歴代大管長の教え
第6章:主の前に完全になる-「日々少しずつ良くなる」


第6章

主の前に完全になる-「日々少しずつ良くなる」

「一度に完全になれると思ってはなりません。そんな期待をしたら,失望するでしょう。今日きょうは昨日より良くなり,明日は今日よりも良くなるようにしなさい。」

ロレンゾ・スノーの生涯から

あるとき,スノー大管長が出席していた神権会で,各長老定員会の代表が立って定員会の働きについて報告していた。青年たちの報告を聞きながら,スノー大管長はずっと昔の自分のことを思い出していた。彼は立ち上がると,次のように言った。

「もし良ければ,皆さんが決して忘れないだろうことを申し上げます。恐らく忘れないように話すことができると思います。

若い長老たちの集まりや,実際には,中年の長老たちの集まりでも必ずと言っていいほど見られるのですが,聴衆の前で話すことを嫌がるような傾向があります。その傾向は,今朝この場で立って意見を述べ,自分たちのしてきたことについて報告した若者たちの中にも見られました。

わたしの経験を少し話しましょう。恐らく的外れな話ではないと思います。長老にすらなっていないころに初めて人前で話したときのことです。あかしするよう初めて言われたとき……それはわたしにとって非常に恐ろしいことでしたが,同時に,立ち上がって証することは自分の義務だとも思いました。しかし,わたしはちゅうちょしました。一人が証を述べ,一人,また一人と証を述べていきました。そこにいたほとんどの人の証が終わっても,わたしはまだ恐ろしくて立ち上がることができませんでした。聴衆の前で話したことが一度もなかったのです。……〔ついに〕わたしは,自分の番が来たと判断し,立ち上がりました。さて,どのくらい話したと思いますか。30秒ほどだったと思います。1分以上話したとは思えません。これがわたしの初めての試みでした。そして,2度目の試みも同じようなものだったと思います。わたしは恥ずかしがり屋でした……が,固く,固く決心しました。このような義務やそのほかの義務を果たすよう言われたら,どのような結果になろうとも必ずそれを果たそうと。これは,わたしがイスラエルの長老として成功するための基の一つとなりました。」

スノー大管長はこの経験から程なくして専任宣教師として最初の集会を開いたことを青年たちに話した。そのときのことを思い出してこう語ったのである。「あれほど恐ろしく思えた集会はありませんでした。一日中祈りました。一人で出て行って主に祈り求めたのです。あの証会以外,それまで〔人前で〕話したことはありませんでした。怖かったのです。そのときのわたしほど物事を怖がる人はまずいないだろうと思います。人が集まり始め,部屋はいっぱいになりました。……わたしは話し始めました。45分くらい話したと思います。」1同じ集会について,スノー大管長は別の記録にこう記している。「集まった人々の前に立ったとき,何を話せばいいのか,わたしには皆目分かりませんでした。にもかかわらず,口を開いて話し始めるやいなや聖霊が力強くくだられ,わたしは光に満たされました。そして,伝えるべき内容と,それを伝えるにふさわしい言葉で頭の中がいっぱいになったのです。人々はひどく驚き,また集会を開いてほしいと言ってきました。」2

スノー大管長は,自分の経験から学んでもらいたい教訓を青年たちに伝えた。「若い友人の皆さん,皆さんには偉大な人物になる機会があります。皆さんが望めば,そのような人物になれるのです。人生のスタートラインにあって,皆さんは非常に困難ではあるけれども不可能ではない事柄を達成しようと心に決めることができます。その望みを遂げようと努力して,最初は失敗するかもしれません。努力し続けても,成功とは言い難い状況に陥るかもしれません。しかし,誠実に努力するかぎり,そして皆さんの望みが義に基づいたものであるかぎり,心の望みを遂げようと努める過程で経験することは,必ず皆さんのためになります。失敗したとしても,失敗でさえもが皆さんの益となるのです。」3

