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リバティーの監獄の教訓

ジェフリー・R・ホランド長老
十二使徒定員会
ヤングアダルト対象の教会教育システムファイヤサイド ● 2008年9月7日 ● ブリガム・ヤング大学

ジェフリー・R・ホランド長老親愛なる若人の皆さん,今宵,この世界規模の衛星放送を通じて,ホランド姉妹とともに皆さんとご一緒でき,胸の高鳴りを感じています。できることなら,それぞれの地域に足を運び,個人的に皆さんとお会いして握手をしたいところですが,それはかないません。皆さんが世界のどこにいようと,わたしたちの愛と歓迎を皆さん一人一人に届けたいと思います。世界中で実に大勢の人々がこの放送を視聴しているわけですが,皆さんが個人としてわたしたちの愛を感じられるように,また,わたしたちのメッセージから何かを学び,それぞれの生活に生かせるようにと願っています。

リバティーの監獄における預言者

中央幹部としての責任から得られる大きな祝福の一つは,世界中の様々な地域で教会員に会い,世界各地で教会員が歩んできた歴史を学ぶ機会です。歴史に学ぶそのような精神で,今宵,皆さんと分かち合いたい事柄があります。それは,今年の春,割り当てを受けて,合衆国のミズーリ州西部で開かれたプラット・シティー・ステークのステーク大会に出席したとき,わたしの心に浮かんだ幾つかの思いです。

ミズーリ州プラット・シティー・ステークは,ミズーリ州リバティーステークに隣接するステークです。リバティーステークは,教会歴史上とても有名な場所となっていますが,幾つかの重要な教会史跡があります。皮肉な呼び名の付いたリバティーの監獄もその一つです。皆さんは教会歴史を学ぶと,1938年から1939年の冬,預言者ジョセフ・スミスとそのほかの兄弟たちがこの施設に監禁されている間にどのような経験をしたかを知ることができます。この期間は,教会歴史上,すなわち,教会全体にとっても,また,もちろん同じ期間中,迫害の矢おもてに立たされていた預言者ジョセフ・スミス自身にとってもほんとうに困難な時代でした。実際,5年半後の殉教で終わるジョセフの人生で,リバティーの監獄におけるあの残酷で違法かつ不当な監禁の時期ほど耐え難い時期はなかったと言えるでしょう。

教会歴史におけるこの困難な時期がどのような過程を経てもたらされたのか詳しく述べる時間はありませんが,1831年7月に預言者ジョセフがミズーリを「聖徒の集合」さらには「シオンの町」建設「のために……聖別した地」と指定する啓示を受けて以来,様々な問題が山積していたと言えば十分でしょう(教義と聖約57:1,2)。1838年10月には,これらの問題について対立していたモルモンと非モルモンの両勢力間で全面戦争が避けられそうもない状態になっていました。聖徒たちがミズーリ州西部に位置する幾つかの郡から追放された後,預言者ジョセフを含む5人の教会指導者は,すでに生じていた一触即発の状況を解決する方法について話し合うよう招かれたと考え,コールドウェル郡にあるファーウェストの小さな入植地近くに駐屯していたミズーリ州軍駐屯地へと,休戦の白旗を掲げて向かいました。

結局のところ,休戦の白旗は無視され,5人の教会指導者は全員,即座に鎖につながれ,厳重な監視の下に置かれました。逮捕された翌朝,預言者の兄ハイラムを含むさらに二人の指導者が捕らえられ,合計7人の指導者が監禁されることになりました。

不法行為により状況は悲劇的結末をはらんだものへと急変しました。州軍の将校たちが招集した軍事「法廷」で,ジョセフ・スミスならびに6人の囚人たちをファーウェストの公共広場に連行し,即座に銃殺せよとの命令が発せられたのです。しかし,ミズーリ郡の一将校だったアレクサンダー・ドニファン准将は,自らの永遠の名誉にかけて,大胆かつ勇敢にも,この非人間的で,不当な命令の遂行を拒否しました。自分自身が軍法会議にかけられるかもしれないという状況の中で,州軍の指揮を執っていた司令官にあえて抗議の声を挙げたのです。「これは冷酷な殺人です。わたしはあなたの命令には従いません。……もしあなたが彼らを処刑するなら,わたしは神の助けを受けてこの世の法廷の場であなたの責任を追及します。」1

そのような勇気と信念を示すことで,ドニファンはこれら7人の男性の命を救っただけでなく,すべての末日聖徒から永遠に愛される人物となりました。

死刑執行は回避されましたが,これら7人の教会指導者は,ファーウェストからインディペンデンス,さらにインディペンデンスからリッチモンドまで,徒歩で行進させられました。パーリー・P・プラットは裁判を受けるためにすぐ近くのデービス郡に拘留されました。ジョセフとハイラムを含む6人の兄弟たちは,隣接するクレイ郡の主都であったリバティーに連行され,翌年の春にそこで開かれる公判を待つことになりました。彼らがリバティーに到着したのは,1838年12月1日,今まさに,冬が到来しようとしていたときでした。

