2010–2019
証人
2014年4月


証人

わたしは最も価値ある真理を皆さんと分かち合いたいと思います。

戦争の時代や不確実な時代に,本当にに重要な事柄にしっかりと焦点を合わせる一つの方法があります。

第二次世界大戦は,わたしがひどい霊的混乱を感じた時でした。わたしはほんのわずかな証を携えてユタ州ブリガムシティーの家を後にしており,もっと多くの何かが必要だと感じていました。実質上,わたしたち高校3年生のクラス全員が数週間のうちに戦地に赴いていました。日本の沖縄の北にある伊江島の駐屯地にいたとき,わたしは疑念や不安と闘っていました。福音について個人的な証を得たいと思いました。知りたいと思いました。

眠れないある夜のこと,わたしはテントを出て,掩蔽壕(訳注―敵の攻撃から身を守るために造られた施設)に入りました。その壕は,砂を詰めた50ガロン(約190リットル)燃料用ドラム缶を何本も並べ,また積み重ねて周りを囲って造られていました。屋根はありません。それでわたしは腹ばいになって入り,満天の星空を見上げ,ひざまずいて祈りました。

祈りの途中で,それが起こりました。何が起こったかを話そうとしても,わたしはそれを言葉にできません。表現する力を超えているのです。しかし,今日も,65年以上前のあの夜と同じようにそれははっきりとしています。それが非常に私的で,非常に個人的な現れであることが分かりました。ついに自分自身で知りました。確かに知りました。それが自分に与えられたからです。しばらくして,わたしはその壕からはい出して,宙を歩いているかのような心地よい気分で歩いてテントに戻りました。そして喜びと畏敬の念をもってその夜の残りの時間を過ごしたのです

わたしは自分が特別な人間だと考えることはなく,そのようなことが自分にあったのであれば,誰にでもそれは起こり得ると思いました。今もそう信じています。その後の数年間に,わたしは,そのような経験は同時に,従うべき光であり,担うべき重荷であると理解するようになりました。

わたしは最も価値ある知識であるそれらの真理,すなわち,わたしがおよそ90年の生涯と中央幹部としての50年以上の期間に学び経験した事柄を,皆さんと分かち合いたいと思います。わたしが知るようになったことの多くは,教えることはできませんが,学ぶことのできる事柄の範疇に入るものです。

ほとんどの大いに価値のあるものと同じく,永遠に価値のある知識は,個人的に祈り,深く考えることによってのみ与えられるのです。これらは,断食ならびに聖文研究と併せて行うことで,印象と啓示と聖なる御霊のささやきを招きます。これがわたしたちに天からの教えをもたらし,わたしたちは訓戒に訓戒を学ぶのです。

啓示では次のように約束されています。「わたしたちがこの世において得る英知の一切は,復活の時にわたしたちとともによみがえる。」また,「精励と従順によって,……知識と英知を得る」と(教義と聖約130:18-19)。

わたしが知るようになった一つの永遠の真理は,神が生きておられることです。神はわたしたちの御父であられ,わたしたちは神の子供です。「わたしたちは,永遠の父なる神と,その御子イエス・キリストと,聖霊とを信じる。」(信仰箇条1:1

神は用いることができるその他のあらゆる称号の中から,「父」と呼ばれることを選ばれました。救い主はこう命じておられます。「だから,あなたがたはこう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ』」と(3 ニーファイ13:9。マタイ6:9 も参照)。神が「父」という呼び名を用いられたことは,この世で最も重要なことは何かを理解するようになるうえで,全ての人に向けた教えとなります。

親であることは神聖な特権です。そして,忠実であることによって,それは永遠の祝福となり得るのです。教会における全ての活動の最終的な目的は,男性とその妻とその子供たちが家庭で幸せになれるようにすることです。

結婚していない人々や子供を持てない人々も,求めていながら,今はまだ自分の手の届かないところにありますが,その永遠の祝福を拒まれることはありません。わたしたちは祝福がどのように,あるいはいつ,そのような人々に与えられるか必ずしも知っているわけではありません。しかし,神聖な聖約を交わして守る忠実な人は誰も,永遠に増し加えられるという約束を拒まれないのです。

皆さんのひそかな願いと涙ながらの訴えは,御父と御子御二方の心を打つことでしょう。皆さんの生涯は満たされ,不可欠な祝福は何一つ失われることはないという,個人的な確信が御二方から与えられることでしょう。

聖任された職に務める主の僕として,わたしは,このような状況にある人々に約束します。皆さんの救いと昇栄に不可欠なものが,皆さんにずっと与えられないということは一切ありません。今何も持っていない両手はやがて満たされ,今夢が破れて傷つき,願い続けている心は癒されるでしょう。

わたしが知るようになったもう一つの真理は,聖霊が実在の御方であられるということです。聖霊は神会の第三の御方です。その使命は真理と義について証することです。聖霊は,平安な気持ちや安心感など,多くの方法で御自身を現されます。また,慰めと導きをもたらし,必要なときには正してくださいます。わたしたちは義にかなった生活をすることで,生涯にわたって聖霊を伴侶とできるのです。

聖霊の賜物は福音の儀式を通じて授けられます。権能を持つ人は教会の新会員の頭に両手を置いて,このような言葉を述べます。「聖霊を受けなさい。」

この儀式だけでわたしたちは目に見えて変わるわけではありません。しかし,聖霊の促しに耳を傾けて従うならば,聖霊の祝福を受けます。天の御父の息子や娘はそれぞれ,モロナイの約束が事実であることを知るようになれるのです。「聖霊の力によって,あなたがたは全てのことの真理を知るであろう。」(モロナイ10:5,強調付加)

