2000–2009
子供および弟子として
2003年4月


子供および弟子として

主は,真の弟子に信頼を置かれます。そして,備えのできた人々を,備えられた僕のもとに送られます。

バプテスマの聖約の下にあるわたしたちは,福音を人々に伝えるという約束を一様に交わしています。1時折,拒まれたり,相手の気分を害したりするのではないかという恐れが;克服し難い障害のように思えるときがあります。しかし,そのような障害を容易に取りのけている会員もいるのです。わたしは旅先で,そうした会員をつぶさに観察してきました。幾つかの例をご紹介しましょう。

土曜日は,世界中で市場がにぎわう日です。ガーナやエクアドル,フィリピン諸島の田舎では,大勢の人が農作物や手工芸品を荷車に積んで町へ売りに出かけます。通りで出会う人たちと語り,客を待つ間は,近くの人と話をして時を過ごします。話の大半は,生活の労苦やどのように貧困から抜け出せるかといった話題で,時には危険についても話します。

通りや市場に集まる人の中にも末日聖徒がいます。末日聖徒が出会う人たちと交わす会話の多くは,どこででも耳にするような一般的なものです。「どこからいらっしゃいましたか。」「お連れの方は息子さんですか。」「お子さんは何人ですか。」しかし,末日聖徒にはある違いがあります。その言葉や表情に,何か際立つものがあるのです。末日聖徒は,質問の答えや相手本を心にかけ、注意深く耳を傾けるのです。

会話がしばらく続くと、話題は双方にとって非常に大切な事柄へと移っていきます。幸福や悲しみをもたらすものについて,自分が信じていることを話すのです。そして現世と来世とに抱く希望へと話は発展します。末日聖徒は,その希望が確かなものであることを穏やかに語ります。そして常にではありませんが,時折このように尋ねられるのです。「どうしてそんなに穏やかでいられるのですか。」「あなたの言う確信はどのようにして得られましたか。」

そこで聖徒は静かに答えます。それは,天の御父と御子イエス・キリストが,少年ジョセフ・スミスに御姿を現されたことかもしれません。または,モルモン書に記されている,復活された救い主の愛に満ちた業,すなわち,わたしたちと同じように主に信仰と愛を示した,ごく普通の人々に対する主の業についてかもしれません。

市場や通りで霊的な事柄について話し合う,そのような会話を聞けば,皆さんはこう尋ねることでしょう。「どうすればそんなふうにできるのだろう。自分が抱いているこの気持ちをまだ味わったことのない人々に,より効果的に信仰を伝えるにはどうしたらよいだろう。」これは会員一人一人に向けられた質問です。また,会員の中で伝道活動を導くよう任された,監督と支部長のだれもが抱く疑問なのです。そしてその答えは,これから訪れようとしている刈り入れの核心となるものです。

わたしは,救い主とその教会についてすばらしい証をする人々に,注意深く,祈りの気持ちで注目してきました。実に忠実な人々です。その模範は霊を鼓舞してくれます。ある謙虚な男性が,小さな支部の支部長に召されました。しかし会員はほとんどいなかったため,どのように支部を運営していけばよいか分かりませんでした。そこで,祈るために森に入り,どっすべきか神に尋ねたのです。答えを受け,この支部長は会員とともに,友人を教会に招待し始めました。1年のうちに,何百人という人々がバプテスマの水に入り,主の教会にあって聖徒たちと同じ国籍の者となったのです。

知人の中にほぼ毎週仕事で出張をする男性がいます。この男性が出張中に会った人を,今日も世界のどこかで宣教師が教えています。別の男性は,宣教師から福音を学びたいと願う人に会えるまで,どれほど多くの人に話しかける必要があってもくじけません。断られた回数はなく、生活が変わった人々の幸福だけを心に留めているからです。

こうした人々の行動に単一のいパターンはありません。共通のい手法もありません。だれかに手渡そうと常にモルモン書を持ち歩いている人もいれば、宣教師に紹介できる人を見つける日の目標を設定している人もいます。人生で最も大切なことについて人々に考えさせるために質問を幾つも用意している人もいます。それぞれが,何をすべきか分かるように祈っています。そして一人一人が,自分自身と出会う人々に適した,別々の答えを受けているようです。

しかし,似て炉る点もあります。共通の方法で,自分が何者であるかを理解しているのです。この知識によって,霊感で促されたことを実行できるのです。促されたことを行うには,少なくとも二つの点でこの人々のようになる必要があります。第1に、このような人は自分が愛にあふれた天の御父の子供であり,愛されていると感じています。そのため,祈りを通して容易にそして頻繁に,御父に心を向けられるのです。