リバティーの監獄は,その地域でも数少ない,そして確かに他の監獄とは比べ物にならないほどおぞましい監獄で,「脱獄は不可能」と考えられていました。2階建てで,上の階,あるいは主要階と外の世界を結ぶのは,たった一つの小さくて重い扉だけでした。同じ階の中央には下の階に囚人を降ろすための跳ね上げ戸がありました。この牢獄の外壁はごつごつした厚さ60センチの石灰岩,内壁は厚さ30センチのオーク材でできていました。さらに,これら二つの壁の間の30センチのすきまには砂利が詰め込まれていました。すべてが合わさって,これらの壁は,厚さ120センチの恐るべき,文字どおり,貫通不可能な障壁となっていました。

牢獄は,床から天井まで高さが180センチ足らずでした。預言者ジョセフを含めて,背丈が180センチ以上ある男性も何人かいました。いつも前かがみの姿勢で立ち,ほとんどの場合,牢獄の床,ごつごつしてむき出しの石の上で寝なければなりませんでした。牢獄の床には,ほつれて汚い少しのわら,あるいはところどころに汚れたござが敷いてあるだけでした。

兄弟たちに出された食事は,粗末で,腐っていることもありました。あまりにも不潔だったので,「飢えをしのぐためにどうしても食べざるを得なくなるまでは口に入れられない」2と語った兄弟もいました。さらには食事に毒を盛られたことが4度もあり,その結果,ひどく体調を崩し,何日もの間,死のうが生きようがどちらでもかまわないと思うくらいの嘔吐,そして一種の精神錯乱状態を繰り返したこともありました。預言者ジョセフは,その手紙の中で,牢獄の様子について次のように語っています。「悪魔に取り囲まれた地獄……ここでは神聖を汚すののしりの言葉ばかりを聞かされ,冒涜,泥酔,偽善,そしてあらゆるたぐいの背徳が繰り広げられる有様を見せられています。」3「体を温めてくれる毛布も満足にありません。火を起こせば,絶えず煙〔に悩まされます〕。」4「わたしたちの魂は打ちひしがれています。」5「〔わたしたちの〕神経は長い監禁生活のために震えおののいています。……」6ジョセフはさらに「〔自分たちが〕被った恐ろしい悪意をペンも舌も天使も」7 適切に描写することはできないと書いています。しかも,これらのすべては,ミズーリ州で最も寒かったとされる冬の期間中に起こったことなのです。

わたしが意図しているのは,これらの男性がリバティーの監獄で直面した悲しみと困難について話すことではありません。ですから,スクリーンに写真を何枚か写し,わたしのメッセージの導入部分を終わらせましょう。約束しますが,伝えたいと思っていることは,別にあります。

これはジョセフとそのほかの兄弟たちが監禁されていた当時のものをほとんどそのままに復元した監獄の写真です。

これは数年の後,教会の役員と歴史学者が現地を訪問したときに撮った写真です。

これは教会が復元した牢獄の断面図で,現在,訪問者センターに展示されています。2階建ての配置に注目してください。牢獄と上の階を結ぶものはロープとバケツだけです。

これは祈りをささげるジョセフを描いたリズ・レモン・スウィンドルの絵です。ジョセフの絶望的で思い焦がれるような表情に注目してください。

これはグレッグ・オルセンによる肖像画です。投獄の期間中に受けた啓示の幾つかを書き記すジョセフの姿が描かれています。

これはわたしが準備した最後の写真です。今宵,伝えようと思ってやってきたほんとうのメッセージにわたしを導いてくれます。

牢獄の神殿での経験

ほとんどの人は,通常,リバティーの施設を「監獄」あるいは「牢獄」と評します。確かにそうでした。しかし,ブリガム・H・ロバーツ長老は,教会歴史を記録するに際して,同じ施設を神殿,あるいはもっと正確に言えば,「牢獄の神殿」8と評しています。ニール・A・マックスウェル長老も,その著作の幾つかで,同じ表現を用いています。9 確かに,そこはわたしたちのほんとうの神殿,奉献された神殿が持つ聖さ,美しさ,快適さ,清潔さには欠けています。そこにやってきた看守や犯罪人の言動は,神殿の精神とはかけ離れたものでした。実際,リバティーでの経験を特徴づける残虐性と不法は人を束縛するものであり,わたしたちの神殿とそこで行われる儀式の持つ解放的で憐れみの精神とはまったく対照的だと思われるでしょう。では,リバティーの監獄が,ジョセフ・スミス個人の成長,預言者としての役割という点において,「神殿」,あるいは控えめに言って,神殿のようなものと呼ばれるのはなぜでしょうか。この呼び名は神の愛と教えに関して,また,いつどこでその愛と教えが明らかにされるかという点も含めて,わたしたちに何を語っているでしょうか。