これは,スノー大管長が好んで話すテーマだった。スノー大管長はよく聖徒たちに,完全になるという主の戒めについて話し,本人の勤勉さと主の助けによって,必ずその戒めに従うことができると言った。こう教えている。「わたしたちは神が自分の御父であられることを心で感じなければなりません。間違いを犯したり,力が足りなかったりしても,できるかぎり完全になれるように努めれば,すべてはわたしたちの益となるでしょう。」4

ロレンゾ・スノーの教え

勤勉と忍耐と神の助けによって,わたしたちは完全になるという主の戒めに従うことができる

「アブラムの九十九歳の時,主はアブラムに現れて言われた,『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み,全き者であれ。』」〔創世17:1

これに関連して,救い主の山上の垂訓の言葉を一部引用します。マタイ第5章の最後の節です。

「それだから,あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい。」〔マタイ5:48〕 ……

主がアブラハムに現れて非常に偉大な約束をなさったことと,その約束を成就するために,アブラハムにある条件が課せられたことが分かります。〔アブラハムは〕主の前に完全な者とならなければなりませんでした。救い主は弟子たちに同じ条件を課されました。弟子たちは主と天の御父が完全であられるように完全な者にならなければならなかったのです。これは末日聖徒の課題でもあるとわたしは考えています。そこで提案ですが,末日聖徒の皆さんに,わたしがこれから述べることをよく考えてみるよう勧めたいと思います。

主は末日聖徒に最高の祝福を与えようとしておられます。しかし,その祝福にあずかるためには,アブラハムのように準備をしなければなりません。この準備のため,わたしたちはアブラハムが主から受けたと同じ律法を受けており,それを守るよう求められています。わたしたちはまた,主の前に完成の域に達しなければなりません。その場合に主は,どの場合もそうですが,できないような要求をなさることはありません。神聖な命令に従うことができるよう,末日聖徒のために手段を用意しておられるのです。アブラハムにこの条件を課されたとき,主は,アブラハムが律法に従い,しかも条件も完全に満たすことのできる手段をお与えになりました。アブラハムには聖なるたまを受ける特権がありました。わたしたちが聞いているとおり,アブラハムは福音の教えを受けていたので,福音を通して神の助けを受けることができました。そのため神にかかわることを理解することができたのです。神の助けなしにそれを理解できる者はなく,神の助けなしに主の前に完成の域に達することのできる者はいません。

末日聖徒についても同じことが言えます。末日聖徒も,超自然的な〔天の〕助けなしにそのような道徳的,霊的に高いレベルに到達することはできません。またわたしたちは,いかなる状況にある末日聖徒もこの律法に一度に従うようになるとは思っていませんし,そんなことができるとも思いません。この戒めに従うには時間がかかりますし,かなりの忍耐が必要です。また,思いと心を律しなければなりません。努力しても最初はうまくいかないかもしれませんが,末日聖徒はひるまずに決意を貫き,この大変な条件を満たせるよう努力するべきです。アブラハムはこの神聖な律法に従って主の前を歩む信仰を持っていたにもかかわらず,非常に厳しい信仰の試練を何度も受けました。それでもひるまなかったのは,神の御心みこころに従うという決意を貫こうと努めたからです。

わたしたちは完全な者になるという律法を達成不可能だと考えがちです。完全な者になるなど難しすぎると考えてしまうのです。これはある意味で確かなのかもしれませんが,この律法が全能者から与えられた戒めであってないがしろにはできないという事実は依然として残ります。試練に遭ったら,それは主に力と理解力,知恵と恵みを求めるという偉大な特権を活用する時です。そうすることによって肉の弱さを克服することができます。肉の弱さとは常に戦わなければなりません。5〔93ページの提案1と2参照〕

主から求められることを行うとき,わたしたちはその点に関しては完全である

アブラハムは親族から離れ,国を離れるよう命じられました〔アブラハム2:1-6参照〕。この命令に従わなければ,主から認められなかったことでしょう。しかしアブラハムは従いました。そして,国を離れたということは,確かに,完全な者になるという神聖な律法に従って生活していたのです。そうでなければ,決して全能者のこの命令に従うことはできなかったはずです。父の家を離れ,その試練に身を任せるということは,自分の良心に恥じることがなく,神のたまからも義とされる行いでした。アブラハムはこれを行うに当たって何の間違いも犯しませんでした。これほどよく神の命令に従うことのできる者はほかになかったと言えるでしょう。

