トーマス・S・モンソン大管長

(1927-2018年)

預言者であり友


 

1963年から1985年まで十二使徒定員会会員として,1985年から2008年まで大管長会顧問として,2008年2月から末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長を務めてきたトーマス・S・モンソン大管長が,2018年に逝去しました。伴侶のフランシス姉妹は2013年に先立ちました。夫妻には3人の子供がいます。

トーマス・S・モンソン大管長

救急治療室にいた患者は退院してもよさそうに思えましたが,ソルトレーク・シティーの医者と職員たちは躊躇しました。治療を受けてすっかり回復したように思えましたが,みすぼらしい身なりと不安定な生活状態を考えると心配になったのです。「退院後も治療を続けるのを助けてくれる家族や友人がいますか」と医者は尋ねました。「いませんね」と患者は答えましたが,ふと思い出したように言いました。「実は,時々世話をしてくれる友人がいます。トム・モンソンという名前の人です。」2

2013年4月の総大会―部会の後,あの独特の方法で手を振るトーマス・S・モンソン大管長

トーマス・スペンサー・モンソン大管長について,長年の友人はこう語っています。「彼は恵まれない人たち,失業者や貧しい者の特別な友人でした。」3生涯にわたり,特に30年以上大管長会の一員として重責を担いましたが,その間も含めて,高齢の友人や見知らぬ人を個人的に訪問することを何よりも優先し,御霊の促しを受けると,重要な集会の合間を縫ってさえ,病気の子供に神権の祝福を授けに行きました。プロのスポーツイベントに出席するときには,著名な友人や役人を招待するのではなく,昔から知っているごく普通の友人を連れて来ました。ウェスト高校の同窓会には毎回,「トム・モンソン」の名札をつけて出席しました。このトーマス・モンソンについて,息子の一人はこう語っています。「個人の社会的地位や役割,そのほかの著名な業績については,まったく差別待遇することがありませんでした。50年来の名もなき友人を,知事や議員,著名なビジネスマンと同じか,それ以上に厚くもてなしました。」4

IP-918533

トーマス・S・モンソン大管長。写真/トム・スマート,Deseret News

末日聖徒イエス・キリスト教会の第16代大管長の逝去により,教会内外の無数の友人と信者を始め,また地位の上下を問わず,人々は忠実な友を失いました。「わたしは常に主の助けを必要としてきましたし,常にそれを求めてきました」5と語るモンソン大管長は,教会運営において次のような業績を残しました。人道支援,会員を訓練し助けるためのインターネットサイト,世の人々が教会を理解する助けとなる広報活動,主の御業を速めるための一連の革新的な試みなどを通して,世界中の人々に手を差し伸べたのです。そうした新しい試みとして,若い男性と若い女性が専任宣教師として奉仕できる年齢を引き下げ,(テクノロジーの活用を含め)宣教師が人々に手を差し伸べる方法を拡大し,伝道活動における会員と地元指導者の役割にいっそう明確な重点を置きました。大管長が任期を務める間に,管理的な務めよりもキリストの弟子としての職を強調する内容の新しい教会手引きが作成されました。家族歴史活動はシンプルになりました。その結果,系図を探求し,身代わりのバプテスマやそのほかの救いの儀式を受けるために神殿へ名前を提出する作業が以前より簡単になりました。

2013年10月総大会―部会後,少年と握手をするためにかがみ込むトーマス・S・モンソン大管長。写真/オーガスト・ミラー,Deseret News

大管長は多くの重要な業績を達成しましたが,モンソン大管長が残した最も重要な遺産は,自ら示した力強い模範だということを疑う人はいないでしょう。大管長の好きな聖句の一つは,使徒行伝10章38節です。ナザレのイエスが「よい働きをしながら……巡回され」たという一節です。モンソン大管長は,救い主がわたしたちに熱心に勧められたように,常に良い働きをしました。すなわち,空腹の人に食物を与え,旅人に宿を貸し,裸の人に着せ,病人を見舞い,孤独と絶望という獄で寂しさの淵にいる人を訪ねました(マタイ25:34-40参照)。人道主義を掲げ,プログラムよりも人に重きを置き,一心に御霊に従う姿勢を貫いたモンソン大管長を長年取材したある記者はこう書いています。「人々を高め,安心感と慰めをもたらし,元気づけるために,これほど大きな努力を払う人に今まで出会ったことがありません。」6家族,苦難,機会,また言うまでもなく,奉仕に満ちた生涯を通して,トーマス・S・モンソンは自らの教導の業においてキリストのような模範を残したのです。


思いやりに満ちた家庭

ソルトレーク・シティーを通り抜ける鉄道線路から程近いサウス500番地とウェスト200番地の角地に立つ家で,ジョージ・スペンサー・モンソンとグラディス・コンディー・モンソンは,スコットランド出身の開拓者の子孫であるグラディスの親戚に囲まれながら,大恐慌の時期に子育てをしました。ジョージの祖父母はそれぞれスウェーデンとイングランドで教会に入り,その後アメリカへ移住,ソルトレーク・シティーに入植しました。1927年8月21日,ジョージとグラディスの第二子となる長男が誕生し,母方の祖父トーマス・シャープ・コンディーと父親の名にちなんでトーマス・スペンサー・モンソンと命名されました。

トーマス・S・モンソンの両親,ジョージ・スペンサー・モンソンとグラディス・コンディー・モンソン

親戚に囲まれながら,モンソン一家はほかの多くの人々に愛を示しました。町をさまよい歩く空腹の渡り労働者の訪問を受けることは,その近所では珍しくありませんでした。グラディス・モンソンはそのような訪問者を「招待客のように」迎え入れ,食事を提供した,とモンソン大管長は後に回想しています。7グラディスはまた,毎週日曜の晩になると,近所の「ボブじいさん」に夕食を届けさせました。ボブじいさんはいつもトムに配達のお駄賃として10セント硬貨を差し出しましたが,「お金は頂けません」とトムは思いやり深く答えました。「そんなことをしたら,母にしかられます。」8毎週日曜日になると,トムの父親は,関節炎で足が不自由になったエライアスおじさんとトムを1928年型オールズモビルに乗せて町中をドライブしました。

「人生のこの時期において,わたしは母と父の行動から大きな影響を受けました」とモンソン大管長は述べています。「わたしは,二人がめったに教会に出席していないことに気づきませんでした。」9モンソン大管長は,両親が忍耐と善意の持ち主だったと振り返っています。「父がだれかについて否定的な発言をしたのを聞いたことは一度もありません。実際,だれかがほかの人に対して失礼な,あるいは否定的なことを話していると,父は部屋から出て行ったものでした。」10

