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生ける水の源

十二使徒定員会
デビッド・A・ベドナー長老
ヤングアダルトのためのCESファイヤサイド,2007年2月4日,ブリガム・ヤング大学

デビッド・A・ベドナー長老皆さんにお会いでき,ベドナー姉妹もわたしも感謝しています。世界各地を訪問し,皆さんのように忠実な若い方々と集い,皆さんから学ぶ機会があることを,心から感謝しています。ともに礼拝するこの時間に聖霊の助けがあり,また一致して高い所から教えを受けられるよう,祈っています(教義と聖約43:16参照)。

まず,簡単な質問をします。世界で最も貴重な物質,あるいは産物は何でしょうか。最も価値あるものとしてまず思い浮かぶのは,金や石油,ダイヤモンドでしょうか。実は,地上のすべての鉱物,金属,貴金属,液体の中で最も貴重なものは水です。

水は命の源であり,生命は水によって維持されます。水はあらゆる生命が機能を果たすために不可欠なものです。わたしたちの身体の約3分の2は水でできています。人は食物がなくても,数日,あるいは数週間さえ生きることができますが,水がなければ,わずか3~4日で死んでしまいます。世界の人口密集地はたいてい,新鮮な水の源の近くにあります。簡単に言えば,新鮮な水が十分ない場所では,生命は存在できないのです。

生ける水

あらゆる命を支えるという水の役割を考えると,救い主が述べられた「生ける水」という言葉には,非常に神聖な意味が込められていることが感じられます。ヨハネの第4章にあるように,イエスは弟子を連れてユダヤからガリラヤへ行く途中,サマリヤのスカルという町に入り,ヤコブの井戸で休まれました。

「ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので,イエスはこの女に,『水を飲ませて下さい』と言われた。

弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである

すると,サマリヤの女はイエスに言った。『あなたはユダヤ人でありながら,どうしてサマリヤの女のわたしに,飲ませてくれとおっしゃるのですか。』これは,ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。

イエスは答えて言われた。『もしあなたが神の賜物のことを知り,また,「水を飲ませてくれ」と言った者が,だれであるか知っていたならば,あなたの方から願い出て,その人から生ける水をもらったことであろう。』

女はイエスに言った。『主よ,あなたは,くむ物をお持ちにならず,その上,井戸は深いのです。その生ける水を,どこから手に入れるのですか。』……

イエスは女に答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも,またかわくであろう。

しかし,わたしが与える水を飲む者は,いつまでも,かわくことがないばかりか,わたしが与える水は,その人のうちで泉となり,永遠の命に至る水が,わきあがるであろう。』」(ヨハネ4:7-11,13-14)

この聖句で言われている生ける水は,主イエス・キリストと主の福音のことです。水は肉体の命を維持するために必要ですが,救い主とその教義,原則,儀式は,永遠の命を得るために不可欠です。皆さんもわたしも,絶えず霊的に成長していくためには,主の生ける水を毎日十分補給する必要があるのです。

聖典は生ける水の源である

聖典にはキリストの言葉が記されています。聖典は,すぐ手の届く所にある,いつまでもたっぷりと飲み続けることのできる,生ける水の源です。皆さんもわたしも,「生ける水の源」(1ニーファイ11:25。エテル8:26;12:28と比較)であるキリストを頼りとし,キリストのみもとへ行く必要があります。そのために,聖典にあるキリストの言葉を「読んで」(モーサヤ1:5参照)「研究」し(教義と聖約26:1参照),「調べ」(ヨハネ5:39;アルマ17:2参照),「よく味わう」(2ニーファイ32:3参照)必要があります。そうするならば,霊的な導きと守りを受けながら,この人生を歩むことができます。

末日聖徒イエス・キリスト教会の神聖な使命の一つは,書き記された啓示を純粋かつ安全に保存することです(教義と聖約42:56参照)。啓示は大切な生ける水の源です。教会は1970年代と80年代に多大な労力を尽くして,今日わたしたちが使っている聖典を完成させました。この聖典には,脚注,相互参照聖句,学習資料,地図,その他の情報が豊富に収められています。