これらの事柄について考えるとき,わたしたちが希望を持って祈り続け,苦難の中でも堅固な信仰を持ち続ければ,人生のあらゆる場面や環境にあって,霊的で神聖な経験,新たな洞察を与えられる経験ができるという事実は驚くべきことではないでしょうか。わたしたちは奉献されたわたしたちの神殿とそこで執行される昇栄に不可欠な儀式を大切に思っています。天と中央幹部の兄弟たちに感謝しています。さらに多くの神殿が建設され,さらに多くの会員が神殿を利用できるようになっているからです。神殿は神の王国にあってまさに最も聖く,最も神聖な建物であり,わたしたち全員ができる限りふさわしい状態で,またできる限り頻繁に参入すべき場所です。

しかし,今晩お伝えしたいメッセージは,どのような状況に置かれていても,必要なときに,神聖で,啓示を与えられる経験,深遠な教えに満ちた経験ができるということです。もう少し強い表現を使わせてください。人生で最も悲惨な経験の中にあっても,すなわち最悪の状況でも,最大の苦痛をもたらす不法行為に耐えているときでも,また,いまだかつて直面したことのない克服不可能と思える障害や反対に直面しているときでも,神聖で,啓示を与えられる経験,深遠な教えに満ちた経験ができるのです。

しばらくの間,このような事柄について話しましょう。霊的に言えば,わたしたちは皆,何らかの形で,大きいか小さいか,劇的か月並みかの違いはあっても,しばらくの間,リバティーの監獄で時間を過ごすことになります。自分の落ち度ではなかったとしても,様々な理由で自分が直面したくない事柄に直面するものです。まったく正当な理由,主の戒めを守ろうと努力しているからこそ生じる理由で困難な状況に直面することもあります。迫害に直面することがあるかもしれません。心痛や愛する人との別離に耐えなければならないかもしれません。空腹や寒さ,孤独を経験するかもしれません。そうです,わたしたちは皆,自らの人生が終わるまでに,預言者たちが幾度となくその人生で直面したような事柄のいくばくかを経験する機会があるのです。とは言っても,1838年から1839年の冬がわたしたちに教えてくれるのは,すべての経験は,たとえつらくとも,天の御父にいつもつながっているならば,贖いを実感する経験になるということです。これらのつらい教訓が教えてくれるのは,わたしたちの窮地を神は機会として用いられるということ,もし,わたしたちが謙遜で忠実であれば,また,わたしたちが信じる者となり,自分の問題のために神を呪うようなことがないならば,不公平で非人間的で,人を落胆させる人生の牢獄を神殿に,あるいは少なくとも慰めと啓示,神の臨在と平安をもたらす状況に変えられるということです。

もう少しはっきり言いましょう。わたしはたった今,困難な時期はわたしたちにも起こり「得る」と言いました。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,預言者ジョセフ・スミスの甥の息子,監禁されたハイラムの孫息子に当たりますが,1963年にリバティーの監獄を奉献したとき,わたしよりもさらに強い表現を用いました。彼は,わたしが今まで概説したような歴史について語り,自分の祖父や大叔父が不当に拘留されたときの情景に思いをはせながら,そのようなことは,起こる「必要があった」と述べました。こう語っています。「当時の歴史,それ以前の歴史,その後の歴史を読んでわたしは一つの結論に到達しました。あの苦難,あの迫害,そしてほとんど至る所で起こった〔当時の教会に対する〕あの反対は,必要だったのです。それらの経験は,結局のところ,わたしたちの民にとって学校の教師のような役割を果たしたのです。〔彼らが〕強くなる助けとなったのです。」10

リバティーの監獄から学べる教訓

さて,わたしたちの人生経験のうち,「必要なもの」はどれで「自由に選択できるもの」はどれかといった判断はせずに,もちろんどれも最終的にはわたしたちのためになりますが,リバティーから学べる「教訓」をほんの少しだけ提示したいと思います。それは,ジョセフにとって「学校の教師」の役割を果たした経験であり,わたしたちにとってもそうなり得る経験,現世での教育と永遠の世界における昇栄にとても役立つ経験です。

これらの教訓を選ぶに当たって,この逆境からもたらされる別の祝福について話しましょう。今晩,皆さんに伝えるメッセージの中で明らかにしようと思っている点を強調するために,ジョセフ・スミスの唇から直接発せられた啓示の言葉,現在,教義と聖約の中で聖文として認可されている言葉をそのまま引用しました。わたしには「いちばん好きな聖句」などといったものはないと思います。好きな聖句があまりにもたくさんあるのです。ですから,一つか二つの聖句を選べと言われても無理な相談です。しかし,確かに,大好きな聖句のリストがあるとしたら,リバティーの監獄の暗黒の中で書かれた聖文をその中に含めなくてはならないでしょう。

