2010–2019
純粋な愛—イエス・キリストの真の弟子すべてに見られる真のしるし
2018年4月


純粋な愛—イエス・キリストの真の弟子すべてに見られる真のしるし

イエス・キリストの福音は,わたしたちに対する御父と救い主の愛,そして御二方に対するわたしたちの愛と互いへの愛が中心となっています。

わたしたちはトーマス・S・モンソン大管長を愛し,彼がいないことを寂しく思います。また,ラッセル・M・ネルソン大管長を愛し,支持しています。ネルソン大管長はわたしにとって特別な人です。

わたしが若い父親だったとき,当時5歳だった息子は,ある日学校から帰って来ると,母親にこう尋ねました。「パパはどんな仕事をしているの?」それから息子は,新しいクラスメートとそれぞれの父親の仕事について言い合いになったことを教えてくれました。一人の子は,父親は警察署長だと言い,別の子は,父親が大きな会社の偉い人だと誇らしく言いました。

そこで父親のことを聞かれたわたしの息子は,「ぼくのお父さんはオフィスのコンピューターで仕事をしているよ」と答えました。その答えに新しいクラスメートがあまり反応していなかったことに気づいた息子は,こう付け足しました。「それに,ぼくのお父様は宇宙の偉い人なんだよ。」

恐らくそこで,その会話は終わってしまったのでしょう。

わたしは妻に,「そろそろ息子に,だれがほんとうにいちばん重要な御方なのか,もっと救いの計画について詳しく教える時だね」と言いました。

子供たちに救いの計画について教えると,子供たちはそれが愛の計画だと知り,天の御父と救い主に対する愛が増しました。イエス・キリストの福音は,わたしたちに対する御父と救い主の愛,そして御二方に対するわたしたちの愛と互いへの愛が中心となっています。

ジェフリー・R・ホランド長老はこう言いました。「永遠にわたるいちばん大切な第一の戒めは,わたしたちの心を尽くし,精神を尽くし,思いを尽くし,力を尽くして神を愛することです。これが,いちばん大切な第一の戒めです。しかし,永遠にわたるいちばん大切な第一の真理は,神が御自分の心を尽くし,精神を尽くし,思いを尽くし,力を尽くしてわたしたちを愛しておられるということです。その愛は永遠にわたる土台であり,またわたしたちの日々の生活の土台でなければなりません。」1

わたしたちの日々の生活の土台である純粋な愛は,イエス・キリストのすべての真の弟子に求められています。

預言者モルモンはこう教えています。 「したがって,わたしの愛する同胞よ,あなたがたは,御父が御子イエス・キリストに真に従う者すべてに授けられたこの愛で満たされるように,また神の子となれるように,熱意を込めて御父に祈りなさい。」2

愛は,確かにイエス・キリストの真の弟子すべてに見られる真のしるしです。

真の弟子は喜んで奉仕します。彼らは,奉仕が真の愛の表れであり,バプテスマのときに交わした聖約であると知っています。3教会の召しや,地域社会での役割が何であろうとも,彼らは主と隣人を愛し仕えたいという望みが増していると感じています。

真の弟子は喜んで赦します。彼らは,救い主の贖罪がわたしたち一人一人のすべての罪と過ちに及ぶことを知っています。主が「すべての代価」を払われたことを知っています。罪や過ち,悪行に関連するそのほかの霊的な費用や手数料,追加料金や税も,すべて含まれているのです。真の弟子は,人を赦すのも,人に赦しを請うのもすぐに行います。

愛する兄弟姉妹の皆さん,もし赦す力を見いだすのが難しいと感じているのなら,相手が何をしたのかを考えるのではなく,救い主があなたに何をしてくださったのかを考えてください。そうすれば,主の贖罪からもたらされる贖いの祝福によって平安を見いだすことでしょう。

真の弟子は心に平安をもって喜んで主に従います。彼らは,主を愛しているので謙遜で従順です。主の御心,つまり主が何をされるのかだけでなく,主がいつ,どのように行われるかも完全に受け入れる信仰を持っています。真の弟子は,真の祝福とは必ずしも自分が望んでいることではなく,主が望んでおられることだと知っています。

真の弟子は,この世以上に主を愛し,確固とした揺るぎない信仰を持っています。移りゆく混沌とする世にあって,強く,堅固であり続けます。御霊と預言者の声に喜んで耳を傾け,この世の声には惑わされません。喜んで「聖なる場所に立ち」4,今立っている場所を聖い場所にしようとします。どこに行こうとも,ほかの人の心に主の愛と平安をもたらします。喜んで主の戒めに従います。それは主を愛しているからです。喜んで聖約を守り大切にすることで,心が新たにされ,自らの性質が変えられます。