80年代の初めにこの新しい聖典が会員に初めて紹介されました。そのとき,ボイド・K・パッカー長老はこう預言しています。

「年月を経るにつれ,この聖典に触れる人々は,何世代にもわたって,主イエス・キリストを知り,主の御心に従う忠実なクリスチャンとなるでしょう。

古い世代にはこの聖典がありませんでした。けれども,今から別の世代が出てきます。」( Conference Report,1982年10月,75;またはEnsign,1982年11月号,53)

パッカー長老がこの言葉を述べてから24年が過ぎました。彼が述べた別の世代の人々が,今,世界中の教会に集っています! パッカー長老は,皆さんのこと,そしてわたしのことについて語っていたのです。皆さんの大多数は,現在の版の聖典しか知りません。そのことを心に留めて,パッカー長老の預言の続きを聞いてください。

「彼らは,世界の歴史上どの世代よりも,啓示をよく理解するようになるでしょう。今や,ヨセフの木とユダの木は彼らの手に置かれました。彼らは,過去の世代が到底成しえなかった研究ができるのです。彼らはイエスがキリストであるという証を持ち,そのことを宣言し,その証を擁護する力を持つでしょう。」(Conference Report,1982年10月,75;または Ensign,1982年11月号,53)

今日わたしたちは祝福されて,その聖典を手にしています。ですから,わたしたちには,聖典をいつも効果的に役立て,生ける水の源から十分に水分を飲む責任があるのです。皆さんの世代は,過去のどの世代にも増して,聖典に没頭し,預言者の言葉に精通し,啓示の中から答えを見つける傾向があると,わたしは信じています。けれども,それでもなお,わたしたちは「細くて狭い道」に沿って,まだまだ長い距離を歩いて行く必要があります。さらに学び,実践し,経験を積む必要があります。

聖文という源から湧き出る生ける水を飲む

では,これから一緒に,聖文から生ける水を飲む基本的な3つの方法について考えましょう。その3つとは(1)初めから終わりまで聖文を通して読む,(2)トピックに添って聖文を研究する,(3)関連性,パターン,テーマを見つけるために聖文を注意深く調べる,です。聖霊の導きと助けを求めて,聖文を読み,研究し,調べるなら,これらの方法はそれぞれ,霊的な渇きを癒してくれます。

聖文を初めから終わりまで通して読むと,生ける水が生活の中へ流れ込んできます。つまり,重要な出来事,福音の教義,永遠の原則がわたしたちの中に流れてくるのです。聖文を通して読むと,聖文のおもな登場人物について知ることができます。一つ一つの出来事や教えのつながり,時代,背景が分かります。通して読むと,聖文の全体像がつかめます。この読み方は,生ける水を飲むための最も基本となる読み方です。

聖文を初めから終わりまで通して読む人は,たいていの場合,トピックに添って研究するようになります。たとえば,モルモン書を通して読んでいくと,次の例のような,教義的にも実生活にも重要な質問に対する答えを探したくなるでしょう。

  • • 救い主を信じるとは,どのようなことでしょうか。
  • • イエス・キリストを信じることは,なぜ福音の第一の原則なのでしょうか。
  • • 贖い主を信じると悔い改めに導かれるのはなぜでしょうか。またどのようにしてそうなるのでしょうか。
  • • 贖いはどのようにして日々の生活でわたしを強め,自力では決してできない事柄をできるようにしてくれるのでしょうか。

以上のように自問しながら,合本の「聖句ガイド」や索引を活用して,トピックに添って研究すると,聖文をより深く探求することができ,霊的な知識がさらに得られるようになります。生活の中に生ける水がより豊かに流れ込むようになるのです。

