ワールドワイド・ディボーショナル
目的をもって生活する―「真心から」行うことの大切さ


目的をもって生活する―「真心から」行うことの大切さ

ランドール・L・リッド兄弟との夕べ ヤングアダルト対象のワールドワイド・ディボーショナル・2015年1月11日・ブリガム・ヤング大学アイダホ校

今晩皆さんとともに集えることをうれしく思います。今晩この場に妻も参加させていただき光栄です。携帯電話は物知りで,わたしが今日レックスバーグに来る予定であることをちゃんと分かっていました。今日の天気予報や,市内のホテルやレストランや,さらには今週末にレックスバーグで行われる目玉のイベントまで教えてくれました。

そういえば,わたしのお話はその中に入っていませんでした。さすがスマートフォンですね。

スマートフォンの推奨イベントではありませんでしたが,皆さんは今晩わたしと過ごすために,二度と取り戻せない1時間を割いてくださいました。ですからわたしは,この時間を価値あるものにする重大な責任を感じています。ですが,わたしが申し上げることは,御霊が皆さんに教えてくださることほど重要ではないことも知っています。そして,御霊の教えと唯一同等に重要なのは,その促しに従って行動しようと決意することです。

今はすばらしい時代だという意見に異論はないと思います。社会学者はその昔,わたしの世代を「ベビーブーマーズ」「次世代」「X世代」と名付けましたが,皆さんの世代は「Y世代」「ミレニアル世代」と呼ばれています。皆さんはいとも簡単に科学技術を使いこなし,ソーシャルメディアを取り入れ,これまでになく賢く,教養もあります。そのような特徴を備えた皆さんは,現代社会のみならず主の業を行ううえでも貴重な存在です。

皆さんはこれまでになく多くの選択肢と機会に恵まれています。他の物事と同様,このことは祝福でもあり問題の種でもあります。あまりにも多くの選択肢があり,悪い選択をすることを恐れるあまり,「選択麻痺」にかかってしまうことがよくあります。これは皆さんの世代が抱える課題の一つです。一つのことに気持ちを集中させることがこれまでになく難しいのです。科学技術があるために,何かを買っても,程なく旧式になってしまうことがよくあります。あまりにも多くの人が,もっと良い選択肢がすぐそばにあるかもしれないと思うあまり,なかなか決断できずに待ち,結局は何も選ばずに終わってしまいます。このような消極的な状態にあると,注意散漫になります。兄弟姉妹の皆さん,今晩はその対抗手段についてお話ししたいと思います。目的をもって生活することと真心から行うことの大切さについてお話しします。

I.目的

自分が海で救命ボートに乗っている様子を想像してみてください。四方八方からうねりながら押し寄せてくる波のほかには何も見えません。ボートにはオールが備えつけてありましたが,どの方向に漕いでよいかわかりません。そのとき,陸がかすかに見えました。ようやく行くべき方向が分かりました。陸が見えたことで,動機と目的が生まれるのではないでしょうか。明確な目的意識を持ち続けない人は,漂流者です。漂流者は,この世の潮流の赴くままに進みます。

レオ・トルストイ

『戦争と平和』の著者であるロシア人の偉大な作家,レオ・トルストイの生涯は,このことを物語っています。レオ・トルストイは大変な青少年時代を過ごしました。13歳ごろに両親を亡くし,兄たちから酒とギャンブルと女遊びを教え込まれたレオは,勤勉な学生ではありませんでした。22歳のときに,自分の人生には本当の目的がないと感じ始め,「わたしは獣のような生活を送っている」と日記に書いています。2年後,「24歳になったのにまだ何も成し遂げていない」と書きました。この不満を発端に,トルストイは人生の目的,つまり「なぜ」の部分を,おもに試練と過ちを通して生涯をかけて捜し求めました。82歳で亡くなる前に,トルストイは日記に次の結論を書きました。「人生の本当の意味と喜びは……完全を目指すことと,神の御心を理解することにある。」1わたしはこれに,「神の御心を行うこと」を付け加えたいと思います。

