2000–2009
主の御手に使われる者となる
2006年10月


主の御手(みて)に使われる者となる

主の御手に使われる者となるには,教会の召しも,人を助けるようにという勧告も,さらには十分な健康さえも必要ではないのです。

母方の祖父のアルマ・ベンジャミン・ラーセンがまだ34歳のときのことでした。ある朝目を覚ますと,目がよく見えないことに気づきました。そして間もなく,完全に視力を失います。祖父は伝道経験のある,ずっと忠実な教会員でした。農夫であり,妻と3人の子供がいました。目の見えない人生など,祖父には想像もできなかったでしょう。妻と幼い子供たちは農作業を手伝うという,それまでになかった重荷を負わなければならなくなり,経済的に苦しくなります。

視力を失い,闇(やみ)の中を生きる祖父を,多くの人が主の御手に使われる者となって助けてくれました。1919年,祖父の家族にとって非常に衝撃的な出来事が起きました。その年はひどい不況のために,町中の人が苦しんでいました。農地は借金のかたに取られていき,会社の倒産が続きます。祖父も農地を多額の借金の抵当に入れており,返済を1年延ばすには195ドルの支払いが必要であるという通知を受け取ります。祖父にとってこの金額を支払うのは,体の肉を1ポンドそぎ取って渡すようなものでした。ほとんどの人が似たような状況にあったので,そのような大金を調達することはまず不可能でした。馬や牛,農機具など農場にあるものをすべてかき集めたところで,195ドルもの金額で売れるはずもありませんでした。祖父は隣人に頼んで自分の牛を2,3頭屠殺(とさつ)してもらい,その肉とその他の産物を幾らか売りました。また,年末には返してもらうという約束で近所の人たちにお金を貸していましたが,返せる人は一人もいませんでした。家族にはお金の見通しがまったく立ちませんでした。

祖父の日記には詳しく書いてあります。「クリスマスを目前にした1919年のあの寒い夕べのことを,わたしは決して忘れない。わたしたちは農地を手放すことになると覚悟していた。すると,娘のグラディスが紙を1枚渡して言った。『今日(きょう)こんな手紙が来たわ。』わたしはそれを妻のところに持って行き,何が書いてあるのか尋ねた。妻が読んでくれたのは,次のような文面だった。『愛するラーセン兄弟,今日は一日中あなたのことを考えていました。お金のことで苦しんでおられるのではないでしょうか。もしそうならば,手もとに200ドルありますから,それをお使いください。』手紙には『ジム・ドリンクウォーター』と署名してあった。ジムは背が低く,体も不自由だ。彼がこんな大金を持っているなど,一体だれが想像しただろう。その夜ジムの家に行くと,彼はわたしに言った。『ラーセン兄弟,今朝わたしは,天から無線の連絡を受けました。それから一日中,あなたのことが頭から離れませんでした。きっとお金に困っておられるのでしょう。』ドリンクウォーター兄弟は200ドルをわたしにくれた。そのうち195ドルを抵当貸付会社に送金し,残った5ドルで子供たちに長靴や服を買ってやった。その年,確かにサンタクロースは来た。」

祖父は続けてこう証(あかし)しています。「主は決してわたしから希望を取り去るようなことをされない。ドリンクウォーター兄弟にされたように,主は必ずだれかの心に働きかけてくださる。わたしの知る限り,安全な生活を手にする方法は,主の戒めを守り,この教会の指導者を支持する以外にないことを証する。」

ジム・ドリンクウォーターについてわたしは何度も思い巡らしてきました。どのようにして彼は主の信頼を得たのでしょうか。多額の借金に苦しみ,しかも3人の子供を抱えた盲目の農夫を助けるために,背が低く,体が不自由なジムに,神は信頼を置かれたのです。ジム・ドリンクウォーターに助けられた祖父の経験から,わたしは多くのことを学びました。主の御手に使われる者となるには,教会の召しも,人を助けるようにという勧告も,さらには十分な健康でさえも必要ではないのです。それでは,主の御手に使われる者となるにはどうすればよいのでしょうか。その方法は預言者と聖典から学ぶことができます。

何よりもまず,わたしたちは神の子供たちに対して愛を持たなければなりません。「先生……どのいましめがいちばん大切なのですか」と律法学者に尋ねられたとき,救い主はこうお答えになりました。「『心をつくし,精神をつくし,思いをつくして,主なるあなたの神を愛せよ。』これがいちばん大切な,第一のいましめである。第二もこれと同様である,『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。』」(マタイ22:36-39)