初めから終わりまで通読する方法と,トピックに添って研究する方法を行うと,聖文という源から生ける水を飲む基本的な方法の3番目を実践できるようになります。全体を通読する方法は基本的な知識を得るのに,そして,トピック別に研究する方法は知識を深めるのに役立ちますが,この二つの方法を統合,拡大し,霊的な知識をさらに加えてくれるのが,関連性,パターン,テーマを探しながら聖文を注意深く調べる,という第3の方法です。この方法で学ぶと,救いの計画の理解ととらえ方が広がります。

わたしの見解では,聖文の中から関連性,パターン,テーマを熱心に探すことは,キリストの言葉を「よく味わう」ことでもあります。この方法を実践するなら,霊の貯水池の水門が開き,主の御霊が理解に光を注ぎ,聖文への感謝の念が増し,ほかの方法では到達できない高いレベルの霊的な決意が心に生じてきます。この方法で聖文を注意深く調べていくと,贖い主という岩の上に築き,この末日の悪の嵐に堪える力が得られるのです。

大切な点を強調します。今述べた方法を実践するには,高い教育を受けなければならないのではないかと感じる人もいるかもしれませんが,決してそうではありません。どのような教育を受けてきたかにかかわらず,誠実に真理を求める人であれば,だれでもこの簡単な方法を実践できます。高性能の教育機器も必要ありませんし,ほかの人の霊的な知識に頼りすぎることもかえって逆効果になります。必要なのはただ,学びたいという誠実な願いと,聖霊を伴侶とすることと,聖典,そして旺盛な探求心です。

預言者ジョセフ・スミスはこのように言いました。「聖文を調べなさい。わたしたちが公表する啓示を調べ,真理を示してくださるように御子イエス・キリストの御名によって天の御父に願いなさい。疑うことなく,神の栄光にひたすら目を向けてそのように行うならば,神は聖なる御霊の力によって答えてくださるだろう。そして,あなたは自分で知るようになり,神につける知識について人に頼る必要がなくなるだろう。」(History of the Church,第1巻,282)

皆さんもわたしも,御霊から学ぶふさわしさを保ち,求め,捜し,門をたたくならば(マタイ7:7参照),霊の貯水池の水門が開き,生ける水が流れ込んでくるでしょう。このことが真実であることを証し,また約束します。

では,関連性,パターン,テーマとは何を指すのか,例を挙げながら簡単に説明します。

関連性

関連性とは,概念,人物,事柄,出来事などの関係やつながりのことです。聖文には関連性のある事柄がたくさんあります。例えば,永遠の御父と御子イエス・キリスト(モーサヤ15:1-9参照),憐れみと恵み(2ニーファイ9:8参照),清い手といさぎよい心(詩編24:4参照),打ち砕かれた心と悔いる精神(3ニーファイ9:20参照),小麦と毒麦(教義と聖約101:65参照),知識と英知(教義と聖約130:18-19参照),義認と聖め(教義と聖約20:30-31参照),羊とやぎ(マタイ25:32-33参照),不死不滅と永遠の命(モーセ1:39参照)など,枚挙にいとまがありません。あるものとあるものの関連性,たとえば類似点と相違点などを,祈りの気持ちで探し,それについて学び,深く考えることは,生ける水を飲むため基本的な方法であり,そのようにして調べることから,霊感に満ちた洞察や隠れた知識という宝が得られます。

わたしは一つ一つの標準聖典を初めから終わりまで読み,様々なトピックについて研究するうちに,理解という言葉が,心と関連してよく使われることに気づきました。次のモルモン書の二つの聖句がそのことをよく示しています。

「あなたがたはを注いで理解しようとしてこなかった。したがって,あなたがたは賢明ではなかった。」(モーサヤ12:27,強調付加)

「群衆は聞いて,証している。彼らの心は開かれ,彼らはイエスが祈られた御言葉をの中で理解した。」(3ニーファイ19:33,強調付加)

