歴代大管長の教え
経歴のまとめ


経歴のまとめ

以下の年表は,本書で紹介されているロレンゾ・スノー大管長の教えの歴史的な背景を簡単に紹介するものである。

1814年4月3日

オハイオ州マンチュアで,ロゼッタ・レオノラ・ペティボーン・スノーとオリバー・スノーのもとに誕生する。

1832年

オハイオ州ハイラムで,預言者ジョセフ・スミスの説教を聞く。

1835年

オハイオ州オバーリンのオバーリン大学で学ぶために家を離れる。途中で十二使徒定員会のデビッド・W・パッテン長老に出会う。

1836年

ヘブライ語を学ぶためにオバーリン大学を去り,オハイオ州カートランドへ移る。回復された福音を受け入れ,6月にバプテスマと確認を受ける。後に長老に聖任される。12月にジョセフ・スミス・シニアより祝福師の祝福を受ける。

1837年

オハイオ州で福音をべ伝える。

1838年10月-1840年5月

再び伝道に出る。オハイオ州,ミズーリ州,ケンタッキー州,イリノイ州で福音を宣べ伝え,1839年から1840年にかけての冬は学校の教師として働く。

1840年5月

イリノイ州ノーブーを去り,イングランドで伝道する。十二使徒定員会の指示の下,イングランドのロンドンとその周辺において教会を管理する。『救いを得るただ一つの道』(The Only Way to Be Saved)という題のパンフレットを発行する。

1843年4月12日

イングランドで改宗した250人の末日聖徒とともにイリノイ州ノーブーに到着する。

1843年後半から1844年前半

イリノイ州リマの学校で教える。

1844年

オハイオ州で,ジョセフ・スミスを合衆国大統領として選出するキャンペーンの統括者となる。6月27日にジョセフ・スミスとハイラム・スミスが殉教したことを知り,ノーブーに戻る。

1845年1月

オハイオ州を巡ってノーブー神殿建築のための寄付金を集めるよう,ブリガム・ヤング大管長より任命される。

1845年

シャーロット・スクワイヤーズおよびメアリー・アダリン・ゴッダードと当時教会で実施されていた多妻結婚をする。

1846年2月

ノーブー神殿でエンダウメントと結び固めを受けた後,家族とほかの末日聖徒とともにノーブーを去る。

1846-1848年

家族とともにマウントピスガと呼ばれるアイオワ州の入植地に住む。一時期,入植地を管理する。1848年の春に,ソルトレーク・シティーに向かう聖徒の一団を率いる。

1849年2月12日

ソルトレーク・シティーにおいて使徒に聖任される。

1849年

永代移住基金のために寄付金を集める。

1849-1852年

イタリアで伝道する。さらにモルモン書のイタリア語版が出版されるのを監督したイングランドや,スイス,マルタでも奉仕する。『ジョセフの声』(The Voice of Joseph)という題のパンフレットを出版する。

1852年

ユタ州議会に選出される。

1853年

ユタ北部に位置するボックスエルダー郡の末日聖徒入植地を管理するよう,ブリガム・ヤング大管長に任命される。その地の中心都市をブリガム・シティーと名付ける。そこで教会と地域社会の指導者として長年にわたって奉仕する。

1864年3月-1864年5月

十二使徒定員会のエズラ・T・ベンソン長老が率いる一団とともに,ハワイ諸島で短期間の伝道を行う。

1872年10月-1873年7月

大管長会第一顧問のジョージ・A・スミス管長が率いる一団とともに,ヨーロッパの一部と聖地を含む中東を旅する。この旅行はブリガム・ヤング大管長の要請によって行われた。

1882年

アメリカ合衆国議会がエドマンズ法案を通過させ,多妻結婚を重罪とし,一夫多妻者が投票したり,公職に就いたり,陪審員を果たすことを禁じる。

1885年8-10月

合衆国北西部とワイオミング州でアメリカインディアンへの伝道を行う。

1886年3月12日-1887年

多妻結婚実施のために投獄される。

1887年

アメリカ合衆国議会が多妻結婚を禁ずるもう一つの法であるエドマンズ・タッカー法案を通過させる。これは,連邦政府が教会の不動産の多くを没収することを認めるものである。この法案は1887年3月3日に法律となる。

1888年5月21日-23日

ユタ州マンタイ神殿の奉献式で奉献の祈りを読む。これに先立ち,ウィルフォード・ウッドラフ大管長が5月17日にマンタイ神殿を奉献。

1889年4月7日

十二使徒定員会会長に任命される。

1893年5月19日-1898年9月

ソルトレーク神殿の最初の神殿会長として奉仕する。

1898年9月2日

ウィルフォード・ウッドラフ大管長の死去に伴い,先任使徒となり,教会を管理する指導者となる。ソルトレーク神殿の中で神の示しを受け,大管長会の再組織を進めるようにと主から指示を受ける。

1898年9月13日

十二使徒定員会から教会の大管長として支持を受ける。大管長としての奉仕を開始する。

1898年10月9日

総大会において教会の大管長として支持される。

1898年10月10日

末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長に任命される。

1899年5月

ユタ州セントジョージを訪問する。そこで,聖徒にじゅうぶんの一の律法について説教するようにとの啓示を受ける。まずセントジョージでそのメッセージを伝え始め,そのメッセージが教会全体に伝わるように指導する。

1901年1月1日

20世紀を迎えるに当たり,『世界へのあいさつ』(“Greeting to the World”)という題の宣言を出版する。

1901年10月10日

ユタ州ソルトレーク・シティーにおいて87歳で死去。