当然のことながら,こうした態度や行動がトムに受け継がれていきました。あるクリスマスのことです。トムはおもちゃの電車セットをもらって大喜びでした。近所に住む父親のいない男の子に贈るために,さほどすばらしくもない電車のセットが用意してありましたが,トムは自分のもらった分に加え,その中の車両も欲しいと母親にせがみ,それももらいました。後でトムと母親が贈り物を届けに行くと,ささやかな電車のセットにおおはしゃぎをしている男の子の姿を見て,トムは後ろめたさを感じました。トムは,セットから取った車両だけでなく,自分の車両も取りに,家へと走って行きました。11トムは後に,七面鳥も鶏も食べたことのない友人の家族に,飼っていたウサギを二匹,クリスマスの夕食用に差し出しました。12野球をしていて,トムと仲間たちの打ったボールが近隣の家の庭に落下することが何度もあり,家主の女性は閉口していました。(彼女はボールをつかんでは没収したものです)そこで,トムはこの状況を打開しようと決意しました。女性と言葉を交わすこともなく,トムは夏の間,彼女の庭に定期的に水をまき,秋には芝生を掃きました。するとある日,彼女がトムを招いて,ミルクとクッキーをごちそうしてくれました。そうして,箱いっぱいのボールをくれたのでした。13

とは言え,少年時代には良い行いもしたけれど,時にはしかられるようないたずらもよくしたことを,モンソン大管長はしばしば認めています。あるとき,トムはいとこと一緒に近所の野良犬を集めて裏庭の石炭小屋に入れました。トムの父親が小屋のドアを開けると,そのうちの6匹が父親に飛びかかりました。14またある午後には,初等協会の会長がトムを連れ出し,多くの男の子たちが初等協会の開会行事で静かにしてくれないので悲しいと話します。トムは手伝うと言いました。すると「途端に,初等協会での行儀の問題が解決したのです」と大管長は当時を振り返ります。15しかし,誘惑がなくなることはありませんでした。あるとき,初等協会の午後のクラスを休もうと,友達を説得しました。トムがポケットから1セント硬貨を取り出し,初等協会子供病院のための献金箱に入れてからすぐに抜け出そうということになりました。トムと友人は,トムのポケットに入っていた10セントを使って,アイスクリームを食べに出かける計画でした。ところが,その計画は失敗に終わりました。トムがついうっかり1セント硬貨ではなく,10 セント硬貨を献金してしまったことが分かったからです。そこで二人は戻り,トムはがっかりして1セント硬貨も献金しました。後にトムはこう述べています。「長い間,恐らく自分は初等協会子供病院へ最も多くの投資をした人物だと思っていました。」16

子供時代に住んでいた家の前で三輪車に乗る幼いトム・モンソン

プロボ峡谷にある一家の山小屋を度々訪れた経験をきっかけに,トムは生涯にわたってカモ狩りやキャンプ,釣り,川遊びを好みました。危険な渦に巻き込まれそうになっていた少女を助けたこともあります。17モンソン大管長は友人と,家族の山小屋近くの草に愚かにも火をつけてしまった時の経験について語っています。いつものように,大管長はそのような身近な話を用いて重要な福音の原則を伝えました。18

トーマス・S・モンソン―左:13歳当時,ビビアン公園にて。右:1971年7月19日,息子のクラークとともに―生涯にわたり野外活動を愛好した。

トムは週に数回,ソルトレーク・シティーの家の近くのチャップマン公立図書館を訪れ,読書や作家が好きになりました。その結果,後にワーズワース,ロングフェロー,ブライアント,テニソン,シェークスピアといったお気に入りの詩人から多くを引用することができるようになったのです。19

特に好きだったのは,ハトの飼育でした。少年のころから始めたこの趣味は大人になっても続きました。この趣味を通して少年トムは管理の職における教訓を学びました。アロン神権定員会アドバイザーがハトをくれたのですが,ハトはその後もアドバイザーの家へ戻り,結果としてトムが毎週神権の面接を受ける機会を作ってくれたのです。20一方,イエス・キリストに対する証の基を据えてくれたのは,愛する日曜学校教師のルーシー・ガーシュでした。騒々しい少年たちのクラスを愛するガーシュ姉妹から,聖書についての御霊にあふれるレッスンを聞くうちに,彼らの手に負えない行動が変わっていったのです。21


青年時代

大恐慌における経済的な制約により,トムは12歳の年齢で父が切り盛りする印刷会社で働かざるを得なくなりました。22しかし,トムの高校在学中,第二次世界大戦が,大恐慌よりもさらに大きな影を落とすようになりました。「戦争が続けば自分も軍に入隊するだろうと,男性ならばだれもが覚悟していました。」モンソン大管長は10代のころをこう振り返っています。23歴史をこよなく愛する優等生のトムは,17歳のときにユタ大学に入学しました。24歴史の教師になることを真剣に考えていましたが,ビジネスの単位を取りつつ,ローウェル・ベニオン博士とT・エドガー・ライオン博士が教えるインスティテュートクラスを楽しみました。25

良い成績を収めたトム・モンソンは,ユタ州ソルトレーク・シティーのウェスト高校を卒業後,17歳でユタ大学に入学した。

大学在学中,トムは生涯愛する人に出会います。歓迎ダンスパーティーでフランシス・ジョンソンに紹介された後,トムは彼女を訪ねるようになりました。後に,自分のにぎやかな家とジョンソン家を比べてこのように語っています。「〔彼女の家を包む〕品位と静けさにとまどいました。」26フランシスの父親はモンソンという名字に気づき,目に涙をためてトムを抱き締めました。トムの大おじエライアスが,スウェーデンでジョンソン一家に福音を紹介したことが分かったためです。27トムとフランシスはビッグバンドが好きで,トミー・ドーシーやグレン・ミラーといったバンドリーダーのダンスパーティーにしばしば参加しました。28

1945年,トムは米国海軍予備隊に入隊しました。新兵訓練所で過ごした最初の3週間について,大管長は後に冗談交じりにこう述べています。「わたしは命が危険にさらされていると感じました。海軍はわたしを訓練しようとしているのではなく,殺そうとしていると思ったほどです。」しかし,苦しい経験とともに,霊的な経験もしました。ある日曜日のことです。兵曹長が全員を整列させ,カトリック教徒,ユダヤ教徒,プロテスタント信者にそれぞれの集会所へ行くように命じました。それからトムに近づくと,こう尋ねました。「おまえたちは一体どこに所属しているのかね。」

1945年―米国海軍予備隊に入隊したトム・モンソン

後にモンソン大管長は当時を思い起こしてこう述べています。「練兵場でわたしの横や後ろにだれかが立っていることをそのとき初めて知りました。各々がほとんど同時に言いました。『モルモンです。』」29

クリスマスが近づいたある晩のことです。トムの友人で教会員のレランド・メリルが,隣のベッドで苦しそうにうめき始めました。彼はわらにもすがる思いでささやきました。「モンソン,モンソン,君は長老だったよね。」そして神権の祝福を求めましたが,トムは一度も祝福をしたことがありませんでした。静かに助けを祈り求めると,「セーラーバッグの底を見なさい」という答えを受けました。真夜中の2時でした。バッグから『宣教師の手引き』が見つかったのです。そこには病人を祝福する方法の指示が書かれていました。後に大管長はこう述べています。「それから60人ほどの水兵が好奇の目で見守る中,わたしは祝福を行いました。わたしが荷物をバッグにしまう前に,レランド・メリルは子供のように眠りに就きました。」30また,トムは兵役の間にほかの人々からも学びました。「わたしたちモルモンがベッドで横になって祈っていた」ときに毎晩ひざまずいて祈っていた若いカトリック教徒を称賛しました。31

