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4月 2003 | 「生ける水」による祝福

「生ける水」による祝福

4月 2003 総大会

生ける水は心をし,養い,支えてくれます。そして,平安と喜びをもたらします。

地上での務めをお始めになったころ,キリストはエルサレムから,少年時代を過ごしたガリラヤのナザレへ向かわれました。旅の途中,サマリヤを通り,疲れをいやすためにヤコブの井戸でお休みになりました。近くの町へ食物を買いに行った弟子たちの帰りを待っておられると;サマリヤの女が井戸へやって来ました。この話は皆さん御存じでしょう。イエスが水を飲ませてほしいとおっしゃると,女はユダヤ人からそのように求められたことに驚きました。何世紀もの間,ユダヤ人とサマリヤ人は互いに敵対していたからです。しかし,イエスは女に言われました。自分に話しかけているのがだれだか分かったら,自分の方から生ける水,すなわち永遠に渇きをいやす水を求めるだろうと。もちろん,女はその意味が分かりませんでした。そこでイエスはこう説明されました。

「この水を飲む者はだれでも,またかわくであろう。しかし,わたしが与える水を飲む者は,いつまでも,かわくことがないばかりか,わたしが与える水は,その人のうちで泉となり,永遠の命に至る水が,わきあがるであろう。」(ヨハネ4:13-14)

サマリヤの女は,二度と水を飲まなくてもいいという話が気に入砥ました。毎日,井戸から家まで重い水瓶みずがめを運ぶという骨の折れる務めから解放されるのは,願ってもないことでしょう。しかし,キリストが,御自分はメシヤであると証あかしされると,女はその言葉が真実であるという確認を御霊みたまから受けました。そして女は,イエスがさらに偉大な真理について語っておられるのだと理解し始めたのです。女は井戸を後にし,イエスの話を聞きに来る人を急いで探しに行きました。ただ,少なくともその時点では,心の中に生ける水の泉を持つという意味をサマリヤの女が十分に理解していたか,あるいはわたしたちが理解しているかどうかは疑問です。

生ける水は心を癒し,養い,支えてくれます。そして,平安と喜びをもたらします。

わたしの知っているある女性は,自分と家族を傷つけた人に対する怒りに苦しんでいました。子供たちには,恨んだり腹を立てたりしてはいけないと言っていましたが,自分の心の中ではそのような思いと闘っていました。何週間も天の御父に嘆願した後,ついに心の変化を感じました。彼女はこのように語りました。「わたしはほとんど絶えず祈っていましたが,そのようなある日,癒されたという感覚が体中に広がるのを感じました。そして,安心し,平安に満たされました。何が起ころうと,自分と家族は大丈夫だと感じました。怒りが去り,復讐ふくしゅうしたいという気持ちもなくなりました。」

生ける水はイエス・キリストの福音です。福音を理解するのを助けてくださるのは聖霊です。友人は何が正しいかを知っていました。家族に正しいことを語りましたが,生ける水を飲み,聖霊を感じるほど十分謙遜けんそんになったときに初めて,癒されるようになったのです。

昨年,わたしは多くの女性に,またその神権指導者に会い,キリストの癒しの力についての話をたくさん聞きました。この世の生活には多くの悩みがあり,苦痛の原因がたくさんあります。息子や娘を危険な所へ送り,戦いの中にある子供たちの無事を日々祈っている人々がいます。子供たちが誘惑に直面しているのを知って,恐れおののいている親もいます。化学療法の恐ろしい副作用に苦しんでいる親しい友達もいます。配偶者に去られ,独りで子供を養育している親もいます。わたし自身も絶望感と戦ったことがあります。しかし,わたしたちは決して独りで戦うのではないということを,自分自身の経験や,会った人々から学びました。わたしたちは決して見捨てられてはいません。心の中には善と力と自信がわき出る泉があり,信頼して耳を傾けるなら,勇気づけられ,癒されるのです。生きる力だけでなく,人生を愛する力がわいてきます。笑いと喜びが生まれ,信仰をもって前進することができます。

また,生ける水はわたしたちを養ってくれます。主が約束されたように,キリストは重荷を負うすべての人を訪れ,休ませてくださることを証します(マタイ11:28参照)。疲れたとき,わたしたちを支えてくださいます。命の泉からは水がわき出ていて,わたしたちが飲もうとするなら,絶えず新たな活力を得させてくれます。高慢になると生ける泉は力を失います。御霊のささやきに耳を傾けない場合も同じです。しかし,生ける水をたっぷり飲む人は,自分が癒されるだけではなく,ほかの人にとっての泉になることができるのです。一つの霊が別の霊を養い育てるようなことです。