「人生で最も重要な二つの日は,生まれた日と,人生の目的を見いだした日である」と言われています。2わたしたちには福音があるので,生涯をかけて人生の目的を探す必要はありません。その代わりに,その目的を果たすことに焦点を当てることができます。

マタイによる福音書5章48節にはこうあります。「それだから,あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい。」

人には,より善い人間になりたいという望みが生来備わっているように思います。しかし,人は過ちを犯すため,多くの人が完全という目標に到達することはできないと思い込んでいます。贖いがなかったとしたら,そのとおりでしょう。しかし,救い主の犠牲により,人は完全になることができます。「まことに,キリストのもとに来て,キリストによって完全になりなさい。神の御心に添わないものをすべて拒みなさい。もしあなたがたが神の御心に添わないものをすべて拒み,勢力と思いと力を尽くして神を愛するならば,神の恵みはあなたがたに十分であり,あなたがたは神の恵みにより,キリストによって完全になることができる。」(モロナイ10:32,強調付加)

救い主が与えてくださった希望のおかげで,わたしたちは天の御父のようになろうと努力します。レオ・トルストイが見いだしたように,完全に至る過程には喜びがあります。主の御心に従おうとするときに,人生に偉大な目的が生じます。

タッド・R・カリスター長老はこのように尋ねました。「聖文をはじめとする数々の証が教えている,わたしたちの歩む神聖な行く末について正しく理解することはなぜ大切なのでしょうか。それは,理解が増すことで,やる気も増すからです。」3

使命

わたしは若い男性だった頃,危うく伝道に出ないと決心するところでした。大学で1年,軍隊で1年過ごしたわたしは,エックス線技師として地元の病院で良い仕事に就いていました。ある日,その病院の外科医であるジェームズ・ピングリー医師に昼食に誘われました。話しているうちに,ピングリー医師はわたしが伝道に行こうとしていないことを知り,その理由を尋ねました。わたしは,伝道に出るには年を取っているのできっと遅すぎると思うと話しました。彼は,それは十分な理由ではない,自分は医大を卒業してから伝道に行った,と言いました。そして,伝道の大切さについて証をしてくれました。

ピングリー医師の証から大きな影響を受け,わたしは初めて真心から祈りました。伝道に出ない理由は幾つも思いつきました。とても恥ずかしがりやだったので,伝道に出る前の聖餐会で最後の話をするだけでも十分行かない理由になりそうでした。好きな仕事もありましたし,伝道後には受けられない奨学金を受けられる見通しもありました。何より,軍隊に入っている間わたしを待っていてくれたガールフレンドがいました。あと2年も待ってはくれないでしょう。わたしは何度も祈り,これらの理由が正当でもっともであるという確認を得たいと思いました。

困ったことに,欲しいと思っていた,簡単な二者択一の答えは得られませんでした。ある思いが湧きました。「主はあなたに何をするよう望んでおられるのですか。」わたしは,主が伝道に出るよう望んでおられることを認めざるを得ませんでした。それは,人生の決定的瞬間になりました。自分がしたいことをするか,主の御心を行うか。これはだれもが頻繁に自問すべきことです。このすばらしいパターンを人生の早いうちに確立できたらどんなによいでしょう。多くの場合,わたしたちは「愛する主よ,あなたが望まれるならどこへでも行って何でもします。ただし,わたしの好みに合えばですが」という態度を執ってしまいます。

おかげで,わたしは伝道に出ることに決め,メキシコ北伝道部で働くよう割り当てを受けることができました。気になっている方のために言い添えますが,そのガールフレンドは待っていてはくれませんでしたが,結局結婚しました。彼女はわたしの人生最大の祝福の一つです。人生の目的は天の御父のようになることだと知り,結婚して家族を持ち,神がその子供たちに対して抱いておられる愛について学ぶことに勝る学び舎はないことが分かりました。このことから,わたしが皆さんであったら,この学び舎に入るためなら何でもするでしょう。早期入学手続きは今からできると思います。