興味深いことに,この二つの聖句も,そのほかの多くの聖句も,理解と心を関連させています。注目していただきたいのは,頭を使って理解することについては明確に勧められているわけではないという点です。言うまでもなく,情報を集めて評価し,適切な判断を下すには,頭を使わなければなりません。けれども,理性や「肉の腕」(教義と聖約1:19)だけでは,真の理解を得るには不十分であるということを聖文は教えているのでしょう。ですから,理解という言葉が聖文に出てくるとき,それは理性的な理解だけを指してはいないということなのです。むしろ,自分の頭ですでに分かっていることの真実性を,聖霊が心に確認してくださるときに,真の理解が生じるのです。

啓示を受けるという霊的な賜物が作用している最も典型的な例は,聖霊からある思いや感情を頭と心に入れていただいているときです(教義と聖約8:2-3;100:5-8参照)。頭で確信していたことを心で確信するようになると,情報を持っているという段階を通り過ぎて,真の理解に伴う大きな心の変化へ向かって移行し始めているのです。そのような理解は,啓示として得られる霊的な賜物であり,改宗に欠かせない条件です。そのような理解を得ると,学んだ原則に一層忠実に生活するように励まされます。

啓示によってもたらされた,心と理解の関連性に関するこの洞察は,わたしの福音の研究方法に大きな影響を与えています。また,ベドナー姉妹とわたしが子供や孫を教える方法や,神権者としてのわたしの奉仕に良い影響を与えています。

パターン

パターンとは,何かを繰り返し行ったり,作ったりするときの見本となるやり方,お手本,あるいは基準です。聖文には霊的なパターンがたくさん出てきます。通例,聖文に出てくるパターンは関連性を持つ事柄に比べて包括的です。教義と聖約に出てくるパターンには,福音を宣べ伝える(教義と聖約50:13-29参照),欺きを避ける(教義と聖約52:14;18-19参照),神殿建設(教義と聖約115:14-16参照),町の設立(教義と聖約94章参照),神権定員会の組織(教義と聖約107:85-100参照),高等評議会の組織(教義と聖約102:12参照),そのほかさまざまなものがあります。聖文に記されているパターンを探し,研究することは,生ける水を飲むためのもう一つの大切な方法です。この方法を実践すると,主の知恵と御心(教義と聖約95:13参照)にさらに精通するようになります。

教義と聖約を初めから通して読み,いろいろと研究していくうちに気づいたのですが,宣教師の質問に対する主の答えの中には,明らかなパターンが多く含まれています。1831年に,長老たちが数人ずつのグループで福音を宣べ伝えるために召されました。各グループの兄弟たちは,どのような手段で,どの道を通って行くべきか知りたいと思いました。主は預言者ジョセフ・スミスを通して,それぞれのグループにこう勧告されました。水路でも陸路でもよい(教義と聖約61:22参照),乗り物を自分たちで造ってもよいし,買ってもよい(教義と聖約60:5参照),全員で旅をしても,二人一組で旅をしてもよい(教義と聖約62:5参照),そしてどの方角へ行ってもよい(教義と聖約80:3参照)。主はそのような事柄について,さらにこのように教えられました。すなわち,「あなたがたが良いと思うように」しなさい(教義と聖約60:5;62:5参照),「彼らの判断に従って,彼らに知らされるままに」しなさい(教義と聖約61:22)。そして,どのグループに対しても,救い主はこう宣言されました。「それはわたしにとっては問題ではない。」(教義と聖約60:5;61:22;62:5;63:40。80:3も参照)

そのような事柄は「わたしにとっては問題ではない」という主の言葉を聞くと,最初は驚くかもしれません。もちろん,救い主は,この宣教師たちが何をしてもと構わないとおっしゃったのではありません。優先すべきことを優先し,正しいことに集中しなさいとおっしゃったのです。この例で言えば,大切なのは,割り当てられた伝道地へ行って,伝道を始めることだったのです。彼らは信仰を働かせ,良識を用い,御霊に従って,伝道地へ向かう最良の方法を決めるよう期待されていました。肝心なのは彼らがなすように召された業そのものであり,旅の方法は大切なことであるものの,肝心なことではありませんでした。