わたしたちが瞬時にして学べることは,神はあの牢獄という環境でジョセフ・スミスだけに教えておられたのではないということです。神はわたしたち全員に,そして,これから生まれてくるすべての世代の人々に教えておられたのです。これらの聖文は何とすばらしい贈り物でしょうか。また,そのために何と大きな犠牲が払われたことでしょうか。もし,教義と聖約の121章,122章,そして123章がなかったとしたら,末日聖徒の生活はどれほど虚しいものとなるでしょうか。もし,皆さんが,最近これらの章を読んでいないとしたら,今晩,あるいは明日,読んでほしいと思います。それ以上,引き延ばさないでください。これは皆さんへの宿題です。後でチェックしますからね。これらの聖文が記されているのは,全部でたったの6ページです。しかし,これらの6ページは,その美しさと力強さで皆さんの心を揺り動かしてくれるでしょう。また,神はしばしば「不思議な方法で御自身の奇跡的な業を行われる」11ということを思い出させてくれるでしょう。いずれにせよ,響きにおいても内容においても,ほんとうに清らかで,気高く,慈愛に満ちたこれらの神聖な言葉や教えを与えることによって,確かに,神は逆境を祝福に変えられました。このような聖文が,あれほど不潔で,卑劣で,無慈悲な状況から生まれたのです。

1. すべての人は試練に直面する

それでは,リバティーの監獄から得られる3つの教訓です。第1の教訓は,わたしがすでに述べた事柄に含まれていると言ってもいいかもしれません。それはつまり,すべての人,特に義にかなった人々は試練に直面するよう求められるということです。そうなったときに,自分は神から見捨てられたのではないか,放っておかれるのではないかと,少なくとも,しばらくの間,不安に思うことがあります。そして,自分たちの問題は果たしていつ終わるのか心配します。ジョセフ・スミスは,どうしてこのような悲しみに見舞われなければならないのか,どのくらい長くその暗闇と被害が続くのか尋ねましたが,個人,家族,地域社会,国家,それぞれのレベルで,恐らくだれもが,彼と同じような気持ちを感じたことがあるでしょうし,これからもあるでしょう。わたしたちは,監禁されていることによる絶望の淵から叫ぶジョセフと自分を重ね合わせます。「おお,神よ,あなたはどこにおられるのですか。あなたの御手はいつまでとどめられ,……まことに,おお,主よ,〔あなたの民が〕どれほど長くこれらの不当な扱いと不法な虐げを受ければ,……あなたの胸は彼らに対する哀れみの情に動かされるのですか。」(教義と聖約121:1−3)

それは,わたしたちが人生のいずれかの時期に感じるであろう霊的な孤独であり,つらい,心の底からの叫びです。

皆さんの中には,若くしてそのような時期を経験した人がいるかもしれません。もしそうだとしたら,その経験があまり多くないようにと祈ります。しかし,このような窮地の瞬間が訪れても,決して,神は自分をお見捨てになったとか,神は自分の祈りを聞いてくださらないのではないかという不安に負けてはなりません。神は実際にわたしたちの祈りを聞き,わたしたちを見守り,愛しておられるのです。大変な状況に置かれ,「あなたはどこにおられるのですか」と叫びたいときに,覚えておく必要があります。神はまさしくわたしたちのすぐそばにおられるのです。実は,いつもわたしたちのすぐそばにおられたのです。ですから,たとえ祈りがしばらくの間聞かれず,神がなぜか姿を消しておられるように感じるときでも,続けて信じ,信仰を持ち,祈り,天に懇願しなければなりません。神はそこにおられ,わたしたちの祈りを実際に聞いておられるのです。また,わたしたちが涙を流すとき,神も,そして天使たちも,わたしたちと一緒に,涙を流しておられるのです。

孤独で冷たくつらい時が訪れても,わたしたちは努力を続け,最後まで堪え忍ばなければなりません。しつこいやもめのたとえ話で救い主がお伝えになろうとしたメッセージもこれと同じです(ルカ18:1−8参照;ルカ11:5−10も参照)。扉を叩き続けてください。懇願し続けてください。そのうちに,神があなたの叫びを聞いてくださり,あなたの苦悩を知ってくださっているということが分かるでしょう。神はあなたの御父であり,あなたは神の霊の子供なのです。

起こるべきことが起こり,学ぶべきことを学んだら,預言者ジョセフにとってそうであったように,すべてが自分の益となるでしょう。ジョセフは,最も孤独に感じたとき,神が自分の祈りを聞いておられないと感じたとき,まさしくそのときにすばらしい御霊の導きと,天の御父からの栄光に満ちた答えを受けたのです。耐え難い牢獄の中で,この打ちひしがれたときに,次のように語られる神の声が下ったのです。