II. 真の目的

息子はしゃべり始めたばかりのころ,好奇心旺盛でした。限られた語彙のうち,息子は「なんで?」という言葉を気に入っていました。「さあ,寝る支度をする時間だよ」とわたしが言うと,「なんで?」と答え,

「仕事に行ってくるよ」と言っても

「なんで?」

「お祈りしよう。」

「なんで?」

「教会に行く時間だよ。」

「なんで?」といった調子でした。

かわいかったのは最初の500回まででした。聞き飽きてくると,少々腹立たしく思うようになりましたが,それでも自分のあらゆる行いの(文字どおり)裏にある「なぜ」を吟味することを度々思い出させてくれることに感謝していました。

皆さんの世代の名前についているYの文字の重要性については知りませんが,物事の「Why」(ワイ。「なぜ」)を考える世代になることには価値があると思います。この時代にあって,自分が行うことの理由に意識を向けることは大切です。

真心から生活するとは,物事の「なぜ」を理解し,自分の行動の裏にある動機に気づくことです。ソクラテスは「吟味されざる生に,生きる価値なし」4と言いました。自分がどのように時間を使っているかを考え,定期的に「なぜ」と自問してください。そうすることにより,未来を見据える力を高めることができます。将来に目を向けながら「なぜこれをするのだろう」と考えることは,過去を振り返って「なんであんなことをしてしまったのだろう」と思うよりもはるかに良いでしょう。もし神が望んでおられるからという理由しかないとしても,それは十分な理由です。

わたしはセミナリーに通っていた若い頃に真の目的の大切さを学びました。教師からモルモン書を読むようチャレンジされたときのことです。教師はわたしたちの進捗状況を記録するために表を作り,縦に生徒の名前を書き出し,一番上の行にモルモン書の各書の名前を書きました。各書を読み終えるごとに,自分の名前の横に星がつけられました。最初,わたしはあまり熱心に読んでいませんでしたが,程なく,自分がどんどん遅れていっていることに気づきました。恥ずかしいという気持ちと生まれながらの競争心にあおられて,わたしは読み始めました。星をもらうたびに良い気持ちがしました。星が増えるごとに,もっと読みたいという気持ちが高まり,授業の合間も放課後も,暇さえあれば読みました。

クラスで一番に読み終えたと言えれば良い話になったのでしょうが,そうはなりませんでした。(びりでもありませんでしたが。)モルモン書を読んで何を得たと思いますか。証だと思うでしょう。でも,違いました。わたしが得たのは星でした。なぜなら,それこそがモルモン書を読む目的だったからです。それこそがわたしの真の目的だったのです。

モロナイは,モルモン書が真実かどうか知る方法を明確に示しました。「また,この記録を受けるとき,これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように,あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら,誠心誠意問うならば,神はこれが真実であることを,聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。」(モロナイ10:4,強調付加)

振り返ってみると,主はわたしをまったく公平に扱っておられたことが分かります。自分が求めていたもの以外のものを見つけることなどどうして期待できたでしょうか。わたしは一度も立ち止まってなぜモルモン書を読んでいるのかを自問しませんでした。わたしはこの世の動機に身をまかせて漂い,その結果,誤った目的のために正しい本を読んだことに気づいたにすぎませんでした。誠心誠意行うとは,正しいことを正しい動機から行うことです。

何年も後に伝道に出るべきか悩んでいたときに,わたしはようやくモルモン書を誠心誠意読みました。モルモン書の証を述べることに2年間費やすならば,まず証がなければならないと思ったのです。

モルモン書は,イエス・キリストの生涯と使命を証するという神聖な目的を果たしています。誠心誠意読んだので,そのことを知っています。

オレンジのたとえ

「オレンジのたとえ」という現代のたとえを紹介しましょう。聞きながら,この話は真心から行うときに生じる力について何を教えているか考えてください。

ある若い男性が,給料の高い一流企業に勤めたいという野望を抱いていました。履歴書を用意し,何度か面接を受け,やがて新入社員として雇われました。すると,彼は次の目標を熱望するようになりました。管理職に昇進し,さらに高い地位と賃金を得たいと思ったのです。そこで,彼は与えられた仕事をこなしました。朝早く出社し,夜遅くまで残業し,長時間働いていることを上司にアピールしました。