第2に、復活されたイエス・キリストの弟子であることを喜んでいます。贖いが現実のものであり,すべての人に必要であることを知っているのです。.また,権能を持つ者からバプテスマを施され,聖霊を受けたことにより清められたと感じています。平安を味わい,モーサヤの息子たちのようになっているのです。「モーサヤの息子たちは,救いがすべての造られたものに告げ知らされることを願った。彼らは,だれであろうと人が滅びるのに耐えられなかったからである。まことに,無窮の苦痛を受ける人がいると考えただけで,彼らは震えおののいた。」2

回復された福音を、しばしば容易に語る人々は、福音が持つ意味を重んじて今す。その偉大な祝福についてよく思い巡らしています。授かった祝福をいつも心に覚えているからこそ、人にも祝福を受けてほしいと熱心に願うのです。救い主の愛を感じたことがあります。彼らにとって福音は日常に密着したものであり、現実のものなのです。

「愛には恐れがない。元王よ愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い,かつ恐れる者には,愛が全うされていないからである。わたしたちが愛し合うのは,神がまずわたしたちを愛して下さったからである。」3

真の弟子としてそのような愛を感じていても,時折,不安になることがあります。使徒ヨハネはそれをはっきりと理解していました。愛が全うされるとき,恐れは消え去るのです。わたしたちは完全な愛という賜物を求めて祈ることができます。わたしたちや出会う人々を救い主が愛しておられ,その愛を感じられるという確信をもって祈ることができるのです。救い主は,わたしたち自身や出会うすべての人を愛しておられます。主はすべての罪の代価を支払われるほど,人々を愛されました。それを信じるのは大切なことです。しかし,それにも増して重要なことは,御子の犠牲をひとときも忘れないよう心を改めることなのです。救い主の愛を感じられるよう祈りなさいという戒めは,約束でもあります。次の言葉に耳を傾けてください。

「したがって,わたしの愛する同胞よ,もしあなたがたに慈愛がなければ,あなたがたは何の価値もない。慈愛はいつまでも絶えることがないからである。したがって,最も大いなるものである慈愛を固く守りなさい。すべてのものは必ず絶えてしまうからである。

しかし,この慈愛はキリストの純粋な愛であって,とこしえに続く。そして,終わりの日にこの慈愛を持っていると認められる人は,幸いである。

したがって,わたしの愛する同胞よ,あなたがたは,御父が御子イエス・キリストに真に従う者すべてに授けられたこの愛で満たされるように,また神の子となれるように,熱意を込めて御父に祈りなさい。また,御子が御自身を現されるときに,わたしたちはありのままの御姿の御子にまみえるので,御子に似た者となれるように,またわたしたちがこの希望を持てるように,さらにわたしたちが清められて清い御子と同じようになれるよう,熱意を込めて御父に祈りなさい。」4

主は,真の弟子に信頼を置かれます。そして,備えのできた人々を,備えられた僕に送られます。だれかに会ったとき、この出会いは偶然ではないとかんじた経験が皆さんにもあることでしょう。わたしにもあります。

友人の一人は,福音を受け入れる備えのできた人に会えるよう毎日祈っています。そしていつもモルモン書を持ち歩いているのです。最近のことですが,ある短い旅行に出る前の晩,その友人はモルモン書の代わりに「パス・アロング・カード」を持って行くことにしました。しかし翌朝,「モルモン書を持って行きなさい」という霊的な導きを受けたのです。そこでかばんに1冊入れておきました。飛行機に乗ると,顔見知りの女性が隣に座りました。友人は,「この人だろうか」と思い巡らしました。そして帰りの飛行機でもその女性と一緒になり,「どうやって福音の話を持ち出したらよいだろうか」と考えました。

ところがその女性の方から話しかけてきたのです。「あなたは教会に什分の一を納めているそうですね。」友人はそのとおりだと答えました。彼女は,自分の集っている教会に什分の一を納める必要があったが,そうしなかったと言いました。そして,こう尋ねてきたのです。「ところで,モルモン書はどういう本ですか。」友人はそれが聖典で,イエス・キリストについてのもう一つの証であり,預言者ジョセフ・スミスが翻訳したことを説明しました。この女性は興味を持ったようでした。そこで友人はかばんに手を伸ばすと,こう言いました。「わたしは,この本を持って来るよう導きを受けました。たぶんあなたに渡すためだったのでしょう。」

女性はモルモン書を読み始め,別れ際にこう言いました。「二人でこのことについてもっと話す必要がありそうですね。」友人は知る由もなかったのですが,この女性は教会を探していたのです。もちろん神は御存じでした。彼女がこの友人を注意深く見ていて,教会のどんなところが彼をあれほど幸福にしているのだろうかと不思議に思っていたことを,神は御存じだったのです。神は,彼女がモルモン書について尋ね,宣教師から喜んで福音を学ぶことも御存じでした。この女性には備えができていました。友人もそうです。皆さんもわたしも備えられるのです。

