セミナリー
ヘブル2-4章


ヘブル2-4章

救い主は,困難なときに助けてくださる

画像

自分の人生で経験することをほんとうに理解してくれる人がいるだろうかと考えたことはありませんか。ヘブル人への手紙の教えには,イエス・キリストが天の御座から降られたのは,地上の死すべき人間として生き,わたしたちのために無限の贖罪を務めるためだと書かれています。そのために,主はわたしたちのことを完全に御存じであり,どのように助けることができるかも完全に御存じなのです。この課は,イエス・キリストが困難なときに助けてくださるという確信を強めてくれます。

救い主はわたしを理解しておられます

絶えず頼り主求む」(賛美歌 53番)の歌詞読むか,歌うか,聞いてください。

英語のビデオ「Where Can I Turn for Peace?(どこに平安を見いだせるのか?)」(4:03)を見ることもできます。このビデオは,https://www.churchofjesuschrist.org/study/video/ysa-face-to-face-events/2019-09-3000-face-to-face-with-elder-ulisses-soares-1080p-jpn?lang=jpn(01:02-05:05)で見ることができます。

  • この賛美歌のメッセージを自分の言葉でどのように説明しますか。

学習帳に,あなたの人生でほんとうに助けが必要なことを書いてください。

パウロはヘブル人への手紙で,イエス・キリストについて,また直面している状況で主がどのように力を与えてくださるかについて,聖徒たちに教えました( ヘブル4: 16 参照)。イエス・キリストが,あなたをどのように助けてくださるか,学びながら探してください。

学習帳に,以下のような表を書いてください:

イエス・キリストは,なぜわたしを理解することがおできになるのでしょうか。

イエス・キリストはわたしを理解しておられるがゆえに,どのような祝福を与えてくださるのでしょうか。

ヘブル2:9-10,13-184:12-16 を読んで,表の質問への答えを探してください。該当する見出しの下に答えを書いてください。なお ヘブル2章9節 と16節 が,イエス・キリストは地上の死すべき人間として生きられるために,天の御座から降りてこられたことに言及している点に留意しましょう。

1.以下の質問の答えを学習帳に書いてください:

  • イエス・キリストについて学んだことの中で,あなたやほかの人を助けることができるのはどのようなことだと思いますか。

  • イエス・キリストが「〔わたしたちの〕心の思いと志」を見分けることがおできなると知ることで(ヘブル4:12),慰められるのはなぜでしょうか。

  • 「試練の中にある者たちを助けることができる」という言葉から(ヘブル2:18),何が分かりますか。「試練を受け〔た〕(tempted)」という単語は,「試された」または「裁判にかけられる」の意味もあることに留意しましょう。助ける(succorいう単語は,だれかを助けるために駆けつけることを意味します。

あなたが発見した一つの真理は,恐らくイエス・キリストはすべてのことにおいて苦しみ,誘惑を受けられたので,わたしたちのことを理解しておられ,必要なときに助けることがおできになる,ということでしょう。モルモン書の預言者アルマもこの真理を教えています。マスター教義聖句 アルマ7:11-13ヘブル2:18 を相互参照するとよいでしょう。

十二使徒定員会のデビッド A・ベドナー長老が,救い主があなたを理解し助けてくださる力をよりよく理解する方法を説明しています。ChurchofJesusChrist.orgでビデオ「 容易に重荷に耐えられるように」 (16:23)のタイムコード12:15-13:21を見るか,以下の言葉を読むとよいでしょう。

はばかることなく恵みの御座に近づく

ヘブル4:16 を読み,わたしたちが必要な助けを得るために何をするようパウロが勧めているか,探してください。そして見つけたものに印をつけましょう。

わたしたちがどのように恵みの御座に近づくことができるのか,その幾つかの例として,ChurchofJesusChrist.orgにあるビデオ「信仰を持って手を伸ばす」(3:54)を見てください。

2.以下の質問の答えを学習帳に書いてください:

  • 「はばかることなく恵みの御座に近づ〔く〕」とはどういう意味だと思いますか。

  • 神の御前に近づくとき,わたしたちはどのようなことに自信を持つべきでしょうか。

  • 「はばかることなく恵みの御座に近づ〔く〕」とはどういうことで,どのように感じることだと思いますか。

さらに学びを深める(任意)

イエス・キリストの謙遜さとはどのようなものでしょうか

十二使徒定員会のクエンティン L・クック長老は,次のように教えています:

画像
Official portrait of Elder Quentin L. Cook. Called to the Quorum of the Twelve Apostles on 6 October 2007.

「救い主の謙遜の模範と全人類のために払ってくださった犠牲は,歴史上,最も深い意味を持つ出来事です。救い主は,神会の御一方でありながらも,慎ましやかな幼子として進んで地上に生を受け,御自分の兄弟や姉妹を教え,癒し,最終的には,ゲツセマネと十字架上で言い表せないほどの苦痛に耐え,贖罪を完成されました。キリストによるこの愛と謙遜の行為は,キリストが御自身を低くされたこととして知られています。キリストは,神がこれまでに創造された,またこれから創造されるすべての人のためにこのことを行われました。」

(クエンティン・