の一人が父の家に来ることになっていました。絵描きだった父は,その使徒の依頼で彼の家を描いていたのです。この使徒は,父に感謝を述べるために,人を遣わす代わりに,完成した絵を自分で取りに来ることにしたのです。このようなとき,父が万事怠りなく準備することは分かっていたので,わたしは父の家に行ってみました。雪はかなり積もっていました。除雪車がかき分けた雪で,家の前の通りには,雪の壁ができていました。父はすでに,玄関から通りまでの雪を除き,雪の壁を崩していました。家に戻った父は,疲れきり,痛みも感じていました。わたしが着いたときには,激しい労働と,気遣いで,心臓に痛みが出ていました。そんなに体を動かすのは無謀だと注意しようとしました。そんなに働けばどうなるか分かっていたでしょうに。

ところが,父は息を切らしながらこう言いました。『ロバート,いいかい,主イエス・キリストの使徒が来られるんだよ。きれいにしておかないと。積もったままの所を歩いていただくわけにはいかないんだ。』父は手を挙げて言いました。『この特権を忘れたり,普通のことと思ったりしてはいけない。主の使徒に直接会って,仕える機会なんだからね。』(「神の恵みへの感謝」『聖徒の道』1992年7月号,68参照)

このような父親を持つ人が使徒として仕えるよう召されたのは,単なる偶然ではないとわたしには思えるのです。

こう自問してみてください。「預言者と使徒の召しの神聖さを理解しているだろうか。その勧告を真剣に受け止めているだろうか。それとも軽く考えているだろうか。」たとえば,ヒンクレー大管長は,教育と職業訓練を受けるように,ポルノグラフィーを疫病のように避けるように,女性を敬うように,借金をしないように,感謝し,知性を備え,清く,誠実で,謙遜で,よく祈り,最善を尽くすように勧告しています。

大管長の教えを知り,実行したいという思いが,皆さんの行いに表れていますか。大管長と中央幹部の言葉を熱心に研究していますか。彼らの教えを切望していますか。もしそうなら,皆さんは,神の御子の証し人であり使者である預言者の召しの神聖さを感じているのです。

あらゆる時代の預言者に課せられた大切な務めの一つは,歴史と神の御言葉を記すことでした。聖文は神聖なものです。アルマはヒラマンに,ニーファイの版とその他の記録を渡しながら,こう警告しました。「わが子よ,神がこれらのものをあなたに託されたということを覚えておきなさい。これらのものは神聖であり,神はこれまでこれらのものを神聖に保ってこられた。……

あなたはこれらの神聖なものを大切にしなさい。神に頼って生きるようにしなさい。」(アルマ37:14,47,強調付加)

わたしたちにはかなりの量にのぼる聖文があります。この聖なる記録は古代の族長の時代から現在にまで及んでいます。わたしたちは歴史上のどの民よりも多くの聖文を手にしています。そして聖文は昔よりも多くの人々の手にわたっています。もし皆さんやわたしが,モーセが自分の手で記した巻物やモルモンが刻んだ金属の版を手にしているとしたら,敬虔な思いと畏れを抱き,細心の注意を払ってそれらを扱うことでしょう。聖なる預言者が一心に努め,犠牲を払い,苦労して作り上げた聖なるものだという認識に基づいてそれらを扱うはずです。

けれども,その巻物や金版の持つ最大の価値は,それ自体にではなく,そこに記された言葉にあります。それは神の御言葉であるがゆえに神聖なのです。わたしたちは原典を手にしていませんが,原典に記されていた御言葉を手にしています。わたしたちが持っているものは聖なる書物なのです。

記録された神の御言葉を持つことを許されているわたしたちは,それを聖なるものとして敬っているかどうか自問してみる必要があります。聖文の信憑性をあざけり,否定して,その神聖さを踏みにじる人がいます。もちろん,それはゆゆしいことです。

けれども,標準聖典が真実の書物であることを知っているほとんどの教会員にとっては,聖文に対する無関心こそが,その神聖さを軽んじる罪なのです。日々,聖文を軽く扱ったり,無視したりすることのないように気をつけなければなりません。1832年に,主は長老たちをこのように叱責されました。