純粋な愛は,イエス・キリストの真の弟子すべてに見られる真のしるしです。

わたしは母から純粋な愛について学びました。母は教会の会員ではありませんでした。

何年も前のある日,わたしはがんで苦しんでいた母を訪ねました。母の命が短いことは分かっていましたが,母の苦しむ様子を見たわたしは心配しました。わたしは何も言いませんでしたが,わたしのことをよく知っている母は,「何か心配事があるみたいね」と言いました。

そして驚いたことに,弱々しい声でこう言いました。「祈り方を教えてくれるかしら。あなたのために祈りたいの。『天のお父様』と言って始めるのは知っているけれど,その後は何と言えばいいの?」

わたしが母のベッドの傍らにひざまずき,母がわたしのために祈ってくれたとき,今までに感じたことのない愛を感じました。それは飾らない,真の,純粋な愛でした。母は救いの計画については知りませんでしたが,心の中に独自の愛の計画,息子に対する母親の愛の計画を持っていました。痛みに苦しんでいて,祈る力もないほどの中で祈り,かろうじて声が聞こえるくらいであっても,確実に母の愛を感じました。

「それほどの痛みに苦しんでいる人が,どうしてだれかのために祈れるのだろうか。祈りが必要なのは本人なのに」と,わたしは思ったことを覚えています。

そしてわたしの頭にはっきりとした答えが来ました。それは純粋な愛です。母はわたしのことをとても愛していたので,自分のことを忘れていました。人生の窮地にあっても,自分よりもわたしのことを愛していたのです。

さて,愛する兄弟姉妹の皆さん,これこそまさに救い主がなされたことではないでしょうか。もちろん,永遠で,より幅広い観点でのことです。主は,あの晩ゲツセマネの園で,わたしたちには想像も理解もできない方法で激しい苦痛を経験されました。助けが必要だったのは主御自身でした。にもかかわらず,最終的には,自らを捨て,すべての代価を支払われるまでわたしたちのために祈られたのです。なぜそのようなことがおできになったのでしょうか。それは,イエスを遣わされた御父と,わたしたちに対する純粋な愛のためです。御自身のことよりも御父とわたしたちを愛されたのです。

主は,御自分がなさらなかったことのために代価を払われました。主は,御自分が犯されなかった罪のために代価を払われました。なぜでしょうか。純粋な愛のためです。主がすべての代価を支払われたので,わたしたちが悔い改めるなら,その代価で払われた祝福を,主はわたしたちのために与えることがおできになります。どうしてそのようにされたのでしょうか。繰り返しますが,常に純粋な愛のためでした。

純粋な愛は,イエス・キリストの真の弟子すべてに見られる真のしるしです。

トーマス・S・モンソン大管長は言いました。「わたしたちが今から,まさに今日から,家族であろうと友人であろうと,あるいは単なる知り合いやまったく知らない人であろうと,神のすべての子供たちに愛を示し始めますように。毎朝起きるときに,どのようなことが起ころうとも愛と優しさをもって応じると決意しましょう。」5

兄弟姉妹の皆さん,イエス・キリストの福音は,愛の福音です。最も偉大な戒めは,愛に関連しています。わたしにとって,愛こそがすべてです。わたしたちのために御子を犠牲にされた御父の愛。わたしたちのためにすべてを犠牲にされた救い主の愛。子供のためにすべてを与える母親や父親の愛。ほかの人にはほとんど気づかれずに,しかし主はよく御存じの,ひっそりと奉仕する人々の愛。常に,そしてすべてを赦す人々の愛。受けるよりも多くを与える人の愛です。

わたしは天の御父を愛しています。救い主を愛しています。福音を愛しています。この教会を愛しています。家族を愛しています。このすばらしい人生を愛しています。わたしにとって,愛こそがすべてです。

救い主の復活を思い出す今日この日が,わたしたち一人一人の霊的に生まれ変わる日となりますように。今日この日が,「わたしたちの日々の生活の土台」である愛に満たされる日々の始まりとなりますように。

わたしたちの心がキリストの純粋な愛,すなわち,イエス・キリストの真の弟子すべてに見られる真のしるしで満たされますように。イエス・キリストの御名により祈ります,アーメン。