ジョセフ・F・スミスはこう語りました。「慈愛すなわち愛は,現在ある原則の中で最も偉大なものです。虐(しいた)げられている人に救いの手を差し伸べ,意気消沈している人や悲しんでいる人を助け,人類の置かれている状況を改善できるならば,それを行うのがわたしたちの使命であり,わたしたちの宗教の最も重要な課題なのです。」(Conference Report,1917年4月,4)神の子供たちへの愛を感じるとき,わたしたちは,彼らがみもとに戻れるよう助ける機会を頂くので。

モーサヤの息子たちの伝道の経験からも,主の御手に使われる者となる方法が理解できます。「そして,彼らは荒れ野の中を幾日も旅をした。」(アルマ17:9)わたしたちは喜んで旅に出なければなりません。モーサヤの息子たちは慣れ親しんだ環境を自ら進んで離れて,苦難の道を歩みました。アンモンが進んで旅をせず,野蛮でかたくなで残忍な民が住む異国の地に行かなかったとしたら,ラモーナイとその父,そして多くのレーマン人がイエス・キリストについて知ることはありませんでした。神は旅をするようわたしたちに求めておられます。伝道に出るよう,召しを受けるよう,人を教会に招待するよう,また困っている人を助けるよう求めておられるのです。

レーマン人の兄弟たちを助ける過程で,モーサヤの息子たちは断食と祈りの大切さも学びました。「彼らは,主が御霊(みたま)の一部を授けて自分たちに伴わせてくださり,またとどめてくださることを願って,大いに断食し,大いに祈った。それは,彼らが神の手に使われる者となり,できれば自分たちの同胞(はらから)であるレーマン人に真理を知らせ……るためであった。」(アルマ17:9)わたしたちは神の御手に使われる者となりたいと心から願っているでしょうか。そうであれば,その願いはわたしたちの祈りに表れ,断食の目的となります。

視力を失ってから祖父は断食して祈りました。盲目のまま生きることになるならば,主の平安を与えてくださるようにと。1時間もしないうちに「わたしの心は照らされ,暗黒の雲はなくなった」と祖父は述べています。祖父は,肉体の目ではなく霊の目で再び見えるようになりました。後にアルマ・ベンジャミン・ラーセンは祝福師に召され,32年間その召しを果たしました。モーサヤの息子のように祖父は断食して祈り,その結果何千人もの神の子供たちを祝福する機会が与えられたのです。

ジム・ドリンクウォーターやわたしの祖父のように,わたしたちも聖霊のささやきに敏感になる必要があります。主の御手に使われる者になりたいと望むなら,啓示が受けられるからです。預言者であった息子アルマは,自分が受けた啓示について次のように語っています。「わたしは主から命じられた事柄を知っており,それに誇りを感じている。……神の御手に使われる者となって幾人かでも悔い改めに導けること,これがわたしの誇りであり,喜びである。」(アルマ29:9)アルマは,なすべき事柄について神から啓示を受けていました。

わたしは小さなノートを持ち歩き,御霊から受けた霊感や考えを記録するようにしています。何ということはないノートで,古くなる度に取り替えなければなりません。心に考えが浮かぶと,わたしはそれを書き留めて実行するよう努めました。ノートに書き留めた事柄を実行すると,それがだれかの祈りの答えだったと分かったことが何度もありました。また,書き留めておいた事柄を実行しなかったため,助けることができた人を助けなかったと,後になって気づいたこともありました。神の子供たちについて導きを受けたとき,思いついた事柄や受けた霊感を書き留めておいて実行するならば,神からますます信頼されるようになり,御手に使われる機会が増えていきます。

ファウスト管長の説教に次のような言葉があります。「皆さんはこの偉大な業を成し遂げるために,神の御手に使われる力強い者となることができます。……周りの人のために皆さんにしかできないことがあります。」(「神の御手に使われる者」『リアホナ』2005年11月号,115)神は,ご自分の子供たちの助けとなる人を宝のように大切になさいます。預言者の勧告に従い,神の御手に使われる者となるようすべての人に勧めます。これを行うなら,わたしたちは神の宝の一人に数えられるようになります。なぜなら,神の子供たちを助けているのですから。

イエス・キリストの御名(みな)により,アーメン。