「神から〔来た〕教師」となる5つの方法

提供者: タッド・R・カリスター兄弟,中央日曜学校会長

  • 2015年8月20日

自分が教師としての優劣をつける指標のどこにランク付けされていようとも,学習意欲があるならば,誰にでも改善の余地があります。

記事のハイライト

  • 1. 御霊によって教える。
  • 2. 言葉と行いを一致させる。
  • 3. 初めに聖典を読む。
  • 4. 聖句やレッスンの資料を少なくとも1週間前に予習する。
  • 5. 出席しなかった人々に手を差し伸べる。

「人よりも高いところに立たなければ,人を引き上げることはできません。」 ―ハロルド・B・リー大管長

次のようなことで悩んだことはないでしょうか― どうすれば教える人々の生活に真の変化をもたらすことができるだろうか。 どうすれば彼らの生活を改善する手助けができるだろうか。 どうすれば神からの力と権能をもって教えることができるだろうか。

自分が教師としての優劣をつける指標のどこにランク付けされていようとも,学習意欲があるならば,すなわち,生徒一人一人に持っていてほしいと願う資質を備えて実践するならば,誰にでも改善の余地があります。 わたしたち一人一人は「神から〔来た〕教師」になるための内側からの力と外側から与えられる御霊を持っています(ヨハネ3:2)。 以下に,これを行う方法についての幾つかアイデアを示しましょう。

1. 御霊によって教える。

主は御霊によって教えるという教師の責任について単刀直入に語られています。 「御霊を受けなければ,あなたがたは教えてはならない。」(教義と聖約42:14) 御霊の欠如はどんなに優れた指導力によっても補うことはできません。 なぜでしょうか。 それは,信仰を築くのは御霊であり,心を和らげるのも,思いを照らすのも,改心をもたらすのも御霊だからです。 これはまさしく主が語られた理由そのものです。「わたしが御霊の力によってあなたがたの手の中に置いたものを,人の子らに教え〔なさい。〕」(教義と聖約43:15教義と聖約50:14も参照) 教義と御霊は改心の過程において切っても切れないパートナーなのです。

したがって,全ての教師の目標は,イエス・キリストを信じる信仰を築き,より大きな改心をもたらすような方法で,御霊によって教義を教えることなのです。 それは優れた教訓を与えたり,決して忘れることのできない劇的なプレゼンテーションをする以上のことであり,生活をより良い方向に変えるものです。

全ての教師の目標は,イエス・キリストに対する信仰を築き,より大きな改心をもたらすような方法で,御霊によって教義を教えることです。 写真/スコット・G・ウィンタートン

タッド・R・カリスター兄弟,中央日曜学校会長

2. 言葉と行いを一致させる。

主は偉大な教師であられました。なぜなら,主は偉大な模範であられたからです。すなわち,その生涯はその言葉と完全に一致していたからです。 両者の間に隔たりはありませんでした。 わたしたちが救い主の教えと調和した生活を送るとき,御霊を受ける最善の準備が整います。 それがアルマが次のように言った理由でしょう。「神の道を歩み,神の戒めを守っている神の人でなければ,だれも,あなたがたの教師や教え導く者としてはならない。」(モーサヤ23:14

「ドン・キホーテ」という劇の中に驚くほど鋭い一節があります。 「善い生活を送っている人は,うまく教えることができます。 わたしが理解している神性とは,そういうことです。」 教師は,自分が教えているとおりの生活をしなければなりません。 主の模範は最も強力な武器,すなわち,最も効果的な道具なのです。 ハロルド・B・リー大管長は次のように言いました。「人よりも高いところに立たなければ,人を引き上げることはできません。」(「あなたがたは聖なる場所に立ち」1973年4月総大会)