世界中の国々で末日聖徒が福音を受け入れ,全能者の声が彼らに聞こえて,アブラハムのように父の家を離れ,親族のもとを離れるよう命じられた場合,それに従うならば,完全な者になるという律法に従って歩んでいることになります。この場合,その状況で,その行動の影響力が及ぶ範囲で,できるかぎり完全な者になっているのです。これは知識や力などがかんぺきだという意味ではありません。気持ちのうえで,誠実さの点で,動機と意志の強さの点で完全なのです。また,海を渡っているときに,与えられた勧告に文句も不平も言うことなく従い,いかなる点においてもふさわしく行動したのであれば,彼らは神から要求された完成の域に達していたことになります。

わたしたちが永遠の世界で生まれた神の子孫であり,神の前に戻って御父の完全な栄光を得るという特別な目的のためにこの世に来ていることを,主は直接啓示によって知らせてくださいました。ですから,わたしたちは完全な者になるという律法を守る能力を願い求め,自分の動機や望み,考え,感情を清めて純粋で神聖なものにし,すべてのことについて自分の思いを主の御心みこころに従わせ,御父の御心を行うこと以外にはどんな望みも持たないという状態になれるようにしなければなりません。これを願い求める人はその望みにおいて完全であり,何を行おうとどこへ行こうと神から祝福を受けます。

しかし,わたしたちは肉の弱さのために愚かなことをしてしまいます。それに,程度の差こそあれ無知ですから,間違いを犯しがちです。確かにそうなのですが,だからといって完全になるという神の戒めに従う資格がないと感じる必要はありません。特に,この業を成し遂げる手段が神から与えられていることを考えると,なおさらです。わたしはこれこそが,救い主であり主である御方がアブラハムに言われた,完全な者になるという意味だと理解しています。

人はある点では完全であっても,別の点では完全でない場合があります。知恵の言葉に忠実に従っている人は,その律法に関しては完全です。わたしたちが罪を悔い改め,そのゆるしのためにバプテスマを受けたならば,その点についてわたしたちは完全です。6〔93ページの提案3参照〕

失敗してもひるまず,悔い改めてさらに良くなれるよう神に力を求めることができる

さて,わたしたちは使徒ヨハネから次のように言われています。「わたしたちは……神の子である。しかし,わたしたちがどうなるのか,まだ明らかではない。彼が現れる時,わたしたちは,自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿みすがたを見るからである。彼についてこの望みをいだいている者は皆,彼,つまりキリストがきよくあられるように,自らをきよくする。」〔1ヨハネ3:2-3参照〕末日聖徒は,このような完成の域に達することを望んでいます。御父であり神である御方のような者,神の前に住むにふさわしい神の子供になりたいと望んでいるのです。神の御子が御姿を現されるときには自分の肉体が更新されて栄光を受け,「この卑しいからだを,ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さる」と信じているのです〔ピリピ3:21参照〕。

これがわたしたちの望みです。では,ここにいるすべての皆さん,次のように自問してみましょう。これらの望みに十分な根拠はあるのでしょうか。言い換えれば,わたしたちは自分を清めようとしているでしょうか。自分を神の清さにまで清め,神に対しても人に対しても良心に責められることのないように日々の生活で努めていないとしたら,末日聖徒は義とされていると自負することができるでしょうか。確かにわたしたちの多くは,毎日,毎週,毎月,神の前に罪の宣告を受けることなくふさわしい行いをし,神のたまから日々歩むべき道を教えてもらえるよう熱心に謙遜けんそんの限りを尽くして祈り求めています。しかしそれでも,人生のどこかで大きな試練に遭い,打ち負かされてしまうことが一度や二度はあるかもしれません。たとえそのようなことがあったとしても,再度試みてはならないということはないのです。力と決意を倍加して,わたしたちの目標を達成しようではありませんか。7