5年後,管理職に空きが出ました。しかし,残念なことにこの若者ではなく,その会社に勤めてまだ半年しかたたない別の人が昇進しました。若者は大変怒って,上司のところに行き説明を求めました。

賢明な上司はこう言いました。「君の質問に答える前に,頼みたいことがあるんだ。」

「なんでしょう」と若者は答えました。

「店に行ってオレンジを買ってきてくれないか。妻が欲しがっているんだ。」

若い男性は承知して店へ向かいました。戻って来ると,上司はこう尋ねました。「何という種類のオレンジを買ってきたんだい。」

「分かりません。オレンジを買うように言われたので,とにかくオレンジを買いました。どうぞ」と若者は答えました。

「いくらだった」と上司は尋ねました。

「さあ,覚えていません。30ドル頂きましたね。これがレシートとおつりです」と若者は答えました。

「ありがとう。では,座って注意深く見ていてくれ」と上司は言いました。

すると,ボスは昇進した社員を呼び入れ,同じことをするよう頼みました。社員はすぐに承知して店に向かいました。

帰って来ると,ボスは「どの種類のオレンジを買ったんだい」と尋ねました。

彼の答えはこうでした。「店には,ネーブルやバレンシアオレンジ,ブラッドオレンジ,みかんなど,いろいろな種類が置いてあってどれを買っていいのか分かりませんでした。奥様がオレンジを欲しがっておられるとおっしゃったのを思い出し,奥様に電話しました。奥様は,パーティーで出すオレンジジュースを作るのだとおっしゃいました。そこでわたしは店員に,この中で一番おいしいオレンジジュースを作れるのはどれか尋ねました。店員はバレンシアオレンジはとても甘くみずみずしいと言ったので,それを買いました。会社に戻る途中,ご自宅に寄って置いてきました。奥様は大変喜んでくださいました。」

「いくらだったかね」と上司は尋ねました。

「実は,それがもう一つの問題でした。幾つ買うべきか分からなかったので,もう一度奥様に電話をして,何人お客様が来るか尋ねました。20人とおっしゃったので,今度は店員に,20人分のジュースを作るのに幾つオレンジが必要か尋ねると,たくさん要ることが分かりました。そこで,まとめて買うので安くしてほしいと頼むと,店員は承知してくれました。いつもは一つ75セントですが,50セントの支払いで済みました。これがおつりとレシートです。」

上司はにこりと笑って「ありがとう,もう行ってよろしい」と言いました。

上司は,この様子を見ていた若者を振り返りました。若者は立ち上がり,肩を落とし,「おっしゃりたいことは分かりました」と言って意気消沈して部屋を出て行きました。

この二人の若者の違いは何だったでしょうか。二人ともオレンジを買うように頼まれ,買いました。一人はもう1マイル行ったとか,より効果的だったとか,細かいことに注意を払ったなど,さまざまな見方があるでしょう。しかし,最も大切なのは,形式的に行ったか,真心から行ったかという差です。最初の若者は,お金や地位や名誉を動機としていました。二人目の若者は,雇用主を喜ばせたいという強い望みと,できる限り良い社員になるという内なる決意を動機としており,その結果は明らかでした。

このたとえをどのように自分の生活に当てはめられるでしょうか。常に神を喜ばせ,神の御心を行いたいと望み,神への愛を動機に行動したとしたら,家族や学校,職場,教会などでの取り組みはどのように変わるでしょうか。

III.実践

注意をそらすものを避ける―集中することの大切さ

宿題や仕事をしようとコンピューターの前に座っている間に,最近欲しいと思っていた商品の広告が画面上に現れたことはないですか。そして,オンラインストアを見て回っているうちに,友達がオンラインになっているのに気づいてチャットを始めます。すると今度は別の友達がフェイスブックに投稿したという通知を受け,それを見たくなります。あっという間に貴重な時間を失い,そもそも何のためにコンピューターを始めたのか忘れてしまいます。何かをしようとするときに気をそらされることはよくあります。気をそらされてしまうと,善いことを行うために使う時間がそがれます。集中力は,気をそらすものを避けるうえで役立ちます。

皆さんはテストが好きだと思うので,簡単な集中力のテストをしたいと思います。これから,白と黒の二つのチームが出てきます。バスケットボールをパスしていきますから,白チームが何回パスしたか数えてください。いいですか。

〔意識テストのビデオを再生する〕

何回パスしましたか?