これは今の生活にも当てはまる,すばらしいパターンです。イエス・キリストはわたしたち一人一人を御存じであり,愛しておられます。わたしたちの霊的成長に関心を持ち,一人一人が霊感を受け,賢明に判断することによって成長するように励ましてくださいます。贖い主はわたしたちを独りにはしておかれません。わたしたちは常に導きを求め,聖霊を伴侶とできるように祈る必要があります。でも,そのような願いがすぐにこたえられないとしても,落胆したり失望したりするべきではありません。そのような願いが即座にこたえられることは,めったにありません。すぐにすべての答えが与えられ,信仰も,努力も,研究も,根気強さも必要でなければ,わたしたちの成長は止まり,判断力は弱まることでしょう。

初期の宣教師たちに与えられた次の指示の中に,今述べたパターンが明確に表れています。

「あなたがたの中のだれかが,馬か,らばか,馬車に乗ることを望み,かつすべてのことに感謝の心をもって主の手からこの祝福を受けるならば,主なるわたしは喜んで,彼がそれを受けられるようにしよう。

これらのことは,判断力と御霊の指示に従って行うようにあなたがたに任されている。

見よ,王国はあなたがたのものである。見よ,見よ,わたしは常に忠実な者とともにいる。まことにそのとおりである。アーメン。」(教義と聖約62:7-9,強調付加)

この聖句の重点は,馬か,ラバか,馬車か,ではありません。大切なのはむしろ,感謝,判断力,忠実さです。このパターンの中の基本的な要素に注意を向けてください。(1)すべてのことに感謝する,(2)判断力と御霊の指示に従う,(3)救い主は常に忠実な者とともにおられる。これが霊感によって判断するために従うべきパターンです。このパターンに従うことで得られる,導き,確信,再生,そして力を感じてください。確かに,聖文の中にあるパターンは生ける水の貴重な源です。

わたしたちが下す判断の中で難しいのは,善悪の区別でも,魅力的なものと魅力的でないものの区別でもありません。たいていの場合,最も難しいのは,善いものと善いものの間で選択することです。先程の聖句では,馬も,ラバも,馬車も,宣教師が旅するという目的にとって,大差はありませんでした。同様に,皆さんもわたしも生活の様々な場面で,非常に重要な事柄について決める際に,幾つかの好ましい選択肢の中から選ぶ機会があるでしょう。そのような重要な決定をするときに,この聖句のパターンを思い出してください。つまり,肝心な事柄を最優先するのです。献身的に主に従う,聖約を尊ぶ,戒めを守るというような肝心な事柄を第一にするなら,天の家へ帰る道にあって,霊感と優れた判断力を祝福されるでしょう。肝心な事柄を第一にするならば,「迷うことはあり得ない」のです(教義と聖約80:3)。

テーマ

テーマとは,書物全体を織り成す糸のように,繰り返し登場し,全体をまとめる特徴や概念のことです。一般的に,聖文のテーマはパターンや物事の関連性よりも広く包括的です。実のところ,テーマは関連性やパターンの理解に欠かせない背景知識や文脈となります。わたしたちは聖文のテーマを見つけようとしているうちに,根本的な救いの教義と原則を知るようになります。そのような永遠の真理を知ると,やがて聖霊による確認を受けるようになります(1ヨハネ5:6参照)。聖文という源から生ける水を飲むために効果的なこの方法は,骨の折れる厳しいものです。しかし,この方法は,人を教化し,最も大きな霊の糧を与えてくれます。そして,聖文の中には,力強いテーマがたくさん記されています。

たとえば,モルモン書がこの神権時代に世に出されたのは「ユダヤ人と異邦人に,イエスがキリストであり,永遠の神であり,すべての国民に御自身を現されることを確信させる」ためでした(モルモン書はしがき)。モルモン書に繰り返し出てくる中心的テーマは「キリストのもとに来て,キリストによって完全にな」りなさいという全人類への招きです(モロナイ10:32)。この類い希な聖典に収められている教え,警告,勧告,出来事はすべて,贖い主,救い主イエス・キリストに的を絞り,証するものです。

