2000–2009
王国の神権者
2007年10月


王国の神権者

時は移り,状況は変わるかもしれません。しかし,神のまことの神権者の特質は不変です。

兄弟の皆さん,この壮大な建物の端から端まで見渡して言えることは,ここから見る皆さんの姿は実に壮観だということに尽きます。世界中の何千という礼拝堂で,皆さんと同様に神の神権を持つ人々が,衛星放送を通じてこの大会に参加していることは驚くべきことです。その国籍は異なり,話す言葉は様々でも,わたしたちは共通の糸で結ばれています。わたしたちは信任を受けて神権を授かり,神の御み名なによって行動することができます。神の信頼を受け,大きな期待を寄せられているのです。

神の神権を持ち,それを尊ぶわたしたちは,歴史上特別なこの時期に生を受けるために取っておかれた霊です。使徒ペテロは,ペテロの第一の手紙の第2章9節でわたしたちについて次のように語っています。「しかし,あなたがたは,選ばれた世代,王国の神権者,聖なる国民,特異な民である。それによって,暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを,あなたがたが語り伝えるためである。」

わたしたちはどうすれば「王国の神権者」という称号にふさわしくなれるのでしょうか。生ける神の真の息子の特質とは何でしょうか。今晩,わたしはその特質の幾つかを考えてみたいと思います。

時は移り,状況は変わるかもしれません。しかし,神のまことの神権者の特質は不変です。

まず,わたしたち全員が将来への展望という特質をはぐくむように提案します。ある作家はこう言いました。「歴史の扉は小さなちょうつがいで動く。人生も,また,同様である。」この格言を自分の人生に当てはめるなら,わたしたち自身が幾つもの小さな決断の結果の集大成であると言えるでしょう。実際,わたしたちは自らの選択の産物なのです。わたしたちは過去を思い起こし,現在を評価し,未来を見通す能力を伸ばさなければなりません。それは主がわたしたちに望んでおられることを人生の中で達成するためです。

アロン神権を持つ若い男性の皆さんは,メルキゼデク神権を受ける日を心に描く能力があるはずです。そして神の聖なるメルキゼデク神権を受けるために,執事,教師,祭司として自らを備える必要があります。皆さんは,メルキゼデク神権を受けるとき,宣教師として働く召しにこたえられるよう備えている責任があります。すなわち,宣教師の召しを受け,それを全うする備えができていなければならないのです。すべての少年,すべての男性が将来への展望を持つようにと心から祈ります。

神のまことの神権者の特質として強調したい2番目の原則は,努力という特質です。努力をしたいと望んだり,努力をしようと口にしたりするだけでは不十分です。実際に努力をしなければなりません。。目標を達成するには,考えるだけでなく,,行わなければなりません。目標をいつまでも先延ばしにするなら,それを達成することはありません。ある人はこう言いました。「明日を当てにしてばかりいる人の生涯は,昨日も今日も空っぽだ。」1

1976年7月,陸上選手のギャリー・ビヨークランドは,合衆国オリンピックチームの1万メートル走の出場資格を得ようと固く決心していました。モントリオールオリンピックの出場資格です。しかし,厳しい予選レースの途中で,彼の片一方の靴が脱げてしまいました。わたしたちが同じ経験をしたら,どのように対応するでしょうか。恐らく,彼は途中で断念して走るのをやめることもできたでしょう。不運のせいにして,人生の最も偉大な競争に参加する機会を失うこともできたでしょう。しかし,この一流スポーツ選手の取った行動は違いました。片方の靴だけで走り続けたのです。彼は,それまでの人生で走ったことがないくらい速く走らなければならないことを承知していました。競争が始まったときとは違って,ライバルたちが今や有利な立場に置かれていることも知っていました。シンダートラック(訳注――細かい石炭殻を敷き詰めた競争用トラック)の上を,片方の靴が脱げ,片方の靴を履いた状態で走ったのです。ギャリーは3位でゴールし,金メダルをかけたレースに出場する機会を手に入れました。彼自身のタイムは自己ベストでした。彼は目標を達成するために必要な努力を払ったのです。

神権者として,つまずいたり,精根尽き果てたり,落胆や心痛に悩む日々もあるでしょう。そのようなときに,わたしたちが堪え忍び,目標に向かってさらに大きな努力を払えるよう望んでいます。

わたしたちは少なくとも生涯に1度,執事定員会会長や,教師定員会書記,神権アドバイザー,レッスン教師,ビショップなど,教会で召しを果たす機会にあずかります。もっと多くの召しを挙げることはできますが,それは言わなくてもお分かりでしょう。わたしは,まだ22歳のときにソルトレーク・シティー第6・第7 ワードのビショップとして奉仕する召しを受けました。1,080人の会員を抱えるワードで,処理すべきすべての問題に対処し,ワードの会員一人一人が自分もワードの一員であり,見守られていると感じられるようにするには,たくさんの努力が求められました。きわめて困難な責任ではありましたが,その責任に押しつぶされることはありませんでした。わたしはその務めに着手し,ほかの人たちと同じように,自分の能力の限りを尽くして奉仕するために精いっぱいの努力を払いました。わたしたちは,どのような召しや割り当てであっても,同様のことを行えます。

昨年,わたしは自分が1950年から1955年にビショップとして奉仕したその地域で,今でも残っている住宅が幾つあるのか確かめてみることにしました。かつてのワードに含まれていた区画を,一つ一つゆっくりと運転して回りました。捜した結果,驚いたことに,1,080人の会員が住んでいたすべての家屋やアパートの中で,依然として残っているのはたったの3軒だけでした。その3軒のうち1軒は草が生い茂り,木の枝は刈り込まれていませんでした。また,だれもそこには住んでいませんでした。まだ残っていた2軒の家屋のうち1軒は,窓に板が打ち付けてあり,空き家でした。あと1軒には何かこぢんまりとした事務所が入っていました。