昨年,わたしたち家族の愛する友人が亡くなりました。ルシルは89歳で,20年以上も前に夫を亡くしていました。金持ちでも有名でもなく,彼女の死を知る人はそれほど多くいませんでした。でも,彼女の家族と隣人と,ワードの会員たちは知っていました。ルシルの愛を感じていた人は皆,大きな喪失感を覚えました。夫を亡くしてからルシルは,愛する孫の死や老齢による身体の衰えなど,いろいろな苦難に耐えてきました。それでもルシルは,周囲の人すべてを励ますために,いつも心を配り,手作りの料理やキルトや編み物をプレゼントし,ユーモアや善意を振りまいていました。また,神殿で働くことが好きでした。1981年のある春の日,ルシルは日記にこう書いています。今朝3時半に,神殿へ向かって歩いていると,そよ風に旗がひらめいているのが見えた。美しい空を見ながら,わたしは何て幸せなのだろうと思った。まだ眠っていて,美しい日の目覚めを見ることができない人が気の毒だと思った。」

わたしたちのほとんどは,朝3時半に世界が「目覚める」とは思ってもみないでしょうし,その時間はベッドの中にいることこそまさしく幸せであり,ルシルに気の毒だと思われてもいっこうに差し支えないことでしょう。しかし,ルシルは何とすばらしい心を持っているのでしょう。まさに,心の中から善意があふれていると言えるでしょう。このような清い心を,彼女は15歳のときに持っていたのでしょうか。25歳,それとも55歳で持てたのでしょうか。わたしには分かりません。たいていの場合,恐らく一生涯,聖霊に耳を傾け続けなければ,神の御声みこえを十分よく理解できるようにはなれないのではないでしょうか。生ける水に十分頼り,一日中,特に朝3時半から始まる一日中ずっと,その水を味わうようにはなれないのではないでしょうか。しかし,生ける水は,自己憐憫れんびんに屈していたかもしれないルシルの長い年月を支えてくれたのです。生ける水のおかげで,彼女の人生は,彼女の心は,周りのすべての人を養ったのです。

生ける水は,心の中の泉が涸かれそうになったときでさえ,平安と喜びをもたらします。最近わたしは,情緒的な病に苦しむ息子を突然亡くした姉妹の話を聞きました。その家族は絶望の淵ふちに沈み,この姉妹は幸福が訪れることはもう二度とないと思いました。しかし,一人の若い姉妹から祝福を受けました。以前ローレルで教えた少女が今では扶助協会の一員となり,彼女の訪問教師になっていたのです。この若い姉妹は言いました。「姉妹はわたしの助けになってくれました。今度はわたしが助けになる番です。一緒に乗り越えていきましょう。」この姉妹は再び平安を,喜びさえも感じるようになりました。

わたしたちの霊を十分清めるには,一生涯,あるいはそれ以上かかるかもしれません。しかし,生ける水はすべての人に,若人にも与えられているのです。教会の若い女性が,子供のときから霊的な訓練を受けた後,扶助協会に移行してすぐに,より経験を積んだ姉妹たちに力を添えるのを目にするときに,わたしは感動します。また,若い姉妹たちが年上の姉妹から,いかに多くのことを学べるかに気づく様子を見て,とてもうれしく感じま渉。平安は主から与えられますが,わたしたちは互いに苦労と幸福を分かち合うときに,主の平安を感じられるように助け合うことができます。

キリストの約束は簡潔で崇高です。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは,世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな,またおじけるな。」(ヨハネ14:27)兄弟姉妹の皆さん,わたしたちの周りには困難や問題があふれています。経済は低迷しています。家族は苦しんでいます。ヒンクレー大管長が言ったように,わたしたちは「危険な時代」に生きています(「わたしたちが生きている時代」『リアホナ』2002年1月号,83)。しかし,生ける水はそれでも平安と喜びを与えてくれます。義にかなった生活を送り,できる限りのことを行うなら,わたしたちは自信という賜物たまものを受けることができます。主はこう言われています。「安らかにしていて,わたしが神であることを知りなさい。」(教義と聖約101:16)混迷の最中さなかにあってしばし立ち止まり,ちょうど初期の聖徒たちがしたように,「すべてはよし」と告げる御霊の声に耳を傾けなくてはなりません(「恐れず来たれ,聖徒」『賛美歌』17番)。心配の種はありますが,平安を得るさらに大きな理由があるのです。

サマリヤの女はキリストの御顔みかおを見詰め,その御声に耳を傾け,たいていの人がその教えを拒んでも,イエスがキリストであられると認めました。わたしたちもキリストを知っています。あるいは知ることができるのです。ただ,主の癒しの力,主の養いの力,主の平安と喜びがわたしたちの中で「泉となり,永遠の命に至る水が,わきあがる」ようにすればよいのです。そうすることができますように,イエス・キリストの御名みなによりお祈りいたします。アーメン。