では,モルモン書の聖句の中から重要なテーマの例を少し挙げてみましょう。

「もし人の子らが神の戒めを守るならば,神は彼らを養い,強くし,また御自分が命じられたことを成し遂げる手段を与えられる。」(1ニーファイ17:3)

「キリストを確固として信じ……力強く進まなければならない。」(2ニーファイ31:20)

「人が存在するのは喜びを得るためである。」(2ニーファイ2:25)

「主の力で何事でもできる」(アルマ20:4)

「悪事は決して幸福を生じたことがない。」(アルマ41:10)

もし笑わないと約束してくださるなら,わたしが聖文のテーマを探すときに使う簡単な方法を一つ紹介しましょう。この方法を提唱するわけではありません。自分に合った方法は,人それぞれに違います。これから説明する方法は,単にわたしにとって効果的だというだけのことです。

最近,お話の割り当ての準備をしていたとき,集合の精神と目的について話すべきだと感じました。ちょうどその少し前に,総大会でラッセル・M・ネルソン長老が集合の原則について話し(「散らされたイスラエルの集合」『リアホナ』2006年11月号,79-82),わたしはその説教を研究し,思索していたのです。しかもそのテーマは,そのお話の割り当ての性質と機会に適していました。(The Spirit and Purposes of Gathering, BYUアイダホ校ディボーショナル,2006年10月31日)

わたしは集合について聖文からたくさん学べることを認識しました。そこで,「集まる(gather)」という言葉を含む聖句を標準聖典の中からすべて見つけ,コピーしました。次に,関連性,パターン,テーマを探しながら,すべての聖句を読みました。大切なのは,前もってある事柄を見つけようと心に決めていたのではなく,聖霊の助けを祈り求めてから,ただひたすら読み始めたということです。

集合に関する聖句を読みながら,色鉛筆を使って似たような表現や要点に印をつけました。そのようにして関連聖句をすべて読み終えるころには,ある聖句には赤,ほかの聖句には緑,さらにほかの聖句には別の色という具合に色がつけられました。

さて,ここからが笑える所なのですが,次にわたしはハサミを使い,コピーした聖句を切り抜き,色別に分けていきました。そうすると赤いしるしをつけた聖句の山,緑のしるしをつけた聖句の山,など,幾つかの聖句の山ができました。今度は,一つ一つの聖句の山をさらに小さな山に分けました。きっとわたしは小学1年生のとき,紙を切って,集めるのが好きだったのでしょう。

そのようにしていくうちに,わたしは集合の原則について多くのことを学びました。たとえば,それぞれの聖句の山を調べていくうちに,聖文は,集合について少なくとも3つの重要な事柄について述べていることが分かりました。それは,集合の目的,集合の様式と場所,そして集合の祝福です。

集合のおもな目的は,礼拝する(モーサヤ18:25参照),勧告と教えを受ける(モーサヤ18:7参照),教会を築き上げる(教義と聖約101:63-64参照),防御と避け所となる(教義と聖約115:6参照)ためであることが分かりました。さらに,集合の様式と場所についても発見しました。わたしたちは,永遠の家族に(モーサヤ2:5参照),回復された教会に(教義と聖約101:64-65参照),シオンのステークに(教義と聖約109:59参照),聖なる神殿に(アルマ26:5-6参照),二つの大きな集合地すなわち,旧エルサレム(エテル13:11参照)と新エルサレムと呼ばれるシオンの町に(教義と聖約42:9;信仰箇条1:10参照)集められます。また,集合の祝福の中には,教化(エペソ4:12-13参照),守り(モーセ7:61参照),強さ(教義と聖約82:14参照)が含まれることを学びました。