兵役に就いて1年後,トムは故郷へ帰りました。ユタ大学を優等で卒業し,教会所有のデゼレト・ニューズ社で宣伝部長として働くことになります。卒業してから数か月後の1948年10月7日には,ソルトレーク神殿でフランシス・ジョンソンと結婚しました。「わたしは,すぐに自立するようになりました」とモンソン姉妹は結婚して間もないころを振り返ります。32突然,主は若いモンソン兄弟とモンソン姉妹に,神の王国の建設にたゆみなく携わるよう求められたのです。

トム・モンソンは1948年10月7日,ソルトレーク神殿でフランシス・ジョンソンと結婚した。


教導と奉仕の業

1950年5月,トムとフランシスのビショップ,ジョン・R・バートがステーク会長会に召されました。だれが次のビショップを務めるべきかと尋ねられたバートビショップは,数分間押し黙りました。「22歳の子供が次期ビショップになるべきだということを〔ステーク会長に〕どのように説明したらよいか考えていました。」33このようにして,トーマス・S・モンソンのテンプルビュー第6ワードでの務めが始まりました。当時,このワードには夫に先立たれた女性が85人いて,教会の中でも最大級の福祉活動が求められていました。この特殊なワードでビショップを務めたことにより,トムがすでに持っていた深い慈愛に満ちた特質がさらに強められたのです。トムはクリスマスの時期になると,お菓子や本,ローストチキンなどを手に,夫に先立たれた女性を一人一人訪問しました。34彼女たちと非常に親しくなったため,ビショップから解任されて以降も長い間多くの姉妹のもとを毎年訪れ,中央幹部の在任期間中に85人すべての葬儀で弔辞を述べようと努めました。35ビショップとして奉仕した5年間について,このように振り返っています。「未熟さのおかげで謙遜にさせられました。」しかし同時に,「ごく若い時期に,助けを必要としている,さまざまな年齢や状況に置かれた人々に対する思いやりをはぐくむことができた」ことに感謝しました。36トムは,宗派を問わずワードの境界線内にいるすべての人に仕え,教え,導きました。また,あまり活発でない会員を捜し出しました。ある日曜の朝には,ガソリンスタンドへ行き,作業用のピットで働く青年に定員会の集会に戻るよう勧めることもありました。37

モンソンビショップ(中央),および6人いた顧問のうち最後の二人,エルウッド・A・ブランク(左)とウィリアム・M・ラーセン(右)

この特別な召しは難しい教訓も与えてくれました。ステーク指導者会に出席していたときのことです。モンソンビショップは,すぐにその場を離れ,退役軍人病院で治療を受けている高齢のワード会員を訪問するようにという強い促しを受けました。運悪く,ちょうどステーク会長が話をしている最中でした。そこで若きビショップは,もどかしいながらも話が終わるのを待ち,病院へ駆けつけました。その男性の病室へ走って行くと,看護師に呼び止められました。「モンソンビショップですか」と尋ね,続けてこう言ったのです。「患者さんは亡くなる前にあなたに会いたいとおっしゃっていました。」38その晩,帰宅する道すがら,モンソンビショップは聖霊の促しに従って行動することを二度と怠らないと心に誓いました。その決意は,それ以来教会で行う奉仕の中に繰り返し表れました。

ビショップに召された当時のトム・モンソン

その後,27歳でステーク会長会顧問に,1959年には31歳でカナダの伝道部会長に召されました。トムの指導を受けた宣教師たちは,トムが御霊と波長を合わせていたことをよく覚えています。トムが促しに従って宣教師アパートを訪れると,宣教師が何か間違ったことを行う寸前だった,ということもしばしばありました。39トムはすべての宣教師の名前を覚え,その問題や懸念について話し合い,早期の帰還や宗紀評議会を防ぐためにあらゆる手を尽くすなど,宣教師に心を向けました。このころ,モンソン家族には二人の幼い子供,トーマス・リーとアン・フランシスが加わっていました。3番目の子供,クラーク・スペンサーはカナダで生まれました。家族はこの伝道期間に,以前にも増して多くの時間をともに過ごしました。このときトムの心にはカナダへの忠誠心が育まれました。2010年,教会の大管長としてカナダ・バンクーバー神殿を奉献したときもその気持ちは変わることなく,カナダ国旗の襟章を付け,開会の賛美歌を「カナダ国歌」に変えました。40

ソルトレーク・シティーへ帰ると,トムはデゼレト・プレス社の統括マネージャーになり,フランシスは子育てで忙しい日々を送りながら,ワードの召しを果たし,教会の様々な中央神権委員会で奉仕する夫を支えました。

デゼレトニューズ・プレス社で端物印刷アシスタント・マネージャーを務めるトム・モンソン。(左から右へ)職工長のジョージ・ヴィーネンダール,印刷工のハーマン・デミク,Improvement Era編集長のドイル・L・グリーン,端物印刷マネージャーのルイ・C・ジェイコブセンとともに,Improvement Eraのカラー画像をチェックする。

トムは成人コーリレーション,宣教師管理,系図など広範囲にわたり教会委員会活動に参加してきたので,デビッド・O・マッケイ大管長の執務室へ来るように言われたとき,実のところ,呼ばれた理由は当時の責任に関連したことだと考えていましたが,そうではありませんでした。マッケイ大管長から受けたのは,それまで大管長会顧問を務めてきたN・エルドン・タナー長老に代わり,十二使徒定員会会員として奉仕する召しだったのです。驚愕のあまり,トムは言葉を発することさえできませんでした。しかし,ついにマッケイ大管長にこう約束しました。「わたしが祝福として受けている才能の限りを尽くして主に仕え,必要とあらばわたしの命をもささげます。」41

モンソン大管長はその神聖な召しについて,妻以外には内密にすることに同意しました。そして一睡もできずに,1963年10月4日の総大会を迎えました。大会の会場に着くと,当時責任を受けていた神権ホームティーチング委員会の一員として席に着きました。隣に座っていた友人のヒュー・スミスは,奇妙な偶然についてトムに話しました。最近新たに召された二人の中央幹部は,召されたときにちょうどヒューの隣に座っていた,というのです。42トーマス・モンソンの名前が呼ばれると,「ヒュー・スミスはわたしを見て,『3度目の雷が落ちたよ』とだけ言いました。聴衆席から壇上までは,生涯で最も長い道のりでした。」43