「息子よ,あなたの心に平安があるように。あなたの逆境とあなたの苦難は,つかの間にすぎない。

その後,あなたがそれをよく堪え忍ぶならば,神はあなたを高い所に上げるであろう。あなたはすべての敵に打ち勝つであろう。」(教義と聖約121:7−8)

自分たちが敵と見なす人々からだけではなく,時には友人と思っていた人々から,不公平と思われる扱いを繰り返し受けるようなことがあっても,また,身に覚えのない不当な仕打ちを受けることがあっても,それでもなお,そのようなときもずっと,神はわたしたちとともにおられるのです。だからこそ,今晩,わたしたちのすばらしい合唱隊にサラ・アダムズの伝統的な古いクリスチャンの賛美歌「神よ,あなたに近づきます」を歌ってもらったのです。4番の歌詞にこうあります。

冷たい悲しみの石,
その石でわたしは神の宮を造ろう。
そう,苦悩の中にあってこそ,
神よ,あなたに近づきます。12

地上におけるこの小さな牢獄に捕らわれていても,わたしたちは独りではありません。苦しんでいても,実際には,これまでの人生で最も神に近くなっているということがあるのです。そのような知識は,同じような状況をすべて神殿での経験のようなものに変えてしまう力があるのです。

現世の旅に関して,主は次のように約束されました。「わたしはあなたがたに先立って行こう。わたしはあなたがたの右におり,また左にいる。わたしの御霊はあなたがたの心の中にある。また,わたしの天使たちはあなたがたの周囲にいて,あなたがたを支えるであろう。」(教義と聖約84:88)これは,困難の渦中にあるわたしたちへの神の愛と配慮に関する永遠の宣言です。

2. ふさわしい人も苦しみを受ける

第2に,わたしたちは次のことに気づく必要があります。それは,つらいこと,時には,不公平なこと,不当と思われるようなことが起こったからといって,自分は義にかなっていない,あるいは自分は祝福を受けるにふさわしくない,あるいはまた,神は自分に幻滅しておられるというわけではないということです。もちろん,罪深い行いは苦しみをもたらし,その行為に対する唯一の解決策は悔い改めしかありません。しかし,苦しみが義にかなった人々にやってくることもあるのです。皆さんはリバティーの監獄におけるどん底の状態からそのことを思い出すでしょう。ジョセフは,自分が文字どおり「苦難の中に投げ込まれ」たこと,艱難を経験したこと,偽りの罪状で告訴されたこと,自分の家族から引き離され,穴の中に投げ込まれこと,殺人者の手に渡されたことに思いを向けていました。それにもかかわらず,ジョセフは同じことが世の救い主にも起こったことを思い出しました。救い主が勝利者となられたように,わたしたちもそうなる必要があります(教義と聖約122:4−7参照)。わたしたちが救い主の経験をありのままに思い出せるようにとリバティーの監獄で与えられた啓示にはこう記されています。「人の子はこれらすべての下に身を落とした。〔つまり,ジョセフとほかの兄弟たちが直面していたすべての事柄よりもさらに卑しめられ,深く傷つけられ,落胆させる状態です。〕あなたは人の子よりも大いなる者であろうか。」(教義と聖約122:8)

確かにジョセフ・スミスは救い主よりも大いなる者ではありませんでした。それはわたしたちについても言えます。わたしたちは救い主に従い,主の足跡を踏み行い,主の弟子になると約束するとき,その神聖な道が行き着く先を目指すと約束しているのです。そして,救いの道はいつの時代にもゲツセマネに続いているのです。したがって,救い主がそのような不法と落胆,迫害と不義,苦しみを経験なさったのであれば,また,わたしたちが依然として自分自身を主の真の弟子,忠実な信奉者と呼ぶ気持ちがあるのであれば,自分たちは例外的にそのような経験をすることはない,などと期待することはできないのです。そしてこのことは一つの事実をはっきりと示しています。救い主は義の象徴のような御方であり,神の前に非の打ち所がないほどにふさわしい義人ですが,そのような御方でも苦しみを経験するということです。

実に,イエスは贖罪の過程で,わたしたちがそれほど激しく,それほど深く直面する必要がないように,アダムとエバからこの世の終わりに至るまでのすべての人類家族が経験した,あるいは経験する,あらゆる種類の心痛と悲哀,あらゆる種類の落胆と不法を経験されました。このことは,わたしたちにとって偉大な教義的慰めを与えてくれる事実です。わたしたちの重荷がどれほど重くても,救い主がわたしたちの前にその道を歩んでくださっていなかったとしたら,わたしたちとともに,わたしたちに代わって担ってくださらなかったとしたら,もっと大きな重荷となることでしょう。