「また,不信仰のために,また自分の受けたものを軽々しく扱ったために,あなたがたの思いは過去に暗くなることがあった。

この虚栄と不信仰は全教会に罪の宣告を招いた。……

彼らが悔い改めて,新しい聖約,すなわち『モルモン書』と,わたしが彼らに与えた以前の戒めを思い起こし,そしてただ口にするだけでなく,わたしが記してきたものに従って行動するまで,彼らは依然としてこの罪の宣告の下にある。」(教義と聖約84:54-55,57,強調付加)

神聖なものを認識するとは,聖文に感謝し,聖文を愛することでもあります。神聖な事柄を認識すれば,キリストの御言葉を味わいたくなります(2ニーファイ31:20;32:3参照)。そして,主の御言葉に対する敬虔な思いが深まるのです。

2.神の宮としての肉体

次に,このテーマに関する別の側面である,肉体の神聖さについて話します。神とキリストがあがめられるのと同じように,御二方の御業も尊敬と崇拝の対象となります。このすばらしい地球の創造も,御二方の御業の一つです。しかし,この地球でさえ,神の最高の創造物ではありません。さらに偉大な創造物とは,この肉体なのです。肉体は神の形にかたどって造られています。肉体は,地上の経験と永遠の栄光を得るために,必要なものです。

恵まれたことに,わたしは自分の5人の子供の誕生に立ち会うことができました。いずれのときも神聖な経験だと感じました。間違いなく神聖で奇跡的な出来事でした。妻はこう言うでしょう。「言うのは簡単よ。痛い思いをしていないのですから。」確かに,出産には,経験者にしか分からないことがたくさんあります。母親の皆さん,わたしはその痛みを味わったわけではありませんし,理解できるふりもするつもりもありません。

しかし実際のところ,肉体の創造のときの苦しみは,創造そのものと,それを経験する女性の聖さを増しているのではないでしょうか。女性の犠牲により,聖いものがさらにその聖さを増しているのです。

自分の体に対して責任を持つ必要はないと考える人がいますが,それは間違っています。自分の体に対する神への責任については,はっきりと教えられています。「あなたがたは知らないのか。自分のからだは,神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって,あなたがたは,もはや自分自身のものではないのである。

あなたがたは,代価を払って買いとられたのだ。それだから,自分のからだをもって,神の栄光をあらわしなさい。」(1コリント6:19-20)

「もし人が,神の宮を破壊するなら,神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら,神の宮は聖なるものであり,そして,あなたがたはその宮なのだからである。」(1コリント3:17)「そういうわけで,神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを,神に喜ばれる,生きた,聖なる供え物としてささげなさい。それが,あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ローマ12:1)

神の最も偉大な創造物であるこの体の聖さを維持するには,どうしたらよいのでしょう。少なくとも,体を汚すようなことをしてはなりません。具体的に言うと,神聖さを認識していれば,入れ墨やピアスで体を醜くしたりはしないはずです。大管長がこのことに言及したことを不思議に思った人たちがいます。直接的,具体的な勧告に困惑を覚えている人もいます。大管長は次のように語りました。

「入れ墨は体という神の宮への落書きです。

同様に,体に穴を開けて,複数のリングを耳や鼻,そして舌にまでしている人がいます。それが美しいと思っているのでしょうか。それは一時の気まぐれでしょうが,その影響は永続します。……わたしたち大管長会と十二使徒定員会は,入れ墨に反対であると宣言します。『医療上の目的のほか,体に穴を開けることにも反対します。』しかしながら『女性が1組のイヤリングを着けるために,耳に最小限の穴を開けること』は問題ではありません。」(ゴードン・B・ヒンクレー「あなたの子らの平安は深い」『リアホナ』2001年1月号67-68参照)

神の預言者はなぜ一見取るに足らないことについて話したのでしょうか。大切なことだからです。神の宮である創造物を汚し,醜くすることは神聖なものをあざける行為です。これらをささいなこととして片付けるのは,聖さを認識できない人たちだけです。

慎みのない服装も人の体の聖さを損ないます。慎みのないファッションやポルノグラフィーを正当化する意見はたくさんあります。表現の自由を制限する法律は制定できないはずだとか,禁止する法律がないのだから悪いことではないなどと言い張る人もいます。