1963年10月4日―36歳で十二使徒定員会に召される発表の直前,総大会で聴衆席に着くトーマス・S・モンソン


十二使徒定員会会員としての奉仕

36歳のときに召されたトーマス・S・モンソンは,1910年にジョセフ・フィールディング・スミスが33歳で十二使徒定員会に召されて以来,最年少の十二使徒ととなりました。十二使徒としての奉仕は1963年に始まり,1985年にエズラ・タフトベンソン大管長のもと大管長会に召されるまでの22年間におよびました。教会のあらゆる主要な委員会の委員長を務めることも少なくありませんでした。44この時期,教会員の構成は,合衆国西部を中心とする同種の会員から,多種多様な世界規模の会員層へと次第に発展していきました。45デビッド・O・マッケイ大管長により使徒に召され,引き続き1970年から1972年までジョセフ・フィールディング・スミス大管長のもと,また1972年から1973年まではハロルド・B・リー大管長のもと奉仕しました。1973年から1985年,スペンサー・W・キンボール大管長の在任中,モンソン大管長は1979年に聖典出版委員会委員長を務め,欽定訳聖書の2,400ページに及ぶ改訂版を制作しました。聖句ガイド,聖書辞典,先駆的な脚注システムが加わることとなります。また,モンソン大管長はキンボール大管長とともに,すべてのふさわしい男性会員が神権を受けるという歴史的に重要な啓示に加わりました。46

ゴードン・B・ヒンクレー長老の隣に座るトーマス・S・モンソン長老,ハワード・W・ハンター長老,リチャード・L・エバンズ長老。総大会で説教壇に立つエズラ・タフト・ベンソン長老。

第二次世界大戦後もずっと鉄のカーテンの向こう側に閉じ込められていた会員たちにとって,モンソン大管長が十二使徒定員会会員として行った最大の功績は,東ヨーロッパの聖徒たちを管理することでした。ドイツ人で初めて大管長会の一員となったディーター・F・ウークトドルフは,このように話しています。「モンソン大管長がこの国とヨーロッパにもたらした祝福はだれもが認めるものであり,その価値が非常に大きく並外れているため,ドイツの歴史を変えるための仲立ちとして主がモンソン大管長を備えてくださったのだと確信しています。」47ドイツ民主共和国の共産主義政府は宗教活動を厳しく抑圧していました。教会員は差別を受けたり,仕事や教育の機会を失ったり,集会中,頻繁に偵察を受けることがあったにもかかわらず,忠実さを保っていました。モンソン大管長は彼らをしばしば訪れました。あるとき,教会手引き全体を研究し,東ドイツへ入った後に,手引き全体をタイプし直そうと思いました。教会関連資料の国内への持ち込みが禁じられていたからです。モンソン大管長は支部の執務室に行ってこの作業を開始し,何ページか終わったところであたりを眺めました。すると,後ろの棚に手引きを見つけました。48モンソン大管長は,少なくとも何人かの末日聖徒が総大会に出席し,国外の神殿に参入することを許可してくれるよう,東ドイツ政府高官に絶え間なく働きかけましたが,東ドイツの聖徒たちは依然として世界中の会員と同じような機会が与えられることを切望していました。

そのような状況にあった中,1978年,キンボール大管長はモンソン管長に次のように約束します。「主が〔東ドイツの〕ふさわしい会員に対して神殿の祝福を拒まれることはないでしょう。」そして笑顔でこうつけ加えました。「その方法はあなたが見つけるのです。」49モンソン大管長と東ドイツの教会指導者,ヘンリー・バークハートは引き続き,1度に6組ずつの夫婦がスイス神殿に参入することを許可してくれるよう政府に請願していました。そんな折,二人は政府指導者から驚くべき提案を受けます。「ここに神殿を建てたらどうですか。」1982年10月,大管長会はドイツ民主共和国のフライベルクに神殿が建設されると発表しました。それは共産国において初めて建設される神殿でした。この発表は,後にモンソン大管長と当時十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン長老と東ドイツの教会指導者が,政府高官および国家評議会議長のエーリッヒ・ホーネッカーと交わした奇跡的な協定とほぼ同様,思いもよらないものでした。その協定によって,ベルリンの壁が崩壊する前に宣教師の出入国が許可されたのです。50モンソン大管長はこう綴っています。「わたしは生ける証人です。かつて共産圏にあった国々の教会員を見守る主の御手が,いかに明瞭に現れたかについて証します。」51

1985年に奉献されたドイツ・フライベルク神殿にて。右から―トーマス・S・モンソン長老と妻のフランシス,ロバート・D・ヘイルズ長老と妻のメアリー,ジョセフ・B・ワースリン長老と妻のエリサ,エミール・フェッツアー。

世界を変えるような出来事の中にあって,教会管理の重責に圧倒されながらも,モンソン大管長の教導と奉仕の業は続きました。最も重視したのは,聖霊の促しに従い,個人に手を差し伸べることでした。退役軍人用の病院に入院する友人に祝福を授けると,モンソン大管長は「教会本部で出席した一週間分の集会よりも大きな善を成した」と感じたものでした。52中央幹部としての務めを果たす中で回り道をして,モンソン大管長が病院の病室や介護施設,独り暮らしの人のベッドの脇を訪れ,彼を待つ病人や孤独な人々を見舞った話は数多くあります。ルイジアナ州シュリーブポートでステークの集会スケジュールが立て込んでいたとき,モンソン大管長には祝福をしてほしいと頼まれていた末期病状の少女を見舞う余裕はありませんでした。それでも,大管長は訪問の準備をしていました。すると土曜日の夜の指導者会の間に,「わたしの霊に告げる声を聞きました」と言うのです。「それは短いものでしたが,何度も聞いたことのある言葉でした。『幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。』(マルコ10:14)」53大管長は翌朝,約130キロ離れたクリスタル・メスビン家を訪問し,御霊に満たされた家族の集まりの中,少女に祝福を授けました。それは彼女が亡くなる4日前のことでした。

モンソン大管長は東ドイツの貧しい会員に会うと,自分のスーツや靴,計算機,さらには印をつけた聖典さえも譲ったものでした。54また第6,第7ワードの親しい会員たちのことを決して忘れず,エド・エリクソンのような高齢で低所得の友人たちを見守っていました。モンソン大管長は彼を家族の集まりに招待し,誕生日を祝いました。2009年に行った説教の中では,彼のことを思い出しながらこう述べています。「周りの人たちを裁いたり,批判したりするのをやめる勇気を持ち,すべての人が受け入れられるようにし,愛され大切にされていることを感じられるようにする勇気を持ってください。」55