19回だと思う人は手を挙げてください。20回だと思う人。21回だと思う人。22回だと思う人。

正解は21回です。

もう一度見てみましょう。今度は1回目に見ていなかったものに焦点を当ててください。

〔意識テストのビデオをもう一度再生する〕

この映像は後ほどソーシャルメディアで皆さんに公開します。

生活の中で焦点を当てることはとても重要です。このテストが示しているように,わたしたちは通常,探しているものを見つけるものです。聖文にもこうあります。「捜せ,そうすれば見いだすであろう。」(ルカ11:9

この世のことに焦点を当てていると,わたしたちを取り巻くこの霊的な世界全体を見逃してしまいます。わたしたちを導き他の人を祝福するために聖霊がわたしたちに与えようとしておられる霊的な促しに気づけないかもしれません。反対に,霊につけることや,「徳高いこと,好ましいこと,あるいは誉れあることや称賛に値すること」(信仰箇条1:13)に焦点を当てるならば,この世の誘惑や気をそらすものに道をそらされる可能性は低くなるでしょう。気をそらせるものを避ける最善の方法は,目的を見定めて熱心に善いことに携わることです。自分が焦点を当てているものに注意を払ってください。山を登ることに必死になって,間違った山を登っていたことに後で気づくことのないようにしてください。

ささやかなことの持つ力

「焦点を調整」して伝道に出ることにしてから25年後,息子から,メキシコに一緒に行って,できればわたしが教えた人たちを見つけようと誘われました。わたしたちは,わたしの最初の任地だった小さな町の聖餐会に出席しました。誰か知っている人がいるだろうと思っていましたが,一人もいませんでした。集会が終わり,わたしはビショップに,わたしたちが教えてバプテスマを施した人のリストの中で誰か知っている人はいないかと尋ねましたが,ビショップは,自分は会員になって5年しかたっていないので分からないのですと言いました。会員になってから27年になる男性に話してみてはどうかとビショップが提案したので,わずかな可能性に望みを抱きつつ尋ねました。一緒にリストを見ましたが,知っている人はいませんでした。ところが,最後の名前「レオノル・ロペス・デ・エンリケス」まで来たときのことです。

「ああ,そうだ」と彼が言いました。「この家族は他のワードにいるけれど,この建物を使っていますよ。聖餐会は次の時間だから,間もなく来るでしょう。」

10分もすると,レオノルが建物に入って来ました。彼女は70歳半ばになっていましたが,わたしたちはすぐに互いに気づき,涙を流しながら長い抱擁を交わしました。

彼女はこう言いました。「わたしたちは35年間,あなたがいつかここに戻って来るよう祈ってきたのよ。わたしたち家族に福音を伝えてくれたことにお礼を言いたくて。」

彼女の家族が建物に入って来るたびに抱き合い,涙を流しました。目の端に,息子の横に立っている二人の専任宣教師がネクタイで涙をぬぐっているのが見えました。

聖餐会に出席すると,驚くべきことが分かりました。ビショップはレオノルの息子の一人で,伴奏者はレオノルの孫息子,指揮者は孫娘で,さらにアロン神権者の孫息子が数人いて,一人の娘はステーク会長会顧問の妻に,もう一人の娘は近隣のワードのビショップの妻になっていました。レオノルの子供のほとんどは伝道に行き,孫たちも伝道に出たそうです。

