2000–2009
赦しは苦しみを愛に変えるであろう
2003年4月


赦しは苦しみを愛に変えるであろう

赦しとは,もう過去の問題に自分の行く末を決定されることなく,心に神の愛を抱きながら未来に焦点を合わせることができるという意味なのです。

主がネルソン長老にお与えになった御霊は何と驚くべきものでしょうか。ネルソン長老の賜物は,教会だけでなく,全世界に祝福をもたらしています。

わたしは今日,赦しについてお話ししたいと思います。

わたしは小さな農業の町で育ちましたが,そこでは水こそが共通の命の源でした。町の人々は絶えず,雨,灌漑の権利,そして水全般のことを気にかけ,心配し,祈っていました。時々わたしは子供たちから次のようにからかわれます。「こんなに雨のことばっかり考えている人は見たことがない。」わたしは,確かにそうだね,と答えます。わたしの育った所では,雨は最大の関心事だったからです。それは死活問題だったのです!

天候によるストレスや緊張の下で,人々は本来執るべき態度を執れないことがありました。時々近所の人々は,ある農夫の用水路の使用時間が長すぎると口論をしました。近くの山間にある牧場の近くに住んでいた二人の男性の場合も,これがきっかけでした。チェットとウォルトと呼ぶことにしましょう。この二人の隣人は,共用していた用水路の水のことで口論を始めました。初めは無邪気なものでしたが,年々,意見の衝突は恨みへ,そして次に論争へ,さらには脅迫にまで至ってしまいました。

7月のある朝,二人はともにまた水が不足していると感じました。それぞれ何が起きたのかを見に水路に行きましたが,二人とも心の中で相手が自分の水を横取りしたと考えていました。二人は同時に取水門に着きました。怒りの言葉が飛び交い,取っ組み合いになりました。ウォルトは大柄で力がありました。チェットは小柄でやせているものの,粘り強い男でした。取っ組み合いは激しくなり,二人は持っていたシャベルを武器に使いました。ウォルトは誤ってシャベルをチェットの片目にぶつけてしまい,その目を失明させてしまいました。

長い年月がたちました。しかしチェットは忘れることも赦すこともできませんでした。視力を失ったことに対する怒りは彼の中で高まり続け,憎しみは激しさを増しました。ある日,チェットは納屋に行き,棚から銃を取り,馬に乗って水路の取水門に行きました。彼は水路をせき止めて,水がウォルトの農場に行かないようにしました。ウォルトがすぐに事の次第を確かめに来ることを知っていました。そして,茂みに隠れて待ちました。ウォルトが現れると,チェットは彼を射殺してしまいました。そして馬に乗って家に戻ると,保安官に電話をかけ,たった今ウォルトを撃ったことを知らせました。

わたしの父はチェットを殺人容疑で裁判するへ陪審員となるように要請を受けました。しかし父は,自分は両者とその家族と長年の友人であるので,自分にはその資格はないと判断し,陪審員になるのを辞退しました。チェットは裁判を受けて殺人罪を宣告され,無期懲役の判決を受けました。

何年もたった後,チェットの妻が父のところへやって来て句知事への嘆願書に署名をしてくれないかと尋ねました。長い間州刑務所に服役して今では健康をひどく損ねている夫への,寛大な処置を求めるものでした。父は嘆願書に署名しました。数日後の夜,もう大人になっていたウォルトの息子二人が玄関先に現れました。彼らは非常に怒り,憤慨していました。父が嘆願書に署名したせいで,ほかにも大勢の人が署名したというのです。彼らは父に嘆願書の署名を撤回するように求めました。父は断りました。父は,チェットはすっかり衰弱した病人であると感じていました。彼は長い歳月にわたって,あの激情による恐ろしい犯罪のために刑務所で苦しんできました。父は,チェットが家族のそばで人並みに死を迎え埋葬されることを望んだのです。

ウォルトの息子たちは瞬時に怒って言いました。「もしやつが出所したら,やつとやつの家族はひどい目に遭うだろう。」

結局チェットは出所し,家へ戻って家族とともに最期を迎えることができました。幸いにも,両家族の間にそれ以上の暴力ざたはありませんでした。父はよく,隣人であり少年時代からの友人であるチェットとウォルトが,怒りのとりことなって,自分たちの人生を滅ぼずに任せたことの悲劇を嘆きました。わずかな用水路の水の取り分を巡って互いを赦し合うことができなかっただけの理由で,一時的な激情が,コントロールできないほどに激しさを増すまで放置され,ついに両者の命を奪うほどになってしまったとは,何という悲劇でしょうか。

救い主は「あなたを訴える者と一緒に道を行く時には,その途中で早く仲直りをしなさい」1と言われました。一時的な激情が激しさを増して肉体的あるいは情緒的な残酷行為に至り,わたしたちが自らの怒りに縛られてしまうことのないよう,主は争いを早い時期に解決するように命じておられます。

この原則はとりわけ家族の中で当てはまります。皆さんが具体的に心配しているものは水ではないかもしれませんが,この星の栄えの天候によるストレスや緊張の下で生活しているわたしたちはだれでも,実体のあるものであろうとなかろうと,腹の立つ状況に出遭います。わたしたちはどのような反応を示すでしょうか。腹を立てるでしょうか。あら探しをするでしょうか。一時的な激情に分別を失ってしまうでしょうか。