モンソン大管長はその正直で友好的な性格により,教会と様々な宗教,市民団体,地域社会の指導者との間の橋渡し役となり,親善を深めました。多様性のある地域で育ったため,異なる宗教を持つ親戚についても身近に感じ,気持ちをこのように打ち明けています。「いたるところに善良な人がいると思います。」56モンソン大管長はすぐに人々と親しくなり,「その多くは必ずしも教会員ではありませんが,地域社会を良くしたいという気概と公共心をもった人々です」と述べています。57カトリックであるSalt Lake Tribune(ソルトレーク・トリビューン)誌のかつての発行者を始め,地域社会の指導者たちは称賛の声を上げました。「トム・モンソンに出会ったことのある人は,みな彼の友達になります。……トム・モンソンが大管長会に昇進したことで,この教会は友情を通し,地域に特別な一致をもたらしてくれました。」58ソルトレーク地域の論者はあるときこのように述べました。「LDS教会がどれほど非営利の世界に携わっているかを,どれだけの人が知っているでしょうか。モンソン大管長は,必要とされていることをよく知っています。」59別の宗教指導者は,モンソン大管長にこのように書き送りました。「あなたは常に,心を開いて救世軍の必要と要請にこたえてくださっています。わたしたちは,あなたと同僚の皆さんの温かく優しい心にとても感動しました。」601993年,ソルトレーク・シティーにて,モンソン大管長はマドレーヌ大聖堂改修後の奉献に伴う活動に出席して話をしました。また,親しい友人のためにカトリックの葬儀で弔辞を述べました。」61

マドレーヌ大聖堂にて,ソルトレーク・シティーのカトリック司教ジョージ・H・ニーデラウアーと会見するモンソン大管長夫妻。

ハトの飼育といった趣味は,重責を担うモンソン大管長の息抜きとなり,ひ孫たちからは「鳥のおじいちゃん」と呼ばれていました。しばらくハトの飼育に熱中した結果,Boy Scouts of America(ボーイスカウトアメリカ連盟)からハトの飼育に対する技能章を授与されました。1969年, Scouts’ National Executive Board (ボーイスカウトアメリカ全国委員会)に就任して以来,長年理事を務め,Silver Beaver Award(シルバー・ビーバー章)およびSilver Buffalo Award(シルバー・バッファロー章),1993年には国際スカウトの最高章である Bronze Wolf(ブロンズ・ウルフ章)を授与されました。しかし,スカウトの元理事長ロイ・ウィリアムズは,ハトの飼育に対する技能章を廃止するというスカウトの決定を聞いて,モンソン大管長は立ち直れなかったと冗談を言っています。62

ハトの飼育といった趣味は,重責を担うモンソン大管長の息抜きとなり,ひ孫たちからは「鳥のおじいちゃん」と呼ばれていた

モンソン大管長の関心事は多岐にわたりました。十二使徒定員会の会員であった期間中に,経営管理学の修士号を取得し,移動の際には軍人墓地を訪れるのを好みました。そこを訪れる度,「戦争という鋭い刃によって夢を破られた人,希望を断ち切られた人,若くして死んでいった人々」に思いをはせずにはいられない,と述べています。63第二次世界大戦についての研究を好み,またやや軽いテーマについては,ペリー・メイスンというテレビ番組の再放送を夜に楽しみました。ただ,途中で寝てしまい,エンディングを見逃すこともよくありました。64モンソン大管長は観劇も好きで,「妻フランシスから『観劇中毒』と呼ばれるほどです」と総大会の聴衆に話したことがあります。65また,元旦のフットボールの試合も楽しみました。「中立の立場で二つのチームを観始めるのですが,数分もたつと,勝って欲しいチームが決まっています。」66飛行機で隣に居合わせた人と,飛行中ずっと鶏について話すこともできますし,1989年にホワイトハウスで開かれたBoy Scouts of America (ボーイスカウトアメリカ連盟)の朝食を兼ねた祈り会では,アメリカ大統領のジョージ・ブッシュとイングリッシュ・スプリンガー・スパニエルがともに好きだという会話を交わしました。67

言うまでもなく,一番の関心は家族でした。孫が8人,ひ孫は4人に増えました。自宅で過ごす時間は限られていましたが,子供たちは父親とゲームや釣り,カモ狩り,庭の草むしり,映画,水泳,そり遊びをしたことを覚えています。68息子のトムの心には,特に二つの思い出が残っています。一つは,幼いころに父親とチェッカーをした思い出,もう一つは軍の初歩訓練期間中に肺炎にかかったため,父親にケンタッキー州のルイビルまで飛行機で来てもらい,祝福を授けてもらったときの思い出です。69娘のアンは,父親が日曜日の晩に教会の割り当てから帰ってくると,家族にその日の出来事について報告してくれたことが楽しかったと言います。クラークは,父親が65キロの道のりを運転して,一緒にユタ州ランドルフの近くにあるタカの巣を見に行った日の思い出を大切にしています。70モンソン大管長は芝刈りをしたり,自宅の地下で家族の卓球トーナメントをしたりして楽しみました。71

トーマス・S・モンソン,妻フランシスとその子供たち,トム,アン,クラーク。


大管長会の一員

トーマス・S・モンソンは22年間,大管長会で奉仕しました。1985年にエズラ・タフト・ベンソン大管長の第二顧問として召され,1994年には続けてハワード・W・ハンター大管長の第二顧問に召されました。1995年から2008年までの13年間は,モンソン大管長を第一顧問に召したゴードン・B・ヒンクレー大管長のそばにいました。72大管長会に在任中,モンソン大管長はこれまでに培ってきた様々な経験を生かして教会管理の職務を果たしましたが,仕事が多く,なかなか執務室を出ることができませんでした。ヒンクレー大管長は教会歴史上,最も頻繁に各地を訪問したので,モンソン大管長はこの特別な管理のために,きわめて多忙な日々を送ることとなりました。小規模神殿を建てる方針により,神殿建設のペースが急激に速められました。巨大で新しい教会のカンファレンスセンターが建設され,何千人もの会員が総大会やそのほかの行事に出席できるようになりました。衛星放送による世界訓練集会も始まりました。ユタ大学のライス・エクルズ・スタジアムで開催された預言者ジョセフ・スミス生誕200年記念祭には,ソルトレーク盆地とワイオミング州から4万2,000人の青少年が参加しました。73

1986年―エズラ・タフト・ベンソン大管長,および顧問のゴードン・B・ヒンクレー管長とトーマス・S・モンソン管長。

しかし,十二使徒定員会のロナルド・A・ラズバンド長老の言葉どおり,モンソン大管長はいつものごとく,「いくら忙しくても,人々のために常に時間を割きました。」742000年の冬,ともに時を過ごしたのは妻でした。妻フランシスが重病で倒れた後,大管長は数週間,妻の病室へ事務書類を持ち込みました。やっと意識を取り戻したフランシスは,開口一番,こう言いました。「四半期の税金の支払い書類を送るのを忘れてたわ。」75大管長からの親切を受けたもう一人の人物は,チャーチニューズ紙の記者ゲリー・アバントです。大管長が各地を訪問した際の記事をしばしば書きましたが,あるときモンソン一家と一緒に観光に出かけないかと誘われました。その理由についてモンソン大管長はこう述べます。「あなたはよく働いてきましたからね。」76