主は地に住む神の子供たちに慈悲を示そうとしておられますが,罪を犯したり,義務を果たさなかったりした場合には,心からの悔い改めをお求めになります。神の子供たちが従順になり,すべての罪を捨て,自らを清めてまさに主の民,主の聖徒になれるよう努めて主の前に行く用意ができ,あらゆる点で主に似た者となり,主の栄光の中で主とともに治めるようになることを望んでおられるのです。これを成し遂げるためには,細くて狭い道を歩み,自分の生活をさらに輝かしく良いものにしていき,信仰に満たされ,キリストの純粋な愛である慈愛に満ちるようになって,福音のすべての義務を忠実に果たすようにならなければなりません。8

アブラハムの生涯や,ほかの偉大な清い人々の生涯を細かく読むことができたとしたら,義にかなった者になろうと努力しても,必ずしもうまくいくときばかりではないことがきっと分かるでしょう。ですから,たとえ気が緩んで打ち負かされたとしても落胆すべきではないのです。反対に,誤りや間違いを犯した場合にはすぐに悔い改めてできるかぎり償い,そして新たな力を神に祈り求めて前進し,さらに善い行いをしてください。

アブラハムは父親の家を離れてから,日々神の前を完全な者として歩むことができました。自分の牧者と,おいであるロトの牧者との間で争いが起こったときに,治める者としての風格と自制心を示して解決策を示したのです〔創世13:1-9参照〕。しかし,アブラハムの人生に,とてつもない試練の時がやって来ました。実際,これほどつらい試練はほかに考えつきません。それは,愛する独り子を犠牲としてささげるよう主から命じられたときのことです。主の偉大な約束の成就だと思っていた独り子のイサクです。しかし,アブラハムはふさわしい態度を示してこの試練を乗り越え,神に対して信仰を持っていることと,誠実であることを証明しました〔創世22:1-14参照〕。アブラハムが偶像礼拝の親からこのような精神を譲り受けたとはとうてい考えられませんが,わたしたちと同じように肉との戦いを経て,神の祝福の下で獲得できたと考えることはできます。戦いの過程で時に打ち負かされたこともあったに違いありません。しかし,克服し続けました。その結果,これほど厳しい試練に立ち向かえるようにまでなったのです。

使徒パウロはこう言っています。「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを,あなたがたの間でもたがいに生かしなさい。キリストは,神のかたちであられたが,神と等しくあることを固守すべき事とは思わ〔なかった。〕」〔ピリピ2:5-6参照〕そうである以上,完全な者になるという目標を持つ人はだれでも,神のごとくに自分を清め,神の前に完全な者として歩もうとすることでしょう。少々愚かな行動や弱さがあるにしても,できるかぎり早くそれらを克服するよう努めるべきです。そして,子供たちにもそのような気持ちを心に植え付けて神に対するの念がごく幼いころから育つようにし,あらゆる状況において主の前にふさわしい行いができるように育てるべきなのです。

夫が妻とけんかをせず,だれに対しても不親切な応対をすることがなく,いかなる点でも神の御霊を悲しませるようなことのないまま一日過ごすことができたとしたら,それはすばらしいことです。その一日は完全でした。次の日もそのように過ごしてみましょう。次の日にできない点があったとしても,3日目はうまくいくかもしれません。 ……

末日聖徒は昔の使徒たちが明確に示したこの望みを絶えずはぐくんでいくべきです。だれに対しても良心に責められることなく歩めるよう,日々努めるべきなのです。それに,神はわたしたちが助けを受けられるよう,教会の中に手段を備えておられます。それはつまり,使徒や預言者,伝道者であり,「聖徒たちをととのえ〔る〕ため」です〔エペソ4:11-12参照〕。また,主はわたしたちに聖なる御霊を与えてくださっています。御霊は神の天使に似た,間違うことのない導き手であり道しるべであって,傍らにいてわたしたちになすべきことを教え,わたしたちを力づけ,難しい状況に陥ったときには助けてくれます。自分の弱点が見つかる度に意気消沈してはなりません。古今の預言者の輝かしい模範をくまなく調べてみても,悪しき者に打ち負かされて意気消沈した例はまず見ることができません。逆に彼らは,悪しき者の影響力に打ち勝とうと常に努め,褒美を得て完全な栄光を得られるよう常に努力していました。9〔93ページの提案4参照〕