3. 初めに聖典を読む。

レッスンの資料や補足資料を読む前に,割り当てられた聖句ブロックを読むのがよいでしょう。また,そのときに開けた教義的な洞察や感じた印象や尋ねるつもりの質問,促すつもりの事柄を書き留めるのです。選択の自由をこのように行使することによって,わたしたちに宿る御霊は最大のものとなるでしょう。 そうすれば,霊的に自立することができます。 わたしは,聖文を読んで疑問があるときは,すぐに答えを求めて注解を見る誘惑に陥ることがしばしばあります。 しかし,もしわたしが思いとどまり,代わりにその問題に取り組めば,大抵,幾らか個人的な霊感を受けます。 時折,受けた答えが注解にあるものと同じときがありますが,もはやその答えは他人のものではなく,自分自身で得たものとなるのです。 自分のために特別に意図されたと思うような,注解とは異なる洞察を得るときもあります。

すぐに注釈を見ていたなら,これらの恩恵を失っていたことでしょう。 マリオン・G・ロムニー管長は次のように率直に語っています。 「小川の水を飲むとしたら,わたしは牛が通った場所から下流にある所からからでなく,地面から湧き出ている所から直接飲みたいと思います。」(J・リチャード・クラーク長老により引用「私の身も心も聖文を喜ぶ」1982年10月総大会) レッスンの資料は非常に役に立ちますが,それによって聖文や御霊とわたしたちの個人的な関係にじゃまが入ったり,それらが優先されたりするようであってはなりません。

4. 聖句やレッスンの資料を少なくとも1週間前に予習する。

霊的に備えるとは,例えば土曜日の午後の2時間,翌日のレッスンの準備をするためにまとまった時間を確保することではありません。 それは絶えず,すなわち,仕事に向かう途中や,家での暇な時間,家族や友人と話をしながら,深くじっくりと考えることです。

啓示は通常,教えに教え,訓戒に訓戒を加えてもたらされます。そしてそれは,主が望まれるときに,すなわち,都合の悪いときもあれば,土曜日の午後以外にもたらされることがあります。 したがって,レッスンの少なくとも1週間前には,わたしたちを通して御霊が働くための時間を確保し,レッスンについて深く考え続ける必要があるのです。

レッスンの資料は非常に役に立ちますが,それによって聖文や御霊との個人的な関係がじゃまされたり,優先されたりしてはなりません。 写真/スコット・G・ウィンタートン

5. 出席しなかった人々に手を差し伸べる。

若い頃,デビッド・O・マッケイ大管長は教科書に載っていたある物語が気に入りました。 筆者はナイアガラフォールズに向かってボートで川を下っている若者たちを描いていました。 岸から男が叫びました。 「おーい,君たち! 急流が迫っているぞ!」 しかし,若者たちは笑いながら大騒ぎを続けていました。 その男はもう一度叫びました。「おーい,君たち! 急流が迫っているぞ!」

しかし彼らは,突然急流の真っただ中にいることに気づくまで,警告の声に耳を傾けませんでした。 力の限りを尽くしたものの,彼らはボートを上流に向けることはできず,結局,急流をのろい,叫び声を上げながら,滝へ落ちて行ったのです。 マッケイ大管長は,その物語は心に忘れられない印象を残したものの,どういうわけか,不十分に思えたと言いました。 教師として,岸に立って 「おーい,君たち! 前方に危険があるぞ」と叫ぶこともできます。しかし,それはボートに乗り込んで,彼らに向かってこぎ出し,全ての親切心と説得力をもって,上流に連れ戻すのとは全く違います。

教師としての義務の一つは,車に乗り込み,クラスのあまり活発でない会員の家まで行き,彼らを羊の群れに連れ戻す助けをすることです。 さらに,電話したりメールしたりして,クラスに参加するよう割り当てを与え,他のクラスの生徒に友達になってもらうこともできます。 失われた羊のたとえを行動に移すだけです。

まとめ

どの教科課程を教えているかは問題ではありません。救い主のように教えることを選ぶなら,誰にでも改善の余地があり,「神から〔来た〕教師」という描写にふさわしくなることができるのです (ヨハネ3:2)。