2010–2019
本質を変える信仰の力と人格
2010年10月


本質を変える信仰の力と人格

一貫して義にかなった生活から,内なる力と強さが生まれます。この力と強さは,罪や背きという浸食作用に対して永続する抵抗力があります。

信仰を正しく理解し働かせるならば,信仰の持つ影響力は絶大で広範囲に及びます。そのような信仰はわたしたちの生活を,感傷的でありふれた日常の活動から,喜びと幸福の交響曲に変えることができます。信仰を働かせることは,天の御父の幸福の計画に欠かせません。しかし,真の信仰,救いに至る信仰は,主イエス・キリストを中心とし,また,その教義と教えを信じる信仰,主の油注がれた者である預言者の教えを信じる信仰,人生を変える力のある自分の隠れた特性や特質を見いだす能力を信じる信仰を中心とするものです。まさに,救い主を信じる信仰は,行動と力の原則です。

信仰は創造の基本的な構成要素です。確かに,救い主イエス・キリストは,天の御父の指示の下,救い主としての御自身の役割に信仰を行使しておられます。主は信仰を行使することによって,銀河系から最も遠くにある星雲だけでなく,今日わたしたちが知る物質の最も小さな構成要素である粒子,クオークをもお造りになりました。しかし,驚嘆すべき創造にはクオークよりもさらに小さな構成要素があると,わたしは信じています。

神殿で結び固められる夫婦が示すのは未来を信じる信仰です。彼らはイエス・キリストの教えと天の御父の幸福の計画に従うことで,二人の生活が喜びに満ちたものとなることを理解しています。試練に遭っても,その目的とするところは人を成長させることなので,生産的かつ人格を築く形で克服する道が聖霊の促しを通じて見いだせるということを認識しています。

信仰と人格の間には,密接な関係があります。神の戒めに従う力を信じる信仰は,必要に迫られたときに役立つ人格的な強さを築いてくれます。このような人格は,大きな試練や誘惑に遭う瞬間に培われるものではありません。そのような瞬間には,すでに培った人格を用いなければならないのです。真の原則を信じる信仰を働かせるなら人格は築かれます。強められた人格は,さらなる信仰を働かせる能力を増します。その結果,人生の試練を乗り越えていく能力と確信がさらに強くなります。そして,人格が強まれば強まるほど,信仰の力を働かせることによる恵みをより受けられるようになるのです。信仰と人格がどのように作用し合い,互いを強め合うのかが分かるでしょう。人格とは,原則や教義,従順という糸を根気よく編んでできる織物のようなものなのです。

ヒュー・B・ブラウン管長は,こう語っています。「人生でどのような状況に置かれているかにかかわらず,人は信仰によってのみ偉大で霊的に価値あるものを手にすることができます。人は信仰を持たずに生きていくことはできません。なぜなら,人生の冒険で中心となる課題は人格形成であり,人格形成は理屈の産物ではなく,理想を信じる信仰と,犠牲を払って理想に専心することから生まれるものだからです。」(Conference Report, 1969年10月, 105)わたしたちは行いによって信仰を働かせます。ジョセフ・スミスは次のように語っています。「信仰は行動と力の原則です。」(Lectures on Faith〔1985年〕, 72)

わたしたちは,自分がそうありたいと願う人物になります。そのためには首尾一貫して毎日,自分がそうなりたいと願う人物であらねばなりません。義にかなった人格は,皆さんがなろうとしている人物が備えるべき大切な特質です。義にかなった人格は,今手にしているいかなる物質,学習によって得たいかなる知識,あるいはこれまでに達成したいかなる目標よりもずっと大切です。たとえこの世がそういった事柄をどれほど称賛しようともです。現世という特権をどれほど有効に使ったか判断するために来世で評価されるのは,皆さんの人格だからです。

サタンもそのほかのいかなる力も,皆さんの培った人格を破壊したり,傷つけたりすることはできません。そうすることができるのは,自分自身の不従順だけです。非の打ちどころのない人格は,欺きや背きにむしばまれるときに,価値のない灰へと変わるのです。

道義をわきまえた強固な人格は,人生の試練と試しの中で一貫して正しい選択をした結果として培われるものです。このような正しい選択は,自分が信じる事柄に信頼を置くときに行うことができます。また,そのような信条に従って行動するときに,その信条が正しいというさらなる確信が得られます。

信仰の基となる力の原則としてどのようなものがあるでしょうか。

  • 神を信頼する。どんなに難しい状況でも,必要なときには神が喜んで助けてくださると信じる。

  • 神の戒めに従って生活し,信頼に足る人物であることを神に示す。

  • 聖なるの静かな促しに敏感になる。

  • 御霊の促しに,勇気をもってこたえる。

  • 神があなたの成長のためにあなたが苦しむままにされているとき,また,長期にわたって答えが少しずつしか与えられないときに,忍耐し,広い視野に立って考える。

「信仰とは待ち望んでいながらまだ見ていないものである……。あなたがたは,自分が見ていないからということで疑ってはならない。信仰が試されてからでなければ,は得られないからである。」(エテル12:6)ですから,皆さんが「信仰を試す」度に,つまり何らかの印象に従ってふさわしい行動をする度に,御霊による確認の証を受けるのです。たとえ確信がなくても最善の判断に従い信仰を働かせながら歩むとき,ほかの方法では得られない答えに導かれるでしょう。どんなに強い信仰があっても,神が望みに応じてすぐに報いてくださるとは限りません。むしろ,神は,永遠の計画の中で皆さんにとって最もふさわしい方法で,最も実り多いときに,おこたえになるのです。時として,神は皆さんが答えを受けるまで長い間苦しむに任せられることがありますが,感謝してください。そのような経験を通じて,皆さんの信仰が増し,皆さんの人格が培われるからです。