かつてブリガム・ヤング大管長は,腹を立てることを毒蛇にかまれることにたとえて,次のように語りました。「ガラガラヘビにかまれたときに取ることのできる行動が二つあります。一つは,怒りと,恐れと,復讐心のうちに,蛇を追いかけて殺すことです。あるいは,大急ぎで自分の体から毒を取り除くことです。もし後者の行動を取るならば一命を取り留めると思われますが,前者を試みるならば,それを成し遂げるまで生きてはいられないかもしれません。」2

さてここで,わたしたちはまず家族の中で霊的または情緒的な蛇にかまれないように注意する必要があることを申し上げておきましょう。今日ほとんどの大衆文化で,赦しや優しさという徳は軽視され,一方であざけり,怒り,厳しい批判が奨励されています。注意を払っていなければ,わたしたちは家庭や家族の中でこれらの習慣のとりことなり,やがて伴侶や子供,親戚を批判している自分に気づくでしょう。自分の最も愛する人々を,利己的な批判で傷つけることのないようにしましょう!家族の中で,もしささいな口論やわずかな批判が放っておかれるなら,それらは関係を破壊し,激しさを増して仲たがいや,さらには虐待や離婚に至ることさえあるのです。そうではなく,毒についての話と同様に,わたしたちは「大急ぎで」口論を鎮め,あざけりを取り除き,批判をなくし,恨みや怒りを取り去らなければなりません。一日たりとも,そのような危険な感情を反芻してはいけません。

ウォルトとチェットの悲劇を,エジプトのヨセフの模範と比較してみましょう。ヨセフの兄弟たちは,嫉妬から彼を憎みました。殺害をたくらみ,最終的には彼を奴隷として売りました。ヨセフはエジプトに連れて行かれ,何年も苦しんで奴隷から出世しました。この苦難の期間に,ヨセフは兄弟たちを非難して復讐を誓うこともできました。いつの日か仕返しをしようと企てることによって自らの痛みを和らけることもできました。しかし彼はそうしませんでした。

やがてヨセフは,パロ以外には自分の上に立つ者のない,エジプト全土の統治者となりました。壊滅的な飢饉の間に,ヨセフの兄弟たちが食物を求めてエジプトへやって来ました。それがヨセフであると分からずに,彼らは高い地位にあったヨセフの前で地にひれ伏しました。この瞬間,間違いなくヨセフには復讐を行う力がありました。兄弟たちを牢に入れることも,死刑を宣告することもできました。しかしそうはせず,彼は赦すことを確認し,こう言いました。「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも,悔むこともいりません。……神は,あなたがたのすえを……残すため,また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために,わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく,神です。」3

赦そうというヨセフの意志が,苦しみを愛に変えました。

罪の赦しを悪の容認と混同するべきでないことを明確にしておきたいと思います。事実ジョセフ・スミス訳聖書の中で,主は「義にかなった裁きをしなさい」4と言っておられます。救い主はわたしたちにあらゆる形の悪を捨ててそれらと戦うように求めておられます。わたしたちは自分を傷つける隣人を赦さなければなりませんが,それでもなおそのような傷が繰り返されるのを防ぐために前向きに働かなければなりません。虐待を受けている女性は復讐を求めるべきではありませんが,さらなる虐待を防ぐための行動を起こせないと感じるべきでもありません。取り引きで不当な扱いを受けたビジネスマンは不正直であった人物を憎んではいけませんが,不正を正すための適切な手段を取ることができます。赦しは悪を受け入れたり容認したりするように求めるものではありません。周囲の世の中や自身の生活の中に見られる悪事を無視するように求めるものではありません。しかしわたしたちは罪へと戦うときに,憎しみや怒りに思いや行いを支配させてはいけません。

救い主はこう言われました。「それゆえ,わたしはあなたがたに言う。あなたがたは互いに赦し合うべきである。自分の兄弟の過ちを赦さない者は,主の前に罪があるとされ,彼の中にもっと大きな罪が残るからである。」5

赦しが容易であると言っているわけではありません。自分や自分の気にかけている人々が傷つけられたとき,その痛みは計り知れないものであることがあります。まるでその痛みあるいは不当な行為こそ世の中で最も重要なことであって,復讐を企てる以外に選択肢がないかのように感じられることがあります。しかし平和の君であるキリストは,より良い方法を教えてくださいます。自分に加えられた危害についてだれかを赦すことは非常に難しいことがありますが,そうするときに,わたしたちにはもっとすばらしい未来が開かれるのです。もうほかのだれかの不当な行いに自分の進路を左右されることはありません。人を赦すことによって,わたしたちは自分自身の人生の生き方を自由に選べるようになるのです。赦しとは,もう過去の問題に自分の行く末を決定されることなく,心に神の愛を抱きながら未来に焦点を合わせることができるという意味なのです。

わたしの隣人を悩ました「人を赦せない心」という種が,わたしたちの家庭に根を下ろすままに放置されることが決してありませんように。愚かなプライドや恨み,つまらないことを克服する助けを天の御父に祈ることができますように。赦し愛することによって,わたしたちが救い主と人々と自分自身にとって親しき友となれるよう,主が助けてくださいますように。「主もあなたがたをゆるして下さったのだから,そのように,あなたがたもゆるし合いなさい。」6イエス・キリストの御名により,アーメン。

  1. マタイ5:25

  2. マリオン・D・ハンクス“Forgiveness, the Ultimate Form of Love” Ensign1974年1月号21で引用

  3. 創世45:4-5、7-8

  4. ショセフ・スミス訳マタイ7:1-2

  5. 教義と聖約64:9

  6. コロサイ3:13