古くからある正当化が,ポルノ雑誌のために裸でポーズをとるオリンピック選手を擁護するために最近また使われました。編集者はこう述べました。「これは,彼女たちの目を見張る肉体をお見せする機会なのです。」(スティーブ・マッキー “An Olympic Pose Isn’t What It Used to Be,” Wall Street Journal, 2004年8月18日付,A8)彼の本音は「このすばらしい肉体を掲載したわたしは,大金を手にしてよいはずだ」ということです。

どう正当化しようとも,不道徳に潜む真の動機は,たいていの場合,性的欲望をかきたてて利益を得るという,金銭へのあくなき欲望です。体は神の宮なのですから,ポルノグラフィーや体の露出する衣服は,両替人が再び神殿を汚していることと同じなのです。

知恵の言葉やそのほかのことについても同じことが言えます。それらはすべて体を汚します。けれども,最も有害で,破壊的かつ悲しく不敬な行為とは,性的不道徳と,それにかかわりの深い性的虐待です。

最も神聖に扱うべきものを汚すことほど,神の創造物を根底から冒涜する行為はありません。このような類のことを決して行ってはなりません。それらに近寄ってもなりません。「不品行を避けなさい。……不品行をする者は,自分のからだに対して罪を犯すのである。」(1コリント6:18)「若い時の情欲を避けなさい。」(2テモテ2:22)「神に近づきなさい。そうすれば,神はあなたがたに近づいて下さるであろう。」(ヤコブの手紙4:8)「悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば,彼はあなたがたから逃げ去るであろう。」(ヤコブの手紙4:7)あなたがたのからだを,神への生きた供え物として聖く保ちなさい(ローマ12:1参照)。

3.神聖な場所と神聖な機会

では次に,神聖な場所と神聖な出来事について考えてみましょう。主は預言者エゼキエルを通してイスラエルの祭司をとがめられました。神聖な行為と場所を敬うように教えてこなかったからです。

「その祭司たちはわが律法を犯し,聖なる物を汚した。彼らは聖なる物と汚れた物とを区別せず,清くない物と清い物との違いを教えず,わが安息日を無視し,こうしてわたしは彼らの間に汚されている。」(エゼキエル22:26)

主が語られたことの多くは神殿と関係がありました。安息日についても語っておられます。主にささげられた神聖な場所というと,普通,神殿や集会所が思い浮かびます。わたしたちの神殿にはどれも主の宮居,聖きを主にささぐという厳粛な言葉が記されています。神聖さを認識していれば,神聖な建物の内外での行動や話し方が敬虔になります。神聖な建物に入るときの服装にも敬虔さが表れてきます。

慎みのない服が神の最も聖なる創造物である体を汚すことについては,すでに話しました。特定の時と場所において,慎みのない,くだけた,だらしない服装と身だしなみは,そこで行われている事柄や場所そのものの神聖さを汚すことになります。

一つ例を挙げましょう。少し前に,ほかの州から一人の若い女性がやって来て,ソルトレーク・シティーに住む親戚の家で数週間過ごしました。最初の日曜日は,こざっぱりしたブラウスに,膝を覆うスカート,明るい色の上品なセーターを着て教会に来ました。ストッキングときちんとした靴を履き,髪は櫛でよくとかしてありました。彼女の外見から,若々しい美しさが輝いていました。

しかし彼女はすぐに,自分が浮いていることに気づきました。同年代の若い女性は皆,普段着のようなスカートで,一部の少女は膝丈の極端に短いスカートをはいていました。上はティーシャツのような体にぴったりした服で,スカートのウエストまで届いていませんでした。さらに,靴下やストッキングは履かず,運動靴やサンダルを履いていたのです。

新しくやってきたこの少女の身なりを見て,ほかの少女たちも自分の服装が礼拝堂や安息日にふさわしくないということに気づいて,すぐに改めたらよいのにとだれもが願ったでしょうが,残念ながら結果は逆で,新しい少女の方が皆に受け入れてもらうために,そのファッション(もしそれをファッションと呼べるとしたら)を取り入れたのでした。