ジョセフが預言者の職にあった初期のころに,救い主は次の教義を教えられました。強烈で耐え難い苦しみについて語られた後,イエスはこう言われたのです。「神であるわたしは,すべての人に代わってこれらの苦しみを負い,人々〔あなた,わたし,すべての人々〕が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。」(教義と聖約19:16)苦痛と試練を受けているときに,わたしたちは震えおののき,状況はもっと悪くなるのではないかと考えるかもしれません。しかし,その恐れに対する答えは明らかです。何もしなければ,状況はもっと悪くなる可能性があります。しかし,わたしたちの信仰と悔い改め,そして神聖な贖罪を提供してくれる福音に対する従順を通してのみ,もっと悪くなるのを避けることができるのです。

さらに注目すべきことは,まったく罪のない救い主だけが苦しまれたのではなく,ほとんどの預言者,また聖文に記されている他の偉大な人々も同様に苦しんだということです。だれでもかまいません,旧新約聖書やモルモン書の預言者,わたしたちの神権時代を含むあらゆる神権時代の預言者の名前を挙げてください。きっと難しい問題に直面したはずです。

わたしが言いたいこと,それは,つらい目にあっているときには仲間がたくさんいるということです。ほんとうにすばらしい仲間,最上の仲間がともにいるということです。

でも,誤解しないでください。悲しみを求める必要はありません。殉教者という境遇を求める必要はありません。厄介な問題というものは,たとえ求めなくても,わたしたちに降りかかってくるものだからです。しかし,(霊的な意味で)リバティーの監獄がしばらくの間,自分を待ち受けていると分かったときには,あの牢獄の神殿でジョセフ・スミスに教えられた最初の二つの真理を思い出してください。第1に,神はあなたをお忘れになってはおられません。第2に,救い主は,あなたが今いる所に,かつておられたことがあります。救い主にあなたを救出する機会を与えてください。

預言者イザヤが記しているように,主は,あなたをその手の平に彫り刻まれたのです。まさしくそのかさぶたの部分にローマの釘というペンで永久に削除できないような方法で書き込まれたのです。御父と御子は苦しみの中でほかならぬあなたのために代価を払われたのです。あなたをお忘れになることも,お見捨てになることも絶対にありません(イザヤ49:14−16参照;1ニーファイ21:14−16も参照)。御二方は,あなたの望みを条件に,あなたの勝利を計画し,準備し,保障されたのです。ですから信じる者になってください。「よく堪え忍」んでください(教義と聖約121:8)。そうすれば最終的に,すべては「あなたの益となる」(教義と聖約122:7)でしょうし,「永遠の主権」が,とこしえにいつまでも「強いられることなく」あなたに流れ込むのを目の当たりにすることでしょう(教義と聖約121:46)

3. 穏やかで,忍耐強く,慈愛に満ち,寛容であり続ける  

第3に,そして今晩の話の最後になりますが,皆さん,思い出しましょう。このようなつらい気持ちを抱いているときには,怒りや反感,復讐心を抱き,目には目を,歯には歯をもって報いたいと思っても当然かもしれませんが,リバティーの監獄という神殿から,主は次のことをわたしたちに思い起こさせられました。「神権の権利は天の力と不可分のものとして結びついており,天の力は義の原則に従ってしか制御することも,運用することもできない。」(教義と聖約121:36)したがって,たとえそのような人生の窮地に立たされていても,神や人間,友人や敵に打ってかかりたいと思うときでも,次の言葉を忘れてはならないのです。「いかなる力も影響力も,神権によって維持することはできない,あるいは維持すべきではない。ただ,説得により,寛容により,温厚と柔和により,また偽りのない愛により,……これらは,偽善もなく,偽りもなしに,心を大いに広げるものである。」(教義と聖約121:41−42。強調付加)

預言者ジョセフ・スミスの偉大さ,気高い世の救い主をはじめすべての預言者の偉大さ,それらはわたしにとっていつもすばらしい証でした。彼らは大きな苦悩と困難の渦中にあっても,常に穏やかで,忍耐強く,慈愛に満ち,寛容であり続けることができました。言葉はもちろんのこと,行いにおいても,そのような資質を発揮しました。そのような力があっただけでなく,実際,そのように行ったのです。聖約を覚え,自らを訓練し,都合のいいときだけでなく,物事が順調に運んでいるときだけでなく,いつどんなときでも福音に従って生きなければならないことを知っていました。実際,わたしたちの信仰,わたしたちのクリスチャンとしての資質がほんとうの意味で試されるのは,物事が順調に運んでいないときだということを知っていたのです。そのようなときこそ,自分は本質的にどのような人間なのか,自分の福音に対する献身はほんとうのところどれほど強いのかが分かるのです。