人格の基礎となるのは高潔さです。ふさわしい人格を培うと,御霊の導きに気づき,従順にこたえる能力が高まります。一貫して信仰を働かせれば,強固な人格が形成されます。皆さんの人格の成長を支える確かな土台は,イエス・キリストとその教えを生活の中心とすることによって築かれるのです。

この地上の幸福だけでなく,永遠の救いを得るには,多くの正しい選択をする必要がありますが,難しい選択は一つもありません。それらの選択が合わさると,罪や背きという浸食作用に抵抗できる人格が形成されます。高潔な人格は,厳選された素材でできた貴重な磁器と同様,信仰によって形作られ,一貫性のある義にかなった行いで念入りに整えられ,人を向上させる経験という窯で焼かれます。非常に美しく大変貴重です。しかし,罪によって瞬く間に破損することもあります。元に戻すには,痛みを伴い,長期に及ぶ努力が必要となります。自制心で保護されれば,義にかなった人格は永遠に存続します。

物質的な事柄自体が,地上における幸福や満足,達成の喜びを生み出すことはありません。わたしたちを昇栄へと導くこともありません。人生にその進むべき方向を与えるのは,人格の高潔さ,すなわち無数の義にかなった決断で培われた内なる強さと確信です。一貫して義にかなった生活が,内なる力と強さを生み出すのです。この力と強さは,罪や背きという浸食作用に対して永続する抵抗力があります。イエス・キリストを信じ神の戒めを守ることによって,皆さんは自分の人格を強化することができます。皆さんの人格は,皆さんが今まさにどのような人物になろうとしているかを示す尺度です。それはこの試しの生涯の間,地上での時間をどれほど有効に使っているかを示す証拠です。

わたしたちのだれもが「支払った分だけ手に入る」という格言の意味を理解しています。この格言は霊的な事柄にも当てはまります。従順,イエス・キリストを信じる信仰,学んだ真理を地道に実践することにおいても,自分が支払った分だけ手に入るのです。皆さんが手に入れるのは,磨かれた人格と高められた能力であり,試され喜びを得るという地上での目的を立派に成し遂げた生涯です。

人生において消極的であってはなりません。さもなければ,ふさわしく生活しようとする皆さんの努力を生まれながらの人がやがて台なしにしてしまいます。皆さんの行いと考えが,皆さんの将来を決めます。人格に足りない部分があると,人は欲望を満たしたり,個人的利益を追求したりするよう強いられることになります。見せかけの強さでひ弱な人格をしっかりと支えることなどできません。

目の前の状況に左右されて決断を下す人は,いつの日か,ほぼ確実に重大な罪を犯すことになります。真理という鉄の棒もそのような人を正しい道にとどめておくことはできません。そのような人は,戒めから離れさせる多くの巧妙な誘惑にいつもさらされることになります。好ましくない選択をしても正当化します。それほど悪い選択ではないとか,社会に受け入れられやすく,仲間もたくさんできる選択はこちらの方だとか主張するのです。支えとなる原則がなくても器用に立ち回れば,一時的に目覚ましい業績を上げることはできます。しかし,そのような業績は,砂の城のようなものです。人格の試しに遭うと,粉々に崩れてしまいます。その過程で,往々にして,ほかの業績まで台なしにしてしまいます。罪を犯した人が戒めに背いたことをどれほど入念に隠そうとしても,やがては,まず間違いなく,公の知るところとなります。サタン自身がそうなるように仕向けるからです。サタンとその手下は,天の御父の子供たち一人一人に可能な限りの害を及ぼそうと決意しています。たった一度でも重大な違反行為あるいは背信行為があれば,必ず,ほかにも同様の行為はないかという疑念が生じます。周囲の人が抱いていた信用や信頼が根底から覆されるのです。

この現世は試しの場です。試しにどれほど正しく向き合うかで,皆さんの人格がどれほどしっかりしたものとなるかが決まります。イエス・キリストを信じる信仰とその教えを信じる信仰が皆さんの人格を高めてくれます。