困ったことに,若い女性だけでなく,成人の女性や男性にも,そして若い男性の間にも,この傾向が強まっています。何年も前に,テネシー州のわたしのワードは,竜巻によって礼拝堂が破壊され,修理の間,ある高校を借りて日曜日の集会を開いていました。ほかの宗派の人々も同じ高校を使って礼拝をしていました。彼らは新しい礼拝堂を建築しているとのことでした。

わたしはこの宗派の人たちが教会に来るときの服装にショックを受けました。スーツにネクタイの男性はいませんでした。ゴルフ帰りか,あるいはこれから行くのかというような服装でした。女性は皆,普段着のズボンか半ズボンを履いていて,スカートを履いている人はいませんでした。礼拝しに来ていることを知らなかったなら,わたしは,スポーツ大会にでも参加するために来ているのだと思ったことでしょう。

対照的に,わたしたちのワードの会員の服装は非常に好ましいものでした。しかし今,わたしたちは彼らとさほど変わらない,低い標準に向かっているのではないかと懸念しています。昔はよく「サンデーベスト」と言いました。皆,それが自分の最高の服であることを知っていました。文化や経済状態から,実際の服は異なりましたが,その服はそれぞれの人にとって最上のものでした。

身だしなみを整えず,細心の注意を払って,慎みのある服を着ようとすることもなく,主の家を訪れるなら,それが主の聖日であればなおのこと,神への侮辱となります。ペルーの山岳地帯に住み,川を歩いて渡って来る貧しい教会員の白いワイシャツに,泥水のしみが残っていても,主はおとがめにはならないでしょう。

しかし,必要な服は何でも揃っていて,簡単に礼拝堂に行けるのに,普段着のしわの入ったズボンとティーシャツで教会に来る人を見るときに,神はどれほど心を痛められるでしょうか。皮肉なことに,世界中を旅するときに,非常に貧しい教会員ほど,何とかして,清潔で美しい,自分の最上の服を身に着けて,安息日の集会に出席するのに対して,あまりあるほどの財産を持つ教会員ほど,普段着の,汚れた服装で現れるのを目にしています。

服や髪ではなく,大切なのは心だと言う人がいます。たしかに大切なのは中身ですが,わたしが心配しているのはまさにそこなのです。聖なる場所や神聖な行事に普段着で参加している人は,それによって自分の心の状態を表しているのです。それは,高慢,反抗,あるいはほかの感情かもしれませんが,いずれにせよ,その服装からは「わたしには聖いものと汚れたものの区別がつきません」と言う言葉が聞こえてきます。そのような状態の人は,簡単に主から離れて行きます。彼らは自分の得ているものの価値を認識していません。彼らのことが心配です。彼らは,ある程度の理解を持ち聖さを認識しないかぎり,最終的に最も大切なものさえ失う危険にさらされているのです。皆さんは大いなる末日の神権時代の聖徒なのです。そのことを忘れないでください。

例えば神権の儀式など,行為や出来事そのものが神聖な場合や,敬意を払うべき事柄に付随している物事にも,この原則はあてはまります。バプテスマや確認の儀式,聖任,主の晩餐の聖餐の執行,病人の祝福などにも,同じことが言えます。教義と聖約には神権の儀式において「神性の力が現れる」と記されています(教義と聖約84:20)。

アルマはこう述べています。「これらの儀式は,それによって人々が神の御子を待ち望めるように定められた。それは神の御子の位の予型,すなわち神の御子の位そのものであった。これが行われたのは,人々が自分の罪の赦しを受けるために神の御子を待ち望んで,主の安息に入れるようにするためであった。」(アルマ13:16)

わたしは,神権とその儀式の神聖さに敬意を示しながら,儀式を執り行う人,儀式に立ち会う人,儀式を受ける人々を称賛します。

きちんとしたワイシャツを着て,ネクタイを締めて,聖餐を執行する,祭司,教師,執事たちを称賛します。

状況が許すかぎり,ワイシャツとネクタイで病人を祝福する兄弟たちを称賛します。何曜日に,どこで行われようとも,神権の聖任の儀式に「サンデーベスト」に身を包んでやって来る兄弟たちを称賛します。彼らは皆,神とこれらの出来事の価値を認め,敬意を表しているのです。その身なりにより,聖さを認識していることが分かります。