この研究を通して,すべてのものが回復されるこの時満ちる神権時代になくてはならない集合の霊に対する感謝がさらに深くなりました。今ここで,集合について学んだ事柄をすべて紹介するつもりはありません。ここでは,聖文のテーマを探す方法の一例として紹介したのです。

わたしたちが受けられる祝福

わたしたちが聖文を読み,研究し,調べるときに受ける知識,理解,啓示,霊的な高揚はすばらしい祝福です。「キリストの言葉をよく味わ」う人は(2ニーファイ31:20),啓発され,胸躍る経験と,楽しみを得ます。御言葉は良いものです。それは「わたしの心を広げ,わたしの理解力に光を注ぎ,まことに,それはわたしに良い気持ちを与え」ます(アルマ32:28)。「見よ,……言葉は書き記されてあなたがたの前にあるので,それを調べなさい。」(3ニーフィ20:11)そうすれば,それは「その人のうちで泉となり,永遠の命に至る水が,わきあがるであろう。」(ヨハネ4:14)

わたしは長年,個人的に聖文を読み,研究し,調べてきました。その中でイエス・キリストの贖いの教義にたびたび焦点を当ててきました。この54年の人生で,贖いの教義について繰り返し読み,深く研究し,この教義についての関連性やパターン,テーマを探すことが,そのほかのどのような出来事,知識,力よりも,わたしに大きなインパクトを与えてきました。救いの教義の中心に位置する贖いの教義は,長年にわたって,天からの露のように少しずつ心に滴り,わたしの思いと言葉と行い(モーサヤ4:30参照)に影響を及ぼし,とうとうわたしにとっての文字通り生ける水の泉となったのです。

リーハイの示現

聖文を読み,研究し,調べることの重要性は,命の木についてのリーハイの示現の中で強調されています。

父リーハイは,幾つかのグループの人々が,命の木とその実を得ようとして,細くて狭い道を進んで行くのを見ました。どのグループの人たちも,悔い改め,水のバプテスマの門をくぐってその道に入り,聖霊の賜物を受けていました(2ニーファイ31:17-20参照)。この示現の中で最も大切な命の木は,ニーファイ第一書第11章の中で,イエス・キリストを表すと解き明かされています。木の実が象徴するものは,救い主の贖いを通して得られる祝福です。興味深いことに,モルモン書の中心テーマである,すべての人をキリストのみもとへ招くことが,リーハイの示現の主題になっています。特に興味を引くものは,命の木へ通じる鉄の棒(1ニーファイ8:19参照)です。鉄の棒は神の御言葉の象徴です。

ニーファイ第一書第8章21節から23節には,ある一団の人々が命の木へ通じる道を歩き始めたと書かれています。しかし,この人たちは暗黒の霧すなわち悪魔の誘惑(1ニーファイ12:17参照)に出会うと,道を見失い,迷って姿が見えなくなってしまいました。

これらの節では鉄の棒について何も触れられていないという点に注意してください。神の御言葉を無視したり,軽視したりする人には,救い主のみもとへ行く道を示す神聖な羅針盤を役立てることができません。そのような人々は道を見つけ,前進し,キリストに対する多少の信仰と霊的な確信があるようですが,悪魔の誘惑を受けることによって道からそれ,姿が見えなくなるのです。

第8章の24節から28節には,命の木へ通じる細くて狭い道を見つけた別の一団について書かれています。この人々は鉄の棒にすがりながら暗黒の霧の中を押し進み,ついに進んで来てその木の実を食べました。しかし,大きく広々とした建物の中にいる人々にあざけられると,恥ずかしく思い,禁じられた道に踏み込んで姿が見えなくなってしまいました。この人々が鉄の棒にすがっていたと書かれている点に注意してください。