教会の大管長

2008年1月27日,ゴードン・B・ヒンクレー大管長が亡くなりました。大管長会は解散し,当時顧問だったモンソン大管長は十二使徒定員会会長の職へ戻りました。鉄道線路の近くで育ち,幼少期には初等協会でいたずらな悪ふざけをそそのかしていた人物,また大恐慌時代にさえ,わずかな自分の持ち物を進んで人々に分かち合った人物,その人が間もなく,世界中の何百万人もの末日聖徒の指導者になろうとしていました。「自分の人生が先々どうなるか,考えてみたことは一度もありませんでした。」2008年4月の総大会における厳粛な集会の際,教会の大管長として支持される少し前に行われたインタビューでこう語りました。「ヒンクレー大管長がわたしより長生きすることもあり得たでしょう。」さらにこう述べました。「わたしが常に従ってきた人生哲学は『これまでに召されたところやこれから召されるところではなく,今召されているところで奉仕する』ということです。今召されているところで,奉仕するのです。」77

2008年2月3日,トーマス・S・モンソンは教会の第16代大管長に任命,聖任され,ヘンリー・B・アイリング管長を第一顧問に,第二顧問には,ディーター・F・ウークトドルフ管長を選びました。ウークトドルフ管長は数か国語に堪能なドイツ人改宗者で,2004年以来十二使徒定員会会員を務めてきました。新たな大管長会は広がりゆく教会のグローバルな特徴をよく表しています。782008年2月4日の記者会見で,モンソン大管長は記者団にこう述べました。「教会として,わたしたちは会員だけでなく,世界中の善良な人々にも,主イエス・キリストからもたらされる兄弟愛の精神をもって手を差し伸べています。」79

2008年2月4日の記者会見で教会の新たな大管長会が発表された。その構成はトーマス・S・モンソン大管長,第一顧問のヘンリー・B・アイリング管長,第二顧問のディーター・F・ウークトドルフ管長である。

兄弟愛,そして人々へ手を差し伸べるというこの精神が,モンソン大管長の管理運営を特徴づけるものとなりました。教会指導者は,カトリック,福音主義キリスト教徒,そのほかの宗派や地域団体と定期的に連携を取りながら,人道支援活動や道徳的な信条を支持する活動を行いました。また,教会指導者は他の宗教指導者に末日聖徒の大学で講演するよう依頼したり,インターネットを用いて信教の自由を支持する活動を推進したりしました。80さらに,モンソン大管長と十二使徒定員会会員は,他の宗教の人々に働きかけて奉仕や地域育成を行うよう教会員に勧め,世界各地で天災や人災に苦しむ人々の膨大な必要を満たすために,現在,ほかの機関と連携して行っている人道支援活動をさらに推進しました。モンソン大管長在任中の最初の5年間,教会はハイチの地震,日本の津波,タイの洪水に関して,被災地の救援活動に貢献しました。また,発展途上国における予防接種普及の支援,へき地への飲料水の提供,世界各地の食糧難の緩和,米国内の災害支援活動などを行いました。こうした世界規模の支援活動と影響力がSlate.comのウェブサイトで注目を浴び,2009年にモンソン大管長はアメリカ在住の80代で最も影響力のある一人に挙げられ,記事には「神の預言者として数百万人の会員を管理する人物,このリストの中でも異彩を放っている」と書かれました。81

またモンソン大管長の指導の下,教会の広報部は人々が末日聖徒の多様性をより理解できるよう,広範な地域社会へ働きかけ始めました。「わたしはモルモンです」キャンペーンでは,ハーレーダビッドソン社,議会図書館,ロックバンドなど,多様な組織で働く末日聖徒を採り上げました。さらに教会本部は青少年などを対象としたウェブサイトを立ち上げ,教会所有のBYUテレビチャンネルやウェブサイトは,いっそう幅広い視聴者を引き付ける高品質の番組を制作し始めました。教会のウェブサイトでは,高品質のビデオシリーズがオンラインで登場しました。『新約聖書』の舞台を描いたシーンは多くの宗派の人々から高く評価されることでしょう。聖典および教科課程関連のそのほかのオンライン資料は,これまでになかったオンラインによる働きかけに大いに役立ち,世界中の会員は家庭や教会で使うための情報にアクセスすることができるようになりました。

しかし,モンソン大管長の任期中に起きた最も重要な変化は恐らく,管理運営の画期的な進展と言えるでしょう。教会における指導,活動,教授,伝道の方法が大きく変わりました。2009年,教会は福祉の原則に関するDVDと小冊子を配布し,2010年には教会指導者に向けた新しい指導手引きを出すとともに,世界指導者訓練の衛星放送を2回行いました。新しい手引きが強調しているのは,率直に意見を述べ合う評議会の働き,委任によるビショップの責務の軽減,そして最も重要なことは,教会員がイエス・キリストの真の弟子になるのを助けることです。2010年にはまた,十二使徒定員会会員による国際的な訓練として神権指導者会およびエリアレビューが実施されるようになりました。その内容は,人道支援,福祉の必要,伝道活動,神殿活動の現状を全体的に俯瞰することです。

2011年11月1日―ユタ州プロボのブリガム・ヤング大学で講演するトーマス・S・モンソン大管長。写真/ラヴェル・コール

モンソン大管長の指示の下で起きた最も画期的な進展の一つは,2012年10月の総大会で発表されました。モンソン大管長は専任宣教師として伝道に出られる年齢を男性は18歳,女性は19歳に引き下げると宣言したのです。年齢条件を引き下げるというこの前例のない方針変更により,伝道活動への熱意が高まり,結果として専任宣教師の数,特に姉妹宣教師の数がこれまでになく増加しました。2014年末には85,000人に達した宣教師数の増加に伴い,宣教師訓練センターと伝道部が新たに創設されました。会員たちも「御業を速める」ために一体となって働き,家庭ではいっそう息子や娘を伝道に備え,地元の伝道プログラムに参加するようになりました。指導的役割を担う姉妹宣教師,「姉妹トレーニングリーダー」の職が設けられるとともに,テクノロジーとオンラインによる伝道が加わり,伝道に出られる年齢変更の発表がもたらした進展と革新の気運がさらに高まりました。

若い女性が伝道に出られる年齢を引き下げたことは,指導的役割や意思決定,ワードおよびステーク評議会への女性の参加をいっそう推進するという,モンソン大管長任期中の継続的な取組みの一環でもありました。姉妹たちはどの神権時代にも,特に救い主が教え導かれたとき,そして1830年の回復の時期から現在に至るまで,福音の中で重要な役割を果たしてきました。そのような役割を末日聖徒の男女が高く評価する助けとなるよう,教会は『わたしの王国の娘』を出版し,家庭をはじめ,扶助協会や若い女性,定員会で使用するように勧めました。2014年には,従来の中央扶助協会集会および中央若い女性集会に代わり,総大会の中央女性部会が設けられ,1年に2度開かれるこの集会に8歳以上のすべての女性が出席するよう招かれました。