生命が誕生するときは神聖ですが,それと同じように,この世の命が終わるときも神聖です。人生で行われる最も大切な行為である結婚,中でも永遠の結婚は特に,誕生や死と同じように神聖であるとわたしは信じています。その理由から,死や結婚に関する行事に参加するとき,話す事柄や服装,振る舞いに注意を払わず,無関心で,敬意を示さない人々が次第に増えていることについて,当惑を覚えるのです。

告別式が,軽薄で不適切な冗談を言う場となっていることもあります。故人の思い出話は,節度を保って行うならば非常にふさわしいのですが,それが 1時間も2時間も続くことがある一方で,主の贖いと復活,救いの計画に関しては,せいぜい申し訳程度にしか述べられていません。

結婚式ではときおり,祝賀会ではより頻繁に,非常にくだけた服装の出席者がいます。その日の仕事や遊びの汚れを落とすことさえ面倒であるかのようです。そのような服で来る人は,招かれた結婚式が,それほど大切なものではないと言っているようなものなのです。

最近ある男性の手記を読みました。彼は,所属団体の功績が表彰される公式の催しに出席しましたが,その際,同僚たちに,上着とネクタイを着用するようと強く勧めました。彼らの働きは宗教的なものではなく市民的なものだったので,神聖という言葉は当てはまらないかもしれませんが,彼は敬意を払うべきものがあるということと,服装によって敬意を表せるということを知っていました。彼はこう書いています。「わたしが大切な人物だからではなく,その催しが大切だから,きちんとした服で行くのです。」彼は大切な真理を述べています。行動と服装で神聖な出来事や場所を敬うのは,自分のためではなく,神のために行っているのです。

4.言葉

別の問題に移ります。神聖な事柄への意識と言葉との間には密接な関係があります。自分の言葉について責任を問われるのは,主の次の言葉から明らかです。「審判の日には,人はその語る無益な言葉に対して,言い開きをしなければならないであろう。」(マタイ12:36)ベニヤミン王は思いと言葉に気をつけるよう警告しています(モーサヤ4:30参照)。アルマは,悔い改めなければ,裁きの時に「わたしたちの言葉がわたしたちを罪に定め……るので,わたしたちは染みのない者とは認められない」と宣言しています(アルマ12:14)。

世の中はますます神を汚し,ますます下品な言葉を使っています。しかしわたしたちは,そのような波に飲まれるわけにはいきません。ののしりや下品な言葉は,神とキリストとその創造物を汚します。主が十字架におかかりになったときに人々が犯したような,救い主をあざける罪を犯してはなりません。

「そこを通りかかった者たちは,頭を振りながら,イエスをののしって言った,『ああ,神殿を打ちこわして3日のうちに建てる者よ,

十字架からおりてきて自分を救え。』

祭司長たちも同じように,律法学者たちと一緒になって,かわるがわる嘲弄して言った,『他人を救ったが,自分自身を救うことができない。

イスラエルの王キリスト,いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう。』また,一緒に十字架につけられた者たちも,イエスをののしった。」(マルコ15:29-32)

「〔キリスト〕を自ら十字架につけて公に辱め」る人々は,滅びの子という宣告を受けます(教義と聖約76:35)。そのような罪になりかねない言葉を使ってはなりません。軽々しく主の名を口にし,主の名によって話してはなりません。

教義と聖約には次のような教えと警告が記されています。

「見よ,わたしはアルパでありオメガである。すなわち,イエス・キリストである。

それゆえ,すべての人は,わたしの名をどのように口にするか気をつけなさい。

見よ,まことに,わたしは言う。この罪の宣告を受ける多くの者がいる。彼らは主の名を使い,権能を持たずにみだりにそれを使っている。……

上から来るものは神聖であり,それについては注意して,御霊の促しによって語るようにしなければならないことを覚えておきなさい。こうすれば……あなたがたは祈りによって御霊を受ける。それゆえ,こうしなければ罪の宣告がある。」(教義と聖約63:60-62,64)

わたしたちにはイエス・キリストの名を用いる権能がありますが,注意しなければなりません。主の御名と「上から来るものは神聖であり,それについては注意して,御霊の促しによって語るようにしなければ」なりません。教会で話すよう求められたり,証を述べたりするときに,それを憶えておかなければなりません。