わたしは車を止め,エンジンを切り,しばらくそこに座っていました。かつての家屋やアパート,そこに住んでいた人たちが心に思い浮かびました。家や建物はなくなっていましたが,一つ一つの家に住んでいた家族に関する思い出は,依然として鮮やかに思い出すことができました。作家のジェームズ・バリーが語った次の言葉が頭をよぎりました。「神が人に記憶を与えられたのは,人生の12月に6月のバラを思い出せるようにするためである。」2ビショップの責任を受けて奉仕する機会があったことに心の底から感謝しました。最善を尽くして自分の与えられた召しを果たすならば,だれもが同じような祝福を受けられるのです。

努力という特質は,すべての神権者に求められるものです

わたしが強調したい3番目の原則は,,信仰という特質です。わたしたちは,自分自身に対して,また,わたしたちが様々な問題に取り組むときに祝福と導きを与えてくださる天の御父の力に対して信仰を持たなければなりません。詩篇の作者は,ずっと昔に次の美しい真理を書きました。こうあります。「主に寄り頼むは人にたよるよりも良い。主に寄り頼むはもろもろの君にたよるよりも良い。」3言い換えれば,わたしたちを導く主の力を信頼するということです。御存じのように,人の友情は変わることがあります。しかし,主が変わられることはありません。

シェークスピアは,その劇「ヘンリー8世」の中で,ウルジー枢機卿を通してこの真理を教えました。ウルジー枢機卿は,国王との親しい関係のゆえに大きな威信と誇りを手にした男でした。しかし,その関係が終わりを告げるとき,ウルジー枢機卿は権威をはぎ取られ,名声も威信も失ってしまいます。すべてを得,すべてを失ってしまうのです。悲しみのうちに,枢機卿は僕のクロムウェルに真相を語ります。こう言いました。

それにしても,なあ,クロムウェル

おれが陛下に仕えたせめて半分の熱意で

神に仕えていたら,こんな年になって,

素っ裸で敵の中に放り出されることはなかっただろう。4

今晩,ここに集っている皆さんの心にはきっと信仰という特質があることでしょう。

わたしは自分のリストに美徳という特質を付け加えます。主は絶えず徳でわたしたちの思いを飾るようにとおっしゃいました。5

わたしは自分がアロン神権者だったときにソルトレーク・シティーのタバナクルで開かれた神権会を覚えています。教会の大管長が神権者に話をし,決して忘れることのできないことを言いました。手短に言えば,大管長は,性的な罪,あるいはそのほかの罪を犯す人は,まばたきする間にそれを行うのではないと言ったのです。わたしたちの行為には,それに先行する思いがあることを強調し,罪を犯すのは,その特定の罪を犯すことについて,頭の中で考えているからであると言いました。それから大管長は,罪を避ける唯一の方法は,頭の中を清く保つことだと宣言しました。聖文には,人はその心に思うそのままである,6と書かれています。わたしたちは美徳という特質を持たなければなりません。

天の御父の王国で宣教師になりたいと思うなら,神の聖なる御み霊たまを伴はん侶りょとするにふさわしくあらねばなりません。主の御霊は汚れた宮,すなわち聖きよくない宮にはとどまらないとはっきり言われています

最後に,祈りという特質を付け加えさせてください。天の御父と交わりたいという望みは,神のまことの神権者の特質です。

家族や個人の祈りを主にささげるときは,信仰をもってそれを行い,主を信頼しましょう。使徒パウロがヘブル人に与えた戒めを忘れないようにしましょう。「なぜなら,神に来る者は,神のいますことと,ご自身を求める者に報いて下さることとを,必ず信じるはずだからである。」7もしもわたしたちの中に,常に祈りなさいという勧告に熱心に従ってこなかった人がいるならば,今こそ従う時です。ウィリアム・クーパーはこう言明しました。「最も弱い聖徒がひざまずいて祈るとき,サタンは,震えおののく。」8祈りは人間的な弱さを示すと感じている人は,ひざまずいて祈っているときほど人が固く立つことはないということを覚えてください。

次の歌を常に記憶にとどめましょう。

祈りは魂たましいの

見えぬ望み

述べても述べずも

胸に燃もゆる …

生命いのち,真理,道の主よ

われらに

教えさとしたまえ

祈りの道9

祈りという特質をはぐくむならば,わたしたちは天の御父が準備しておられる祝福にあずかるでしょう。

最後に,将来への展望を持ちましょう。努力をしましょう。信仰美徳を行いに表し,祈りを絶えず生活の一部としましょう。そうすれば,わたしたちは文字どおり王国の神権者となるのです。これこそわたしの祈りです。イエス・キリストの御名により,アーメン。

  1. メラディス・ウィルソン,フランクリン・レーシー,The Music Man(1957年)参照

  2. ローレンス・J・ピーター編,Peter’sQuotations: Ideas for Our Time(1977年),335参照

  3. 詩篇118:8-9

  4. 「ヘンリー8世」第3幕第2場,454-458行。筑摩書房『シェークスピア全集5史劇II 』中野里皓史訳,338

  5. 教義と聖約121:45参照

  6. 欽定訳箴言23:7参照

  7. ヘブル11:6.

  8. ウィリアム・ニール編,Concise Dictionary of Religious Quotations(1974年),144

  9. 「祈りは魂の」『賛美歌』83