教授法をより双方向型にし,改善していくことも,モンソン大管長の革新的な管理運営における優先事項となりました。とりわけ青少年が福音に十分に携わる助けとなったのです。2013年に青少年の教科課程として『わたしに従ってきなさい』が導入されました。これは「イエス・キリストの福音へ十分に改心するべく努力する青少年を祝福する」ために作られたものですが,82青少年と教師がともに,イエス・キリストがなさったように教えるために活用できる方法を提供しています。オンライン資料,青少年の参加,御霊に導かれた話し合いを通して,信仰と福音の理解を深めることができます。教会において,あらゆる教授の機会を改善するための同様の取り組みは2016年にも行われました。『救い主の方法で教える』という新しいリソースが出版され,各ワードに毎月の教師評議会集会が導入されることとなります。

またモンソン大管長の管理の下,世界各地に新しい神殿が建設されるという発表が相次ぎました。神殿の奉献と再奉献のために,モンソン大管長は世界各地を回りました。フィリピンのセブシティー,ブラジルのクリティバ,ウクライナのキエフ,パナマのパナマシティー,ミズーリ州カンザスシティーなどです。2013年には,会員が先祖を見つける助けとしてオンラインのリソースが導入されました。その結果,会員が神殿儀式のために提出する家族の名前の数が11パーセント増加し,「家族歴史の豊年」と呼ばれました。83

2008年8月24日―アイダホ州ツインフォールズ神殿の定礎式に出席するトーマス・S・モンソン大管長。写真/スコット・G・ウィンタートン,Deseret News

時間的制約が厳しい中にあっても,相変わらずモンソン大管長はトーマス・モンソンのままであり,十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老の言葉を借りると,「恐らく予告なしに,一般職員の葬儀にも駆けつける」ような教会指導者であり続けました。そのようにして個人に心を向けることほど,モンソン大管長の教導と奉仕の業を実証するものは,他には考えられません。」84

2013年5月23日,大管長は愛する妻フランシスの葬儀を管理しました。フランシスは5月17日にソルトレーク病院で亡くなりました。「妻は,結婚した日からずっとわたしを支えてくれました。」「妻は理想の妻であり母親です」とモンソン大管長は葬儀で語っています。85モンソン大管長は残りの大管長在任期間を独り身で全うし,度々娘のアンを伴って特別な行事に出席しました。

在任期間中,モンソン大管長は安息日をさらに遵守するよう強調し,疑いと恐れを抱くときにも,さらに天の御父とイエス・キリストへの信仰を増すことができるようにと教えました。2015年以来,忠実な者に約束された祝福を刈り取るために,主と,主と交わした聖約に焦点を当てることによって「安息日を喜びとする」(イザヤ58:13参照)よう会員に勧める取り組みが,教会のあらゆるレベル,また家庭において組織的かつ継続的に進められました。

またモンソン大管長は教会を離れている人々にも心を向け続け,神の王国にふさわしくない者として扱うことは決してありませんでした。20年間教会から離れていた高齢の男性が,教会へ戻ることについて助言を求めるために,ある中央幹部のもとへやって来ました。そうして教会に戻りたいという願いを持たせてくれた手紙を取り出して読んだのです。「あなたは十分長いこと離れていましたが,もうそろそろ戻る時が来ましたね。トムより。」86モンソン大管長はこう話します。「わたしはだれもが聖らかな特性を持っていると思うので,それを探します。」87

教会の大管長であっても,モンソン大管長は人々との仲間意識を持ち続けました。L・トム・ペリー長老(1922-2015年)はかつてこう述べました。「トムはBYUの試合やジャズ(訳注―ソルトレーク・シティーのプロバスケットボールチーム)について話します。スポーツの大ファンですからね。それから本題に入るのです。」88また,モンソン大管長は常にユーモアを忘れませんでした。2009年に行われたモルモンタバナクル合唱団の団員たちとの会合で,モンソン大管長は大きなオルガンの前に座り,初心者用のピアノ楽譜である“To a Birthday Party” (「誕生日会へ行こう」)を弾いてみせました。892013年,教会は「スカウト100周年」を祝うプログラムを進め,その一環としてモンソン大管長の生涯におよぶスカウト活動への支援に敬意を表しました。スカウト活動はモンソン大管長を仲間と結びつける多くの関心事の一つであり,彼らを慰め,明るくし,宗派に関係なくあらゆるスカウト隊員に参加を呼びかけることを好みました。

2013年10月29日―トーマス・S・モンソン大管長が名誉章を授与されたと発表する ボーイスカウトアメリカ連盟理事長のウェイン・ペリー。写真/スコット・ウィンタートン,Deseret News

1997年に行われたインタビューの中で,モンソン大管長は「主からそっと促されるのを感じることが」何よりの喜びだと述べています。特に,次のような状況で感じた促しです。病院にいる父親を見舞った後のことです。次の集会へ急ごうとしていると,エレベーターの近くで待つべきだと感じました。すると,ある家族から,生死をさまよう母親を祝福してくれるように頼まれたので,同意しました。その日のうちに,次のように知らされました。祝福の後,家族は一人一人母親にキスをし,平安な気持ちでお別れを言って母親を見送ったのです。90

「これまでの人生でそのようなことがよく起きたので,わたしはいつもそうした促しに耳を傾けるように努めています」とモンソン大管長は述べています。この類まれな人物が神と結ばれていると証言できる人の数は数えきれないほどです。中には話題に上った人もいますが,その多くはトーマス・S・モンソンとの出会いについて知られてもいない人々です。「自分が何者であるか,天の御父は御存じだと分かるようになってきます」とモンソン大管長は回想しています。「御父は『行って,わたしの代わりにこれを行いなさい』と言われるのです。わたしはいつも御父に感謝しています。」91

世に向けて述べられた大管長の証は揺るぎないものでした。モンソン大管長は次のように述べています。「わたしは特別な証人として,心を込め,熱い思いを尽くして,神が生きておられることを高らかに証し,宣言します。イエスは神の御子,肉における御父の独り子です。わたしたちの贖い主であり,御父と人との間の仲保者です。わたしたちの罪を贖うために,十字架上で亡くなり,復活の初穂となられました。主が命を捨てられたので,すべての人は再び生きることができます。『主は生けりと知る』という歌詞の何と麗しいことでしょう〔『賛美歌』 75〕。世のすべての人がこのことを知り,その知識に従って生きることができますように。」92