そのようなときには,主の御名によって述べてきたことを明らかにするために,「イエス・キリストの御名によって」終えます。ですから,何をどう話すかに注意を払わなければなりません。ばかげた,愚かな話をすることはできません。何よりもまず,御霊に従い,罪の宣告を受けない話ができるように,御霊を祈り求めなければなりません。

ヒンクレー大管長はしばしば「イエス・キリストの聖なる御名によって」話を終えています。皆さんもそうするようにと言うつもりはありません。それが大管長の望みだとも思いませんし,決まり文句にすることは不適切だと思います。むしろ,預言者が主の御名によって話す責任を重く受け止めていて,その責任が大管長にとって神聖であるということに注目してほしいのです。大管長は敬虔に主の御名を使い,話します。わたしたちはその模範に従うべきです。

5.神の御心に添った畏れ

最後の例として「神の御心に添った畏れ」について話します。神を恐れるようにという勧告は聖典の随所に見られます。今日,わたしたちは畏れるという語を一般的に「尊敬する」「敬う」「愛する」という意味で理解しています。つまり,神を畏れるとは神を愛し,神と神の律法を敬うということです。多くの場合このような意味で理解することができますが,時々,別の意味で用いられているのではないかと思うことがあります。預言者たちが,戒めを破ることによって神の怒りを買うことの恐ろしさについて述べるような場合がそうです。

例えば,次の箴言の言葉について考えてください。「主を恐れることによって,人は悪を免れる。」(箴言16:6)ヨブは完全かつ高潔な人で「神を恐れ,悪に遠ざかった」と言われています(ヨブ1:1)。この姿勢を示す良い例はエジプトに売られたヨセフです。ポテパロの妻から誘惑を受けたとき,ヨセフはこう答えました。「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって,神に罪を犯すことができましょう。」(創世39:9)ヨセフは神に対して罪を犯すことを恐れました。今の世の多くの人は,ヨセフは愚直だと考えるでしょう。神に対して罪を犯すことを恐れない人々は,ヨセフのことを世慣れていないと言って笑うことでしょう。

ジョセフ・スミスは神の御心に対する配慮が不十分であったことを,とがめられました。主はジョセフに言われました。「あなたは人を神よりも恐れてはならなかった。たとえ人々が神の勧告を無視し,神の言葉を軽んじても,それでも,あなたは忠実でなければならなかった。」(教義と聖約3:7-8)

主を畏れること,つまりパウロが「恐れかしこみ」(ヘブル12:28)という言葉で表した態度は,主に対する敬虔さの一部であると考えられます。人の意見や圧力がどうであれ,主の目にかなわないことは恐くて行えないと感じるくらい,主を愛し,敬う必要があります。モロナイはこのように勧めています。「昔のようになり,心を尽くして主のもとに来て,主の前に恐れおののいて,自分の救いを達成しなさい。」(モルモン9:27)

世の中全般が神を無視しているため,わたしたちは神の御心を知って行う責任が常にあるということを忘れがちになります。将来,自分の人生と思いと言葉と行いについて主に報告しなければならないことを理解し,信じている人はほとんどいません。恐れおののいて自分の救いを達成するとは,よい報告をするにふさわしい決断や行動がとれるよう日々努力するという意味です。

多くの祝福を受けてきた教会員は,大きな霊の進歩を遂げることが可能ですが,ほかの人々以上に危険な立場に置かれてもいるのです。人と同じように罪を犯せば,もっと大きな責めを受けることになります。それは,より大きな光に対する罪だからです。管理を託された神聖なものを軽んじるなら,神を知らなかった人のように無罪とされることはありません。

神はわたしたちが忠実であるかどうか知るために,わたしたちを常に探っておられます。神聖なものを敬う高潔さと感情を持っているならば,もっと多くを受けることでしょう。そうでなければ,受けた祝福は罪の宣告に変わります。主は,わたしたちがとるべき正しい態度について教義と聖約の中で述べられました。

「祈り,また悔いる霊を持っている者は,わたしの定めに従うならば,わたしに受け入れられる。

語り,悔いる霊を持ち,その言葉が柔和で人を教化する者は,わたしの定めに従うならば,神から出ているのである。

さらにまた,わたしの力の下でおののく者は強くされ,わたしがあなたがたに与えたもろもろの啓示と真理にかなって賛美と知恵の実を結ぶであろう。」(教義と聖約52:15-17)