この二つ目のグループの人が信仰と決意をもって前進していたことは重要です。彼らは鉄の棒という祝福を授かり,その鉄の棒にすがっていたのです。ところが,迫害や逆境が迫ると,禁じられた道に踏み込んで姿が見えなくなってしまいました。信仰や決意,神の御言葉があったにもかかわらず,彼らは失われたのです。おそらく,彼らは聖文をたまに読むか,研究するか,あるいは調べただけだったのでしょう。鉄の棒にすがるとは,短期集中的に読んだり,たまに軽く目を通したりすることではないでしょうか。彼らは神の御言葉に常に没頭してはいなかったのでしょう。

30節には,鉄の棒にしっかりつかまりながら前進し,ついにたどり着き,ひれ伏して木の実を食べた三つ目のグループについて書かれています。この節の中で大切な言葉は鉄の棒に「しっかりつかまりながら」という部分です。

三つ目のグループも信仰と決意をもって前進しました。しかし,彼らは道に迷い,禁じられた道に踏み込み,姿が見えなくなったとは書かれていません。このグループはおそらく,キリストの御言葉を絶えず読んで,研究して,さらに調べたのでしょう。彼らが破滅せずに救われたのは,絶えず生ける水を飲んでいたからです。これこそ,皆さんやわたしが目指す生き方です。

「あの木の所に通じている,父が見た鉄の棒は何を意味するのか。

 わたしは兄たちに,それは神の言葉であって,だれでも神の言葉に聞き従って,それにしっかりつかまる者は,決して滅びることがなく,また敵対する者の誘惑や火の矢も,彼らを打ち破って盲目とし,滅びに至らせることはないと言った。」(1ニーファイ15:23-24,強調付加)

では,鉄の棒にすがることと,しっかりつかまることとの違いは何でしょうか。鉄の棒にしっかりつかまるためには,先ほど述べた生ける水を飲む三つの方法をすべて,祈りの気持ちで絶えず使うことが必要なのです。

「そしてわたしは,父の見た鉄の棒が生ける水の源,すなわち,命の木に導く神の言葉である……ことを知った。」(1ニーファイ11:25)

初めから終わりまで聖文を読む,トピックに添って聖文を研究する,関連性,パターン,テーマを見つけて聖文を注意深く調べるという一つ一つの方法はどれも,人を啓発し,教化し,救い主の生ける水を断続的に与えてくれる方法です。しかし,この三つの方法をいつも全部活用するなら,生ける水を,絶えず飲むことができます。それが鉄の棒にしっかりつかまるという意味なのです。

わたしたちは毎日普通に生活しているだけで,肉体の大部分を占める水分を大量に失います。渇きとは細胞が水分を要求しているということであり,わたしたちは毎日肉体に水分を補給しなければなりません。水分補給をたまにしか行わず,その合間は脱水状態で生きていくということは,現実には不可能です。霊にも同じことが言えます。霊が渇くのは生ける水が不足するからです。絶えず生ける水を飲むことは,時々飲むよりはるかに良いのです。

わたしたちは毎日聖文を読み,研究し,調べて,鉄の棒にしっかりつかまることができているでしょうか。それとも,鉄の棒にすがっているだけでしょうか。神の御言葉に頼り,生ける水の源に向かって進んでいますか。この問いについて,わたしたち一人一人が祈りの気持ちで深く考えるべきです。

今夜の閉会の賛美歌は「鉄の棒」です。この義人の歌は,確かに,熱烈で強力な祈りとなるでしょう(教義と聖約25:12参照)。わたしたちがこの賛美歌の教えに耳を傾けることができますように。

イエス・キリストと御言葉の力を証します。主は永遠の御父の御子です。主が生きておられることを知っています。鉄の棒にしっかりつかまるなら,生ける水へ導かれることを証します。主の僕として,皆さんを祝福します。鉄の棒にしっかりつかまる力とその願いが強まりますように,救い主への信仰が増し,恐れが消えますように,聖文という源から湧き出る水を深く味わい,主を知るようになりますように。つぎの賛美歌の詞をいつも心に留めることができますように。

#誘惑近づき,道,曇れば#
#その棒を頼り,み助けを乞わん#
(『賛美歌』176番)

イエス・キリストの聖なる御名により,アーメン。

 
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