  1. トーマス・S・モンソン「元気を出しなさい」『リアホナ』 2009年5月号,92
  2. グレゴリー・パーキン医師との電子メール通信文,2008年9月2日付
  3. “A Life Guided by Service”,Deseret News,総大会特別付録,2008年4月1日,4で引用。ジェフリー・R・ホランド「トーマス・S・モンソン第二副管長 常に『主の用向を有てる者』となって」『聖徒の道』1986年11月号,1-8
  4. 息子のトム・モンソン,ジョシュア・パーキー宛ての電子メール,Church Magazines,2008年2月19日付
  5. ハイディ・ S・スウィントン, To the Rescue: The Biography of Thomas S. Monson (2010年), 518で引用
  6. ゲリー・アバント,“President’s Heartfelt Efforts Universal”,Deseret News,2008年2月7日付,M6
  7. “A Life Guided by Service”,4で引用
  8. “Speaking from Experience”,Deseret News,2008年2月7日付,M4で引用
  9. キャリー・A・ムーア,“LDS Leader Has Fond Memories of Growing Up in the S.L. Area”,Deseret News,2008年2月5日付, M3で引用
  10. ゲリー・アバント,“On Lord’s Errand since His Boyhood”,Church News, 2008年2月9日付,5で引用
  11. この記事における伝記情報の多くはスウィントン,To the Rescueから引用されている。
  12. スウィントン,To the Rescue,50-51,“Speaking from Experience”,M4参照
  13. See Heidi S. Swinton, “Baseballs and Service,”Friend,Sept. 2012, 2.
  14. スウィントン,To the Rescue,35参照
  15. ジェフリー・R・ホランド「トーマス・S・モンソン大管長 主の足跡をたどって」『リアホナ』2008年6月号付録,5で引用
  16. “In His Own Words”,Deseret News,総大会付録,2008年4月1日付,7で引用
  17. スウィントン,To the Rescue,58参照
  18. トーマス・S・モンソン「従順は祝福をもたらす」『リアホナ』2013年5月号,89-90参照
  19. ムーア,“LDS Leader Has Fond Memories”,M3。“A Life Guided by Service”,5参照
  20. スウィントン,To the Rescue,74-75参照
  21. スウィントン,To the Rescue,63-65参照
  22. スウィントン,To the Rescue,78参照
  23. ムーア,“LDS Leader Has Fond Memories”,M3で引用
  24. スウィントン,To the Rescue,79,87参照
  25. スウィントン,To the Rescue,89,288参照
  26. ムーア,“LDS Leader Has Fond Memories”,M3で引用
  27. スウィントン,To the Rescue,90参照
  28. スウィントン,To the Rescue,92参照
  29. トーマス・S・モンソン「一人でも気高く立ち」 『リアホナ』2011年11月号,61
  30. “Speaking from Experience”,M5で引用
  31. スウィントン,To the Rescue,99で引用
  32. ムーア,“LDS Leader Has Fond Memories”,M3で引用
  33. “A Life Guided by Service”,5で引用
  34. スウィントン,To the Rescue,144参照
  35. スウィントン,To the Rescue,142参照
  36. スウィントン,To the Rescue,132で引用
  37. スウィントン,To the Rescue,158-159参照
  38. スウィントン,To the Rescue,135-136参照
  39. ゲーリー・ベル,“Recollecting”,Deseret News,2008年2月5日付,M3参照
  40. スウィントン,To the Rescue,175-176参照
  41. スウィントン,To the Rescue,216で引用
  42. スウィントン,To the Rescue,217-218参照
  43. “In His Own Words”,17で引用
  44. スウィントン,To the Rescue,252参照
  45. スウィントン,To the Rescue,224参照
  46. スウィントン,To the Rescue,530-532参照
  47. スウィントン,To the Rescue,279で引用
  48. スウィントン,To the Rescue,293-294参照
  49. スウィントン,To the Rescue,309で引用
  50. スウィントン,To the Rescue,309,313,333-334参照
  51. スウィントン,To the Rescue,340で引用
  52. スウィントン,To the Rescue,405で引用
  53. ジェフリー・R・ホランド「トーマス・S・モンソン大管長 主の足跡をたどって」11で引用
  54. スウィントン,To the Rescue,316参照
  55. スウィントン,To the Rescue,248で引用
  56. スウィントン,To the Rescue,464で引用
  57. スウィントン,To the Rescue,401で引用
  58. ジョン・W・ガリバン,ジェフリー・R・ホランド「トーマス・S・モンソン第二副管長 常に『主の用向を有てる者』となって」5で引用
  59. パメラ・アトキンソン,“Recollecting”,M3で引用
  60. スウィントン,To the Rescue,440で引用
  61. スウィントン,To the Rescue,402-403,453参照
  62. ジョセフ・F・ドアティー,“LDS Leader Also Lifelong Scouter”,Deseret News,2008年2月7日付,M6参照
  63. “His Own Words”,20で引用
  64. アン・ディブ,ジョシュア・パーキー宛ての電子メール,Church Magazines,2008年2月13日付
  65. トーマス・S・モンソン「人生の旅路に喜びを見いだす」『リアホナ』2008年11月号,85
  66. スウィントン,To the Rescue,452で引用
  67. スウィントン,To the Rescue,463-464,453参照
  68. スウィントン,To the Rescue,200参照
  69. ジェフリー・R・ホランド「トーマス・S・モンソン第二副管長 常に『主の用向を有てる者』となって」7参照
  70. ジェフリー・R・ホランド「トーマス・S・モンソン第二副管長 常に『主の用向を有てる者』となって」7-8参照
  71. スウィントン,To the Rescue,265参照
  72. スウィントン,To the Rescue,532-533参照
  73. スウィントン,To the Rescue,471,472,478,484-485で引用
  74. スウィントン,To the Rescue,485で引用
  75. スウィントン,To the Rescue,492で引用
  76. スウィントン,To the Rescue,487で引用
  77. ゲリー・アバント,“Church President to Be Sustained in Solemn Assembly”,Church News,2008年4月5日付,3-4。ChurchofJesusChrist.org/church/news/oct-4-is-president-monsons-50-year-anniversary-as-apostleも参照
  78. スウィントン,To the Rescue,496参照
  79. トーマス・S・モンソン,“The Lord’s Work”,Church News,2008年2月9日付,3
  80. “Church Launches New Resources on Freedom of Religion”, mormonnewsroom.org/article/religious-freedom-resources 参照
  81. スウィントン,To the Rescue,515で引用
  82. 大管長会からの手紙,2012年9月12日付
  83. ポール・G・ノータ,“2013 Was a Banner Year for Family History”, ChurchofJesusChrist.org/church/news/2013-was-a-banner-year-for-family-history
  84. スウィントン,To the Rescue,502で引用
  85. ゲリー・アバント,“Sister Frances J. Monson Was ‘the Ideal Wife and Mother’”, ChurchofJesusChrist.org/church/news/sister-frances-j-monson-was-the-ideal-wife-and-mother
  86. スウィントン,To the Rescue,504で引用
  87. スウィントン,To the Rescue,504で引用
  88. スウィントン,To the Rescue,512で引用
  89. スウィントン,To the Rescue,515参照
  90. ゲリー・アバント“Oct. 4 Is President Monson’s 50-Year Anniversary as Apostle”,ChurchofJesusChrist.org/church/news/oct-4-is-president-monsons-50-year-anniversary-as-apostle
  91. ゲリー・アバント“Oct. 4 Is President Monson’s 50-Year Anniversary as Apostle”,ChurchofJesusChrist.org/church/news/oct-4-is-president-monsons-50-year-anniversary-as-apostle
  92. トーマス・S・モンソン,「主は生けりと知る」『リアホナ』2007年5月号,25