アルマがコリアントンに父親として語った願いの言葉を受け入れてください。「おお,わが子よ,あなたはこれからはもう,〔罪人には罰はない,きっとないだろうと思って〕神の正義を否定しないようにしてもらいたい。神の正義を否定することによって,どんなささいなことでも罪の言い訳をしようとしてはならない。むしろ,神の正義と憐れみと寛容があなたの心の中で存分に力を振るえるようにし,そのためにへりくだって地にひれ伏すことができるようにしなさい。」(アルマ42:30)

警告

警告の言葉で結びにします。神聖な事柄に対する畏敬の念が深まると,理解はいっそう深まります。そのことは聖文に,光が「ますます輝きを増してついには真昼となる」と表現されています(教義と聖約50:24)。このことはまた,恵みに恵みを加えられて進歩するという言葉でも表されています。救い主御自身がこの方法で進歩し,完全を受けられました。皆さんは主の足跡に従うことができます(教義と聖約93:12-20参照)。

聖さを認識するならば,そこに到達できるのです。しかし次のことを常に覚えておいてください。すなわち,聖さが内側にはぐくまれ,より大きな知識と理解を授けられるときに,皆さんはそれを注意して扱わなければならないのです。上から来るものは神聖であり,それについては注意して,御霊の促しによって語るようにしなければならないという聖句を先ほど読みました。主はまた,率直な言葉で,豚に真珠を投げ与えたり,聖いものを犬に与えたりしてはならないとも命じられました(3ニーファイ14:6;教義と聖約41:6参照)。これは,神聖なものの価値をまだ理解できない人や,その価値を認める代わりに逆に攻撃してくる人に,神聖なものを明らかにしたり,話したりしてはならないという意味です。

主からいただいたものは知恵をもって扱ってください。例えば,祝福師の祝福の内容を無差別に教えてはなりません。

ボイド・K・パッカー会長代理はかつてこのように言いました。

「わたしはまた,特に霊的な体験を四六時中話すのは賢明なことではないと信じています。それらは慎重に扱い,人を祝福するために用いるようにと,御霊のささやきがあったときにだけに話すべきです。

わたしはアルマの言葉を忘れないようにしています。

『神の奥義を知ることは多くの人に許されている。しかしこれらの人々は,神が人の子らに授けておられるだけの御言葉しか伝えてはならないという,厳しい命令を受けている。神の御言葉は,人の子らが神に寄せる注意力と熱意の度合いに応じて与えられる。』(アルマ12:9)

〔マリオン・G・〕ロムニー副管長が伝道部長とその夫人に,次のように話すのを聞いたことがあります。『わたしは知っていることすべては話しません。自分の知っているすべてを妻に話すことはしていません。神聖な事柄を軽々しく口にするなら,主の信頼を失ってしまうからです。』

ルカが記したように,マリヤはイエスの誕生にまつわる神聖な出来事を心に留め,思いめぐらしました。そして,わたしたちも同じようにしなければならないと,わたしは信じています(ルカ2:19参照)。」(“That All May Be Edified”〔1982年〕337)

神聖な事柄,聖なるものはすべて,この最後の最もすばらしい神権時代に明らかにされ,一つになっています。福音,教会,イエス・キリストの神権が回復されたことにより,わたしたちは計り知れないほど多くの神聖な事柄を手にしています。過去の預言者たちが夢に見て,待ち焦がれていた途方もなく大きな祝福がもたらされる時と場所に生まれたことは,わたしたちにとって身に余る祝福です。それらを無視し,失うことはできません。

道からそれて無関心になるのではなく,いっそう従順に生活できますように。考え方,感じ方,服装,行動を整え,神聖な事柄,神聖な場所,神聖な出来事に対して,敬虔と尊敬の念を示すことができますように。

聖さに対する認識が天からの露のように,心にしたたり落ちるよう祈っています。それにより,かつてお亡くなりになり,復活され,現在生きておられる,贖い主イエス・キリストに近づくことができますように。主が皆さんを御自分のように聖い者としてくださり「もはや外に出されることなく」(アルマ7:25)天の王国で座に着けますように,イエス・キリストの御名により,アーメン。

 
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