皆さんのふさわしさと望みは輝きとなって面影に表れます。主の教会とその業に奮い立ち,それが表情を輝かせるのです。こうして,四六時中,あらゆる状況で主の弟子となるのです。これを最後に一度だけだれかに福音を伝えようと勇気を振り絞る必要はなくなります。大半の人が回復された福音に興味を示さないという事実も,言動にほとんど影響を及ぼさなくなります。自分の信条を話すことが,生活の一部となるのです。

わたしの父もそのような人でしだ。父は科学者で,世界各地で聴衆を前に講義をしました。かつて,父が大きな科学の学会で行った講演の記録を読んだことがあります。その中で父は,自分の科学理論を話すに当たって,創造と創造主について触れたのです。聴衆の中には,自分の信仰について話した学者などほとんどいませんでした。わたしは驚きと称賛の気持ちを込めて父に言いました。「お父さん,学会で証をしたんだね。」父は驚いた表情でわたしを見ると,こう言いました。「ほんとうかい?」

父は,自分が勇敢であるとさえ感じていませんでした。ただ,真実だと知っていることについて率直に話しただけなのです。父の証を拒んだ人たちにも,父が巧みに仕組んで証をしたわけではなく,信条の一端が口をついて出ただけなのだということが分かりました。父はどこにいても同じように振る舞いました。

それは雄々しく効果的に福音を伝えているすべての人の特質です。愛にみちた、生ける天の御父のこ供として自分をとらえ,イエス・キリストの弟子であるこ理解しています。祈るために特別な努力は要しません。自然にそうしているのです。また,救い主を覚えるのに特別な努力は要らないのです。主からの愛,そして主への愛が,常にともにあります。彼らはこのような人々であり,自分自身や周りの人をこのようにとらえているのです。

大きな変化を求められているように思うかもしれません。しかし,そのような変化が訪れると確信することができます。会員一人一人のそのような変化は,全世界の教会で起こりつつあります。今は,創世の時代から預言者によって予見された偉大な時代なのです。回復された福音はすべての国に行き渡るでしょう。救い主は預言者ジョセフ・スミスに次のように語られました。

「わたしは,永遠の福音を携えて天のただ中を飛ぶ天使を遣わした。この天使はすでにある人々に現れて,それを人間にゆだねた。また,彼は地上に住む多くの者に現れるであろう。そして,この福音はあらゆる国民,部族,国語の民,民族に宣べ伝えられるであろう。」5

どのような試練に直面しようとも,神はその試練に上限を設けてくださり,御自身の約束を果たされます。人々ではなく神御自身が,その目的を成就させるために国々や出来事を最終的に管理しておられるのです。すべての国民,そして国々の中に,自分は神の子供であるという絶対的な確信をもって奉仕する改宗者,復活されたキリストの清い弟子となる人々が現れることでしょう。

数年前,目本の宣教師訓練センターで宣教師に話をしました。そのときわたしは,日本に大いなる日が訪れることを約束しました。回復された福音の証を,出会う人々に熱心に語って聞かせる会員が著しく増えると語ったのです。そのときは,日本で教会に対する称賛が高まることで、福音を伝える勇気が得られるようになるだろうとおもいました。今,その偉大な奇跡,大きな変化が,会員の周りにではなく,会員の心の中に起きることを確信しています。

日本をはじめ世界中の会員は,大きな心の変化を経験することで,人々に愛を示し,耳を傾け,語り,証をするようになるでしょう。支部長と監督は,模範によって会員を導くでしょう。魂の刈り入れは大いなるものとなり,それは主の御手によって守られるでしょう。6

皆さんがこの奇跡の一立となるこの御父を身近に感じるまで,あるいはイエス・キリストの蹟いを通じて清められたと確信できるまで,待っていてはいけません。生活を改善できると感じている人々に出会う機会求めてください。そのようなを助けるために、何をする必要があるか祈ってくだい。皆さんの祈りはこたえられます。主が備えられた人々に会うことでしょう。これまでにないことを感じたり,話したりするでしょう。やがて,自分が天の御父に近づいていると感じ,救い主が忠実な証人たちに約束された清めと赦しを感じるのです。そして,主が託されためを成し遂げた,主が認めてくださるのを感じることでしょう。主が皆さんを愛し,信頼してくださるからです。

このような時代に生きられることを感謝しています。皆さんとわたしが,栄光に満ちた天の御父から愛されている子供であることに感謝しています。イエスはキリストであり,わたしと皆さんの救い主,そして出会うすべての人の救い主であられることを証します。御父と御子は預言者ジョセフ・スミスに御姿を現されました。神権の鍵は回復され,最後の偉大な集合が始まりました。それは真実なのです。

イエス・キリストの御名によって,アーメン。

  1. 教義と聖約88:81;モーサヤ18:9参照

  2. モーサヤ28:3

  3. 1ヨハネ4:18-19

  4. モロナイ7:46-48

  5. 教義と聖約133:36-37

  6. 教義と聖約50:41-42参照