確かに,その典型的な例は,十字架上の最も苦しいときに発せられた救い主の言葉に見いだせるでしょう。「父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。」(ルカ23:34)自分が苦しいときに,このような願いを口にするのは難しいことです。自分が傷ついたとき,あるいは疲れているとき,いらいらしているとき,何の罪もないのに苦しめられているときに,このような赦しを実践するのは難しいことです。しかし,このようなときこそ,クリスチャンとしてどのような行動を取るかが最も問われるのです。思い出してください。「天の力は義の原則に従ってしか制御することも,運用することもできない。」そのような苦しいときにこそ,天の力を必要とするのではないでしょうか。ジョセフはこの牢獄の神殿で教えを受けました。それと同様,わたしたちも苦悩と悲哀のときにこそ,教えを受けなければならないのです。「〔わたしたちの〕心が,すべての人に対して,……慈愛で満たされるようにしなさい。……そうするときに,神の前において〔わたしたちの〕自信は増し,……聖霊は常に〔わたしたちの〕伴侶とな〔る。〕」(教義と聖約121:45−46)

クリスチャンとしての原則に忠実であり続けることが,神の力によって助けを受ける唯一の方法です。憎しみ,怒り,復讐心,あるいは自己憐憫でいっぱいの心に御霊が注がれるのはほとんど不可能なことです。それらの感情はすべて,御霊とは相容れないものです。一方,慈愛,寛容,忍耐,親切といった真の弟子に求められる原則に忠実であろうとする心に,御霊は一瞬にして注がれます。何という証でしょう! 福音の原則は,どんなときにも,どんな状況にあっても応用できるのです。そして,いつも忠実であろうと努力するならば,どれほど厳しい状況に置かれていても,クリスチャンの生活からもたらされる勝利に終わりはないのです。皮肉なことに,そのような卑劣な扱いを受けている状況や時期に,威厳を放つこれらの格調高い日の栄えの教えが教えられたということは何とすばらしいことでしょう。

すべてのことを喜んで行う

リバティーの監獄から得られる教訓の数々,その最後として,これまでに述べた3つの章の最後の章の最後の節に触れたいと思います。リバティーの監獄での経験に関するこの最後の聖句の中で,主は預言者ジョセフ・スミスを通じて次のように語っておられます。「したがって,親愛なる兄弟〔そして姉妹〕たちよ,〔最も困難なときでも〕わたしたちの力のかぎりすべてのことを喜んで行おう。そして願わくは,その後,わたしたちがこの上ない確信をもって待ち受けて,神の救いを目にし,また神の腕が現されるのを見ることができるように。」(教義と聖約123:17。強調付加)

牢獄の神殿から最後に何と途方もなく楽観的で信仰あふれる宣言が発せられたことでしょう。ジョセフは,これらの行を書いたとき,いつ自分が釈放されるか,あるいは,果たして自分は釈放されるのか知らなかったのです。ジョセフの敵は依然として彼の命を奪おうと計画していました。その気配は至る所にありました。さらに,ジョセフの妻と子供たちは孤独で,恐怖におののき,いつも空腹で,夫も父親もいない状態でどうやって自活すればよいのか分からずにいました。聖徒たちも,家と預言者を奪われていました。ミズーリ州を離れ,イリノイ州へと向かっていましたが,そこでどのような悲劇が待っているかだれも知りませんでした。繰り返しになりますが,確かに,それは最も寒々とした暗い時期のことでした。

しかし,このような寒く孤独なときに,ジョセフは自分たちにできることはすべて行おう,それも喜んで行おうと語ったのです。そうすることで,わたしたちは当然のこととして主に頼り,主の憐れみを待ち,神の腕が自分たちのために現されるのを見ることができるのです。

順調なときも,逆境のときも,また悲しみのときも,喜びのときも,何とすばらしい態度を持ち続けたことでしょう。

祝福と証

愛する若い友人の皆さん,今晩最後に証を述べるに先立って,皆さんに祝福を残したいと思います。このような形で使徒としての証が世界中に宣べ伝えられる中で,わたしたち使徒には二つの機会,そして恐らく,二つの義務があるように思います。その一つは,これまでお話しする中でもそうしようと努めてきましたし,これからお話を終わるに当たってもそうするつもりですが,証をすることです。もう一つは,祝福することです。古代の使徒たちも,救い主から御自身と同様,祝福を施すよう呼びかけられたときに,たとえそれが全世界に住む人々を対象とするものではなかったにしても,祝福しました。