神の助けによって,この世の愚かしさや虚栄に惑わされずに生きることができる

自分は福音を受け入れたのだから,激情や欲望に打ち勝ち,あらゆることにおいて自分の思いを天の御父の御心みこころに従わせることができる,家族や親交のある人を不快にするようなことをせず,地上に小さな天国を作るために大いに働くことができると確かに思えるようになったとき,わたしたちは戦いに半分勝利したと言えるのかもしれません。多くの人が悩む大きな問題の一つは,自分が召された聖なる召しはおろか,人生の大きな目標も,天の御父が自分を死すべき状態でこの世に送ってくださった理由も忘れてしまいがちだということです。そのためわたしたちは,つかの間の物事に心を奪われて,この世的な生活に埋没してしまうことがあまりにも多いのです。神が用意された聖なる助けに頼る以外にこれを克服できる方法はないのですが,それに頼るということがありません。天の御父が完全であられるように完全な者になろうという気持ちを育てていかないとしたら,わたしたちは世の人々と何ら変わりがないのです。

これは古い時代の聖徒たちへの救い主の勧告です。わたしたちと同じような望みを持ち,わたしたちと同じような誘惑に遭った人々です。そして主は,彼らがその勧告に従えるかどうか御存じでした。主は成し遂げられないことを御自分の子供たちにお命じになったことはなく,これからもないでしょう。曲がったよこしまな時代の人々の真っただ中で,悪と腐敗に満ちた人々に救いの福音べ伝えるために世に出て行こうとしているイスラエルの長老たちは,特にこの気持ちをはぐくむべきです。そして彼らだけでなく,聖徒と呼ばれるにふさわしいこの教会に所属するすべての人,すべての若い男女は,この勧告に従って生活するという望みをはぐくみ,神の前に澄んだ良心を持てるようにするべきです。この目標を視野に入れるのは,若者にとっても年長者にとっても非常に良いことです。特に教会の若人が神の光と英知で顔が輝くような道を選び,人生を正しく理解し,世の愚かしさや虚栄,人の間違った考えや悪に惑わされずに生きる力を備えているのを見るとうれしくなります。10

末日聖徒はこの世のことを煩う必要がありません。この世のものはすべて過ぎ去るのです。わたしたちは心を天に向けるべきです。あらゆることにおいて御父に完全に従われ,大いなる昇栄を受けて兄弟たちの模範となられたキリスト・イエスの完全さを目指して努力するべきです。わたしたちにはこのように偉大で輝かしい行く末があるというのに,なぜ,この世的な物事に煩い,悩まなければならないのでしょうか。揺るがぬ心で主に対する信仰を持ち続け,主の戒めを守り,主の完全さを手本として,天にある主の王国で永遠に生きることが現実になるよう努めるならば,すべてのことはわたしたちの益となり,わたしたちは打ち勝って,最終的には勝利を得るでしょう。11

あなたのすることなすことすべてについて,永遠へと続く生活を築いているのだという意識を持ちなさい。天では恥ずかしくて従えないような原則に従って行動してはなりません。日の栄えの光に照らされた良心が認めないものを手に入れるために,どのような策も講じてはなりません。気持ちや感情があなたを行動に駆り立てたとしても,純粋で称賛に値する神聖で徳高い原則に常に従いなさい。12

一度に完全になることはできないが,日々少しずつ良くなることはできる

子供は赤ん坊から着実に成長して少年になり,少年から大人になりますが,どのようにして成長するのか,いつ成長しているのか自分では分かりません。自分の成長に気づかなくとも,健康の律法に従い,賢明に振る舞うことによって,やがて大人になります。わたしたち末日聖徒についても同じです。わたしたちは成長し,力を増していきます。今はそれが分からなくても,1年くらいたってみると,いわば丘を登り,頂上に近づいていることが分かるのです。わたしたちは主を信じる信仰を持ち,いつも神の摂理にあずかっていると感じています。わたしたちは主に結ばれており,主は確かにわたしたちの御父であって,わたしたちの人生を導いておられるのです。13

