2000–2009
2008年10月


幸福と充足感を得る道はただ一つです。イエス・キリストがその道です。

イエス・キリストはアルパでありオメガ,初めであり終わりである

「初めに言ことばがあった。言は神と共にあった。言は神であった。……

この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。」1

主は言われました。「わたしはアルパでありオメガであり,主なるキリストである。すなわち,わたしは初めであり終わりである者,世の贖い主である。」2

主は言われました。「わたしが与える水を飲む者は,いつまでも,かわくことがないばかりか,わたしが与える水は,その人のうちで泉となり,永遠の命に至る水が,わきあがるであろう。」3

主は言われました。「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく,わたしを信じる者は決してかわくことがない。」4

主は言われました。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は,やみのうちを歩くことがなく,命の光をもつであろう。」5

主は言われました。「わたしはよみがえりであり,命である。わたしを信じる者は,たとい死んでも生きる。

また,生きていて,わたしを信じる者は,いつまでも死なない。」6

主は言われました。「わたしは道であり,真理であり,命である。だれでもわたしによらないでは,父のみもとに行くことはできない。」7

イエス・キリストは道です。光であり,命です。パンであり水です。初めであり終わりです。よみがえりであり,命です。世の救い主,真理,道です。

幸福と充足感を得る道はただ一つです。主がその道です。ほかの道は,どのような道であれ愚かな道です。

主は生ける水の泉を与えてくださいます。その水を飲む人は,二度と渇きを覚えませんが,その水を飲まない人は,愚かにも渇いたままです。

主は命のパンです。それを食べる人は,二度と飢えませんが,食べない人は,愚かにも弱く,飢えたままです。

主は世の光です。主に従う人は,物事をはっきりと理解できますが,従わない人は,愚かにも盲目のまま,闇の中にとどまるのです。

主はよみがえりであり,命です。主はこう言われました。「……わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり,また命である。」8主から学ぶ人はいっそう豊かな人生を送りますが,9愚かにも学ばない人の人生は枯れたままです。

主は世の救い主です。主の贖いの祝福を受け入れる人は,清められて汚れがなくなり,主の御霊を受けるのにふさわしくなりますが,そうでない人は,愚かにも孤独で汚れたままとどまるのです。

主がその道です。

ほかに神はおられない

「わたしたちは,永遠の父なる神と,その御子イエス・キリストと,聖霊とを信じ」10ています。御父の計画は御子により受け入れられ,実行されました。わたしたちが聖霊の御霊を受けられるようにするためです。御父の道は御子の道です。主は言われました。「あなたはわたしのほかに,なにものをも神としてはならない。」11

神のみがわたしたちを祝福してくださいます。神のみがわたしたちを養い,心臓を鼓動させ,息を与えてくださいます。神のみがわたしたちを支えて守り,人生の重荷に耐える強さを下さいます。神のみが力と知識,平安と喜びを下さいます。また,わたしたちの罪を赦し,癒いやし,わたしたちを変え,信心深い心を作り上げられます。神のみがわたしたちを御父のみもとへ連れ帰ることがおできになります。わたしたちが主を覚えて主の戒めを守りさえするならば,主はそれ以上のことをしてくださいます。わたしたちは何をすればよいのでしょうか。主を覚えて,主の戒めを守ることです。それがなすべき唯一の賢い行いです。

イエスは御霊によりバプテスマをお授けになる

バプテスマのヨハネは,自分は水でバプテスマを授けるが,イエスは「御霊によって」12バプテスマを授けるために来られたと言いました。

この世の人生において,天から与えられる聖霊の賜物よりも価値のあるものはほかにありません。それは喜び,幸福,平安,知識,強さ,導き,確信,愛,その他すべての良いものの源です。わたしたちは弱いとき,聖霊の力によって変わり,強められます。また,聖霊の力は神権を伴い,婚姻関係と家族関係を永遠に結び固めます。13聖霊の力によって,主は主を信じる者に御自身を現されます。14あらゆる良いことは,わたしたちが生活の中で聖霊の力を受け,保てるかどうかにかかっています。それがすべてを左右するのです。