レオノルはわたしたちよりもはるかにすばらしい宣教師だったことが分かりました。今,レオノルの子供たちは,レオノルが子供たちに福音を教えるためにたゆみない努力をしてくれたことを思い出し,感謝の念を抱いています。レオノルは子供たちに,什分の一や神殿,聖文学習,祈りと,祈りを信頼する信仰の大切さを教えました。また,小さな決断が,やがて豊かで,義にかなった,幸せな人生をもたらすのだと子供たちに教え,子供たちもそれを他の人たちに教えました。このすばらしい一つの家族のおかげで,500人以上の人が教会に加わりました。これは,主がわたしに伝道に行くことを望まれたたくさんの理由の一つでした。この経験から,主の御心を行おうと努めることが永遠に及ぼす影響を学びました。

きっかけは,昼食時のたわいない会話でした。ピングリー医師が自分の仕事やこの世の他のことにもっと目を向けていたとしたら,なぜ伝道に出ないのかとわたしに尋ねることはなかっただろうと考えることがよくあります。しかし,彼は人々や主の御業を進めることに焦点を当てていました。そして,彼がまいた種は育ち,実をつけ,飛躍的に増え続けています。霊感された思いは善い行いを生じ,善い行いは他の善い行いを生じ,それが永遠に続いていきます。

マルコによる福音書4章20節にはこうあります。「良い地にまかれたものとは,こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ,三十倍,六十倍,百倍の実を結ぶのである。」

ささやかで簡単でありながら目的を持った行いが劇的な結果を生むという考えは,聖典に裏付けられています。アルマは息子ヒラマンにこう教えました。

「小さな,簡単なことによって大いなることが成し遂げられるのである。……

ごく小さな手段によって,主は知者を辱め,また多くの人を救われる。」(アルマ37:6-7

若いときに学ぶべき教訓の一つは,わたしたちが日々行うささやかなことから生じる相乗効果にはすばらしい力があるということです。ささやかで簡単なことはたった今もあなたの生活に,良くも悪くも影響を与えています。主がそのようなことを使ってあなたを高められるのと同じように,サタンもそれらを使ってあなたの気をそらし,ゆっくりと,ほとんど気づかれることなく,道からそらせていくのです。

難しいのは,わたしたちはすばらしい家族や経済的に成功している人,霊的にすばらしい人を見るときに,彼らを形作った簡単な行いの数々を目にするわけではありません。オリンピック選手は目にしますが,彼らをチャンピオンにならしめた,何年にもわたる日々の訓練を見ることはありません。店に行って新鮮な果物を買っても,種をまき,慎重に育て,収穫するところを目にすることはありません。モンソン大管長をはじめとする中央幹部を見て,彼らの霊的な強さと善良さを感じ取りますが,日々繰り返される地味な鍛錬を目にしません。このような鍛錬を行うのは簡単ですが,行わないのも簡単です。特に,結果が即座に表れないためです。

わたしたちはすぐに結果が表れる世界に生きています。種を植えたらすぐに収穫できるのです。すぐに結果を得ることに慣れているあまり,グーグルで質問の答えを得るのに何秒か待たなければならないと,いらいらします。しかし,これらの結果は,何世代もの人たちの努力と犠牲が積み重なった結果であることを忘れています。

アルマはヒラマンに,今日のわたしたちにぴったりの勧告を与えました。リーハイの家族を導いたリアホナと「日々」「行われたほかの多くの奇跡」についてこう語っています。

「それらの奇跡は小さな手段によって行われたため,それは彼らに数々の驚くべき業を示した。ところが,彼らが怠けて,信仰を働かせることと熱意を示すことを忘れると,それらの驚くべき業は止まってしまい,彼らの旅は進まなかった。……

わが子よ,方法が容易だからということで怠けないようにしよう。わたしたちの先祖がそうであったからである。それは先祖のために備えられたもので,彼らがそれを見ていたら生き延びることができたであろう。わたしたちについても同様である。方法はすでに備えられており,わたしたちが見ようとすれば,とこしえに生きることができるであろう。