わたしには自分で検証した事柄があります。それは,信仰,祈り,愛,といった概念は,経験を通して,また,聖き御霊の導きに助けられて,自分の特性となるまでは,何の重要な意味も持たないし,何の奇跡ももたらさないということです。若いころは,福音の教えは頭で学び,理性と分析の力でその大切さを理解できると思っていました。しかし,福音にはわたしの能力と想像力の限界を超えてわたしを高めてくれる途方もない力があると実感できたのは,それらの教えを忍耐強く実行し続け,聖き御霊がその意味を心にしみ込ませ深く理解させてくれてからのことでした。真心から奉仕しているとき,神がわたしの人格を築いてくださることに気づきました。神は御霊の導きを認識する能力を高めてくださいました。福音の計画の持つ特徴は,主に勧められていることを行うことによって,現世で平安と豊かな充実感を得るために必要なあらゆる理解,あらゆる能力が与えられるということです。またそれは,主のみもとで永遠に幸福な生活を送るために必要な備えにもなります。

証は,教えや義にかなった行いが正当なものであることを確認する霊的な印象によって強められます。しばしばそのような導きには強烈な感情が伴います。涙が込み上げてきて,声が詰まることもあります。しかし,証は感情ではありません。証は,無数の正しい決断から生じる糸で織りなされた人格にとって,不可欠な要素です。自分が信じるもの,少なくとも最初のうちは,信じていながらまだ見ていないものに信頼を置くときに,このような選択を行うことができます。強い証は,平安と慰め,そして保証をもたらします。強い証は,救い主の教えにいつも従っていれば,人生はすばらしいものとなり,将来は安定したものとなり,人生で遭う試練を克服する力が得られる,という確信を生むのです。証は真理を理解することによって強くなります。真理は祈ったり聖文に記された教義について深く考えたりすることで徐々に明らかにされます。約束された結果が得られるという不動の確信に支えられた信仰を持ち,真理に従った生活を送ることによって,証ははぐくまれていきます。

皆さんの証は,の一の律法に喜んで従うときに,また,断食献金をささげるときに強くなります。主はこのことを通じて皆さんを豊かに祝福されます。皆さんの証が強められると,サタンはさらに激しく誘惑しようとします。サタンの働きかけに負けないでください。皆さん自身が強くなればなるほど,サタンから受ける影響は弱くなります。

サタンの影響力は世界で増大していますが,それは同時に,わたしたち自身の強さを証明する環境が与えられているということでもあります。今日,サタンは大混乱を引き起こしていますが,サタンの最終的な運命はイエス・キリストのと復活によって決まっています。サタンは勝利を得ないのです。今でも,サタンは主が設けられた境界内で活動することしかできません。すでに与えられたいかなる祝福も取り去ることはできません。義にかなった決断の蓄積により築かれた人格を変えることもできません。聖なる宮で結ばれた夫婦と子供の間の永遠のきずなを断ち切ることもできません。真の信仰を失わせることもできません。皆さんの証を取り去ることもできません。そうです。これらはわたしたちがサタンの誘惑に負けるときに失われます。しかし,サタンは自分自身の力でそれらを破壊することはできないのです。

要約すると――

  • 神は皆さんの信仰を用いて,皆さんの人格を形成されます。

  • 人格は,皆さんが今まさになろうとしている人物の姿を映し出すものです。

  • 強固な人格は,一貫して正しい選択をした結果生まれるものです。

  • 人格の根底にあるのは高潔さです。

  • 人格が強められれば強められるほど,信仰を働かせる能力は増します。

謙遜とは,御霊を通して高い所から教えを受けることを可能にし,元々は主からの霊感であった源,例えば,聖文や預言者の言葉から教えを受けることを可能にする特質です。謙遜とは,義にかなった人格をはぐくんでくれる貴重でな土壌です。そこで本人の成長という種が発芽します。信仰を働かせることで耕され,悔い改めによって刈り込まれ,従順と善い行いという囲いによって守られた種は,霊的な導きという実を結びます。その結果として,神の霊感と力,すなわち,主の御心を知る霊感,霊感により知った御心を果たす能力を高める力が得られるのです。

わたし自身の人生にこの上なく深い平安と幸福感をもたらしてくれた4つの原則を分かち合いたいと思います。主はその永遠の計画においてこれらの隅石を確立されました。その一つ一つが不可欠です。すべての原則が調和しながら,互いに強め合っています。これらの原則を絶えず熱心に実行することで,強固な人格が形成され,人生の試練を幸福への足掛かりに変えていく能力が,今もとこしえにも増し加えられます。以下がその原則です。

  • 主イエス・キリストを信じる信仰,およびイエス・キリストの計画を通して達成する力が得られるという信仰。

  • してはいけないことをした誤り,あるいはするべきことをしなかった誤りの結果を正すための悔い改め。

  • 生活に力と指針を与えてくれる主の戒めに対する従順。

  • 周りの人の生活を豊かにする無私の奉仕。

義にかなった生活を送ろうと決心しているのなら,落胆しないでください。今はつらい人生のように見えても,あの真理の鉄の棒にしっかりとつかまっていてください。皆さんは,自分で気づいている以上に進歩しているのです。一貫して神の戒めに従うとき,皆さんの苦難は,人格,自制心,そして天の御父と救い主の約束に対する確信をいっそう確かなものとします。聖霊の促しによって,皆さんが,人格を高め,多くの喜びと幸福をもたらす決断を常に下せますように,イエス・キリストのによって,アーメン。