そのために,イエス・キリストはゲツセマネという園に入り,わたしたちのために罪を克服されました。わたしたちの罪を御自身が背負われ,わたしたちの過ちの罰のために苦しまれました。わたしたちに経験を得させるための代価を支払われました。どのようにして行われたのか,何をなされたのかは分かりません。ただ分かるのは,主がそれを行われ,それゆえにわたしたちは罪を赦され,主の力を授けられるということです。それでは,わたしたちは何をすればよいのでしょうか。御子の御名を受け,いつも御子を覚え,御子が与えてくださった戒めを守り,いつも御子の御霊を受けられるようにすることです。15すべてはそれにかかっています。

わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽い

世間で最も広く通用している魅力的な人生哲学は,「自分の人生は自分自身で好きなようにすればよいのであって,他人に指図されない」というものです。しかし,主は言われました。「わたしは道であ〔る〕」16,「わたしに従ってきなさい。」17「あなたがたはどのような人物であるべきか。まことに,あなたがたに言う。わたしのようでなければならない。」18

不可能だと思わないでください。主の標準は,わたしたちにはとうてい到達できないほどきわめて高いため,実際には主に従うことはできないと考えがちですが,それは誤りです。少なくとも現在は,あまりにも困難で高く,能力を超えていると思うかもしれません。そのような考えを持ってはいけません。確かに主の標準は最高の標準ですが,最も能力の高いえり抜きのわずかな人だけしか到達できないとは考えないでください。

このような考えは,人生経験から誤って導き出された結論です。この世の経験によれば,人間のどんな試みであろうと最も優れた業績を残すことはいつも困難です。それゆえ,最も能力のあるえり抜きのわずかな人だけしか達成できません。標準が高くなればなるほど,達成できる人は少なくなります。

しかし,それはここでは当てはまりません。なぜなら,この世におけるいかなる経験とも異なり,この業は人間の努力による業ではなく,神の業だからです。神の業,すなわち「人の不死不滅と永遠の命をもたらす」19神の栄光なのです。このようなものはほかに何もありません。いかなる場所や時代にもありません。

かつて人が考えたいかなる取り組み,機構,計画,事業,制度の中にも,人を罪から救い,人生を変えるイエス・キリストの贖いの力と聖霊の賜物を授けてくれるものはほかにありません。ですから,主に従うようにという主の招きは最高の標準ですが,だれにでも達成できるものです。わたしたちにその力があるからではなく,主がその力を持っておられ,わたしたちにもできるように助けてくださるからです。「わたしたちは,キリストの贖罪により,全人類は福音の律法と儀式に従うことによって救われ得ると信じ」20ています。

主の道は困難ではありません。人生は困難ですが,福音はそうではありません。どこでも,まただれにとっても,「すべての事物には反対のものがなければならない」21のです。人生はだれにとっても困難ですが,また簡潔でもあります。選択肢が二つあるのみです。22一つは,主に従い,主の力を授かり,平安,光,強さ,知識,確信,導き,愛,喜びを得る道です。もう一つは,どのような道であれほかの方向へ進み,主の支えや力,導きを受けずに,混乱と疑惑,悲痛と絶望の中を孤独に生きる道です。どちらの道がたやすいでしょうか。

主は言われました。「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

……わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである。」わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである。」23

人生は困難ですが,簡潔です。道をそれず,どんなことがあっても決してあきらめてはいけません。あきらめる必要はないのです。ひたすら前へ進むのです。あきらめなければ,きっとうまくいきます。

幸福と充足感を得る道はただ一つです。イエス・キリストがその道です。ほかの道は,どのような道であれ,狂気と錯乱に満ちています。

主イエス・キリストは生ける神の御子であり,命のパン,真理,よみがえり,そして命,救い主であり世の光であられると証します。主は道であり,唯一の道です。

主に従う方法をよく知ることができますように。イエス・キリストの聖なる御名により,アーメン。