一度に完全になれると思ってはなりません。そんな期待をしたら,失望するでしょう。今日きょうは昨日より良くなり,明日は今日よりも良くなるようにしなさい。今日,何らかの誘惑に少し負けたのなら,明日はそれ以上負けないようにしようではありませんか。このようにして,日々少しずつ良くなっていくのです。そして,自分はもとより,ほかの人にも善を成し遂げることのないまま人生が終わってしまうことのないようにしましょう。14

今日がいちばん良い日になるよう,今週がいちばん良い週になるようにするべきです。知識と知恵において,善を成し遂げる能力において,毎日少しずつ成長するのです。年を重ねるにつれ,日々主に近づくようにするべきです。15〔93ページの提案5参照〕

研究とレッスンのための提案

本章を研究する際,またはレッスンの準備をする際に,以下の項目について深く考える。そのほかの提案については,ⅴ-ⅶを参照する。

  1. スノー大管長は,完全な者になるという戒めが守れるのかと不安になる人がいることを承知しています(85-87ページ)。本章を研究して,完全な者になるという戒めが守れるのか悩んでいる人にとって慰めになるような勧告を探してください。

  2. 85ページから始まる項に出てくる「超自然的な助け」という言葉は,主の助けのことを指しています。わたしたちが完全な者になれるよう,主はどのような方法で助けてくださるでしょうか。

  3. 87-88ページを読んで,アブラハムと初期の末日聖徒に関するスノー大管長の見解についてよく考えてください。「その行動の影響力が及ぶ範囲で」完全になるとはどういう意味だと思いますか。「気持ちのうえで,誠実さの点で,動機と意志の強さの点で」さらに完全になるために,わたしたちにはどのようなことができるか,深く考えてください。

  4. スノー大管長は「自分の弱点が見つかる度に意気消沈してはならない」と言っています(90ページ)。どうしたら意気消沈しないようにすることができるでしょうか(幾つかの例については,88-90ページを参照)。

  5. 「一度に完全になれると思〔う〕」べきではないということが分かると,あなたの思いや行動はどのように変わりますか(92-93ページ参照)。「日々少しずつ良くなる」ようにというスノー大管長の勧告に従うことができるよう,具体的な方法を考えましょう。

  6. 本章の中で,心に特に響く言葉を一つか二つ探してください。その言葉のどこが気に入っていますか。

関連聖句-1ニーファイ3:73ニーファイ12:48エテル12:27モロナイ10:32-33教義と聖約64:32-3467:1376:69-70

教える際のヒント-「人は自分の貢献が認められるとうれしいものである。個人の意見に対しては特別な努力を払って認めるようにし,可能であれば,その意見に基づいて話し合いをする。」(『教師,その大いなる召し』35)

  1. “Anniversary Exercises,” Deseret Evening News1899年4月7日付,9

  2. エライザ・R・スノー・スミス,Biography and Family Record of Lorenzo Snow(1884年),16

  3. “Anniversary Exercises,” 9

  4. “Impressive Funeral Services,” Woman’s Exponent1901年10月号,36

  5. Deseret News: Semi-Weekly1879年6月3日付,1

  6. Deseret News: Semi-Weekly1879年6月3日付,1

  7. Deseret News: Semi-Weekly1879年6月3日付,1

  8. Deseret Semi-Weekly News1898年10月4日付,1

  9. Deseret News: Semi-Weekly1879年6月3日付,1

  10. Deseret News: Semi-Weekly1879年6月3日付,1

  11. Deseret Semi-Weekly News1898年10月4日付,1

  12. Millennial Star1851年12月1日付,363

  13. Conference Report,1899年4月,2

  14. Improvement Era1901年7月号,714

  15. Improvement Era1899年7月号,709

山上の垂訓で救い主はこう言われた。「それだから,あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48

主はアブラハムに命じられた。「あなたはわたしの前を歩み,全き者であれ。」(創世17:1

わたしたちは,家族関係を良くするために日々努力しなければならない。