さて,わが子よ,あなたはこれらの神聖なものを大切にしなさい。神に頼って生きるようにしなさい。」(アルマ37:40-41,46-47

3つのささやかで簡単なこと

「神に頼り」,永遠の目的に目を向け続けるうえで役立つ3つのささやかで簡単なことを強調したいと思います。どれも目新しくはありません。これまでに何度も耳にしていると思います。しかし,これらのことを一貫して,真心から行うことにより,変化が起きるどころか,状況が一変します。これらの簡単な鍛錬の裏にある「なぜ」を本当に理解するならば,必ずこれらを最優先して生活することができるでしょう。

一つ目は,聖餐を取るときに,形式的に行ってしまうことがよくあります。このビデオを見ながら,「覚える」ということに焦点が当てられていることに気づき,覚えることがなぜそれほど重要なのか考えてください。

ジェフリー・R・ホランド長老:特別に準備された最後の過ぎ越しの晩餐が終わるとき,イエスはパンを取り,感謝してこれを裂き,弟子たちに与えて言われました。

イエス・キリスト:これは,わたしの体である。わたしを記念するため,このように行いなさい。この杯は,あなたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。わたしを記念するため,このように行いなさい。

ホランド長老:ゲツセマネとゴルゴタの直前に2階の広間であったその出来事以来,約束の子らはこのようにして,各自がより新しく,高尚かつ神聖な方法で,キリストの犠牲を思い起こすという聖約の下に置かれました。水の入った小さな杯を取り,キリストが流された血と,主の霊的な苦悩と苦痛を思い出します。

裂かれ祝福されたパ ンの一切れから,救い主の傷ついた体と打ち砕かれた心を思い出すのです。

若い祭司によって簡潔で美しい言葉でささげられる聖餐の祈りの中で,わたしたちが耳にする大切な言葉は「覚える」という言葉です。

主を覚えることがわたしたちのおもな務めであるならば,あの貴く明らかな象徴を頂くとき,わたしたちはどのようなことを考えたらよいでしょうか。

イエス・キリスト:これを行いなさい。……それは,あなたがたがいつもわたしを覚えているということを,父に示す証となるであろう。

画面上のテキスト:どのように主を「いつも覚え」ていますか?5

いつも主を覚え,主の戒めを守るときに相乗効果が生じ,どんなに主の御霊を受け,生活のあらゆる分野に影響を受けられるか,考えてみてください。日々の決定や他の人の必要に気づく力にどのような影響がもたらされるでしょうか。

一日の中でいつも救い主を覚えるという約束を守る方法は幾つもあります。皆さんならどのようにいつも主を覚えるでしょうか。

ほとんどの人は「祈り,聖典を読む」と言うでしょう。正解です。ただし,「もし真心から行うならば」という条件がつきます。

祈り,聖文を研究することは,次に強調するささやかで簡単なことです。

主は,惰性でささげる祈りに効果がないことについて明確に述べておられます。「人が真心の伴わない祈りをするならば,それはその人にとって悪と見なされる。そして,それはその人にとって何の役にも立たない。神はそのような祈りを受け入れられないからである。」(モロナイ7:9

祈りの真の目的は,どのような勧告が与えられても従うという意図をもって,天の御父との双方向の対話を始めることです。「あなたのすべての行いについて主と相談しなさい。そうすれば,主はあなたのためになる指示を与えてくださる。まことに,夜寝るときは,眠っている間も主が見守ってくださるように,主に身を託して寝なさい。そして,朝起きるときに,神への感謝で心を満たしなさい。これらのことを行うならば,終わりの日に高く上げられるであろう。」(アルマ37:37

祈りと聖文研究は本来切り離せません。聖文や現代の預言者たちの言葉を研究すると,個人の啓示を受ける用意ができます。聖文の中の例や警告は,わたしたちの望みに影響を与え,わたしたちは主の思いと御心を知るようになるのです。

過去と現在の預言者は,祈りや聖文研究などのささやかで簡単なことを行うよう説いてきました。それなのにやらない人がいるのはなぜでしょうか。おそらく理由の一つは,一日や二日やらなくても必ずしも劇的な悪い結果が目に見えるわけではないためでしょう。歯磨きを1度忘れてもすぐに歯が腐ったり抜けたりするわけでないのと同様です。良きにつけ悪きにつけ,結果の多くは時を経て後でやって来ます。しかし,そのときは間違いなくやって来るのです。