わたしが自分の人生で得た一つの崇高な真理は,主イエス・キリストについての証です。

最も重要で,かつ,わたしたちが行う全てのことの支えとなるのが,様々な啓示によれば,主の名です。それはわたしたちが教会で務めを果たす際に用いる権能です。祈りは全て,それが幼い子供たちによるものであっても,イエス・キリストの名によって終わります。全ての祝福,全ての儀式,全ての聖任,全ての正式な行為は,イエス・キリストの名によって行われます。これはイエス・キリストの教会であり,イエス・キリストにちなんで名付けられている,末日聖徒イエス・キリスト教会です(教義と聖約115:4参照)。

モルモン書には,ニーファイ人が「〔主の御〕名によって御父に祈ってい〔た〕」ときのあの偉大な出来事が記されています。主が御姿を現して言われました。

「あなたがたはわたしから何を与えられたいのか」と。

「そこで彼らはイエスに,『主よ,この教会をどのような名で呼ぶべきか,わたしたちにお教えいただきたいと存じます。この件について民の中に論争がございますから』と言った。

すると主は,彼らに言われた。『まことに,まことに,あなたがたに言う。民がこのことについてつぶやき,論じ合うのはなぜか。

彼らは,『キリストの名を受けなければならない』という聖文を読んだことがないのか。キリストとはわたしの名である。終わりの日にあなたがたは,この名によって呼ばれるのである。

わたしの名を受け,最後まで堪え忍ぶ者は,終わりの日に救われるであろう。

だから,あなたがたが行うことは何事でも,わたしの名によって行いなさい。あなたがたは教会をわたしの名で呼びなさい。また,父がわたしのために教会を祝福してくださるように,わたしの名によって父に呼び求めなさい。」(3ニーファイ27:2-7

それが主の名,イエス・キリストです。「わたしたちを救いうる名は,これを別にしては,天下の誰にも与えられていないからで〔す〕。」(使徒4:12 )

教会にいるわたしたちは,主がどのような御方であられるかを知っています。神の御子イエス・キリストです。御父の独り子です。殺された御方であり,再び命を得ておられる御方です。御父に対するわたしたちの弁護者です。「〔わたしたち〕は,神の御子でありキリストである贖い主の岩の上に基を築かなければならないことを覚えておきなさい。」(ヒラマン5:12)この御方は人生の嵐の中でわたしたちを支え,わたしたちと家族を守ってくださる錨です。

日曜日ごとに全世界で,国籍や言語を問わず会衆が集まり,同じ言葉で聖餐が祝福されます。わたしたちはキリストの御名を受け,いつもキリストを覚えます。それがわたしたちの心に刻まれています。

預言者ニーファイはこう述べています。「わたしたちはキリストのことを話し,キリストのことを喜び,キリストのことを説教し,キリストのことを預言し,また,どこに罪の赦しを求めればよいかを,わたしたちの子孫に知らせるために,自分たちの預言したことを書き記すのである。」(2ニーファイ25:26

わたしたちはそれぞれ,主イエス・キリストについて自分自身の証を得なければなりません。その後,家族や他の人々にその証を伝えるのです。

さらに,主の業を妨げようとしている悪魔がいるということを忘れないでください。わたしたちは誰に従うかを選ばなければなりません。個人として救い主に従う決意をし,救い主の側に忠実にとどまるようにするときに,わたしたちは守られます。

新約聖書の中で,ヨハネは,救い主とその教えに身を委ねることができない人々がいたことをこう記しています。「それ以来,多くの弟子たちは去っていって,もはやイエスと行動を共にしなかった。

そこでイエスは十二弟子に言われた,『あなたがたも去ろうとするのか。』

シモン・ペテロが答えた,『主よ,わたしたちは,誰のところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。

わたしたちは,あなたが神の聖者であることを信じ,また知っています。』」(ヨハネ6:66-69 )

ペテロは,救い主に従う各人が学ぶことのできる事柄を習得していたのです。イエス・キリストに忠実に献身するために,わたしたちはイエス・キリストを自分の贖い主として受け入れ,またイエスの教えに従って生活するように自分の力の範囲内で全てのことを行います。

これまで長年生活し,教え,奉仕し,何百キロも世界中を旅したことで経験してきた全てのこととともに,わたしが伝えたい一つの偉大な真理があります。それは救い主イエス・キリストについてのわたしの証です。

ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,ある神聖な経験をした後,次のように記録しました。

「そして今,小羊についてなされてきた多くの証の後,わたしたちが最後に小羊についてなす証はこれである。すなわち,『小羊は生きておられる。』

わたしたちは……小羊を見たからである。」(教義と聖約76:22-23

彼らの言葉はわたしの言葉でもあります。

わたしはイエスが神の御子,キリストであられること,そして,イエスは生きておられることを信じており,またわたしは確信しています。イエスは御父の独り子であり,「彼によって,彼を通じて,彼から,もろもろの世界が現在創造され,また過去に創造され〔まし〕た。そして,それらに住む者は神のもとに生まれた息子や娘とな〔ります。〕」(教義と聖約76:24

わたしは救い主が生きておられることを証します。わたしは主を知っています。わたしは主の証人です。イエスが天の御父の子供たち全員のために大いなる犠牲を払い,また永遠の愛を抱いておられることを,わたしは知っています。わたしは心からへりくだり,しかし絶対的な確信をもって,わたしの特別な証を述べます。イエス・キリストの御名により,アーメン。