ですから,この巨大なホールであれ,世界中のどこであれ,今晩この集会に集っている皆さん一人一人を祝福します。皆さん一人一人,それぞれ異なる環境に置かれている皆さん一人一人を祝福します。わたしの両手は皆さんの頭に置かれていると思ってください。証を述べるときと同様,心に感じるそのままを祝福として残します。神が実際に皆さんを愛され,皆さんの祈りを聞かれますように,神が皆さんのそばにおられ,皆さんから決して離れられることがないように,主の御名によって祝福します。

兄弟の皆さんが,授かっている神権にふさわしく生活できるように,また,偉大な神権,聖なる神権,神の御子の神権にならって召された弟子として,忠実に人生を歩むことができるように祝福します。わたしたちが文字どおり主に似た者となることができるように,以前にも増して主のように考え,主のように語り,主のように御業を推し進めることができるように祝福します。兄弟の皆さんが忠実であろうと努力し,神権によってもたらされるすべての祝福を受けられるように祝福します。この神権の祝福の多くは,教義と聖約の該当箇所から今晩引用しました。

この集会に集うすべての姉妹たち,わたしの声を聞いているすべての姉妹の皆さんを祝福します。わたしたちが皆さんをどれほど大切に思っているか,神が皆さんをどれほど大切に思っておられるか,教会の設立以来,どれほど多くの信仰の旗が姉妹たちの手で掲げられてきたか,皆さんに知ってもらいたいと思います。あらゆる世代において,すなわち,時の初めから現在に至るまで,また,未来にわたって,変わることがないと思われる事柄があります。それはどのような苦難の中にあっても,また,自らに課せられる様々なリバティーの監獄のような試練の中にあっても,信仰のたいまつ,すばらしい人生の旗印を掲げる人々,福音の原則を,たとえそのためにどこへ連れて行かれようとも,擁護する人々は,多くの場合,ほかならぬわたしたちの祖母,母,妻,娘,姉や妹,孫娘といった女性だということです。姉妹の皆さん,わたしたちは皆さんを愛し,皆さんを尊び,皆さんを祝福します。皆さんの心に抱く義にかなった望みがすべて聞き届けられますように,また,皆さんがこのディボーショナルの会場から帰路に就くときに,神と天と教会の中央幹部がどれほど皆さんを愛し,尊んでいるかという確固とした理解と知識をもって帰ることができますように祈っています。

このすばらしい教会教育システムの集会に集うヤングアダルトの皆さんを,わたしはたたえます。未来は皆さんの手の中にあります。わたしの世代の人々は,ごく近い将来,皆さんにバトンを渡すことになります。今晩お話しした勇気,正直,そして高潔さをもって,皆さんがそのような時を迎えられるよう,神が祝福されますように。

最後に,御父と御子が確かに生きておられることを証します。そして,御二方とわたしたちの距離は,わたしたちが困難な時期を経験しているときにこそ,聖なる御霊を通して近くなるということ,いや,恐らく,最も近くなるということを証します。何が起ころうとも,預言者イザヤの言葉が引用された閉会の賛美歌にもあるように,「天の思いやりは決してわたしたちを離れることはない」ということを証します(イザヤ54:7−10。3ニーファイ22:7−10も参照)。逆境には終わりがあり,信仰はいつも勝利を得,天の約束は必ず守られることを証します。神がわたしたちの御父であり,イエスがキリストであること,この福音は,まことの生ける教会でのみ見いだせる,まことの生ける福音であることを証します。トーマス・S・モンソン大管長が,現代における神の預言者であることを証します。わたしは皆さんとともにモンソン大管長を愛し,支持します。わたしの若い友である皆さん,リバティーの監獄という「牢獄の神殿」で主はこう言われました。「あなたの道に踏みとどまりなさい。……恐れてはならない。とこしえにいつまでも,神はあなたとともにいるからである。」(教義と聖約122:9)イエス・キリストの御名によって,アーメン。

1. History of the Church, 第3巻,190−91

2. アレクサンダー・マクラエ, A Comprehensive History of the Church, 第1巻,521

3. History of the Church, 第3巻,290

4. アイザック・ガーランドへの手紙,1839年3月22日付, Personal Writings of Joseph Smith, 改訂版,ディーン・ C・ジェシー (2002年), 456

5. コールドウェル郡の教会への手紙, 1838年12月16日付,“Communications,”Times and Seasons, 1840年4月号, 85

6. エマ・スミスへの手紙, 1839年3月21日, Personal Writings, 449

7. エマ・スミスへの手紙, 1839年4月4日, Personal Writings, 463, 464;現代の標準的な表記に合わせて一部変更

8. Comprehensive History, 第1巻,521, 章見出し参照。526も参照

9. 例として“A Choice Seer,”Ensign, 1986年8月号, 12参照

10. “Text of Address by Pres. Smith at Liberty Jail Rites,” Church News, 1963年9月 21日付 , 14;強調付加

11. “God Moves in a Mysterious Way,” Hymns, 285番

12. Hymns, 100番; 強調付加

 
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