何年も前に,同じ種類で同じ高さの木を2本裏庭に植えました。1本は毎日少し日の当たるところに,もう一方はたっぷり日の当たるところに植えました。翌年,2本の木に成長の差はさほど見られませんでしたが,妻と3年間の伝道を終えて戻って来たときに,その大きな差に愕然としました。毎日少しずつ多く太陽を浴びることにより相乗効果が生まれ,時間の経過とともに木の生長に大きな違いが出たのです。あらゆる光の源に日々触れることにより,わたしたちにも同じことが起こります。すぐに変化は見えないかもしれませんが,変化は心の中で確かに起こっており,やがて結果が表れます。

目的意識をもって真心から日々の鍛錬を行うことにより相乗効果が生まれるという単純な考えは,皆さんの生活のあらゆる領域に大きな違いを生みます。日々の生活に追われていた人が,成功を手にし,造られた目的を果たすことができるようになるのです。

わたしはしばしば自分の人生を振り返って,伝道に出ると決意するのがなぜあんなに難しかったのだろうと考えます。その理由は,わたしが他のことに気をとられ,永遠の目的を見失っていたためです。わたしの望みと意志は主の御心と一致したものではありませんでした。一致していれば,もっと簡単に決断できたことでしょう。では,なぜ一致していなかったのでしょうか。日曜日には教会に行き,聖餐を取っていました。しかし,真心から行ってはいなかったのです。祈ってもいましたが,たいてい形式的なものでした。聖文も読んでいましたが,目的意識を持たずにたまに読むだけでした。

今日話を聞きながら,何かに焦点を当てて意図的に生活するためにどうすればよいかを,御霊のささやきを通して感じたことと思います。どうぞその促しに従ってください。自分が既にしてしまったことややらなかったことを考えてがっかりしないでください。救い主に過去をぬぐい去っていただきましょう。主の言葉を覚えておいてください。「悔い改めて真心から赦しを求めた者は、その度に赦された。」(モロナイ6:8,強調付加)

今から始めましょう。目的意識をもって生活しましょう。日々の鍛錬の相乗効果が持つ力を,生活の重要な領域に及ぼしましょう。1 年後,必ず皆さんは今日始めたことを喜ぶか,あるいはやればよかったと後悔するかのどちらかになります。

その1:できるでしょうか?この3つのささやかで簡単なことを行うことができるでしょうか?「いつも御子を覚え〔る〕」(教義と聖約20:77,79)という聖約を守るために努力できますか。真心から祈り,毎日聖文を学習する時間を作ることができますか。

その2:効果があるのでしょうか?皆さんは主の約束を心から信じていますか。いつも御霊がともにいてくださることから生まれる相乗効果により,生活のあらゆる側面に影響が及ぶことを信じていますか。

最後に:価値があるのでしょうか?

確かに価値があり,大きな影響を与えることを証します。これらのことを行うなら,皆さんが行うことの裏にある最も大切な理由は,主への愛であり,主が皆さんに対して抱いておられる愛を認識するためだということが分かるでしょう。完全になろうと努力し,主の御心を理解しそれを行おうとするときに喜びを感じることができますように。イエス・キリストの御名により,アーメン。

  1. レオ・トルストイ,ピーター・T・ホワイト,“The World of Tolstoy,” National Geographic, 1986年6月号,767,790で引用

  2. マーク・トウェインの言葉として知られている。

  3. タッド・R・カリスター “Our Identity and Our Destiny”(ブリガム・ヤング大学キャンパス教育ウィークディボーショナル,2012年8月14日),9;speeches.byu.edu

  4. “Apology,” The Dialogues of Plato,ベンジャミン・ジョウェット訳,38a

  5. ビデオ「いつも御子を覚え」より;https://www.lds.org/youth/learn/ap/ordinances-covenants/meaningful?lang=jpn#video=always-remember-him ; ジェフリー・R・ホランド「 わたしを記念するため,このように行いなさい」『聖徒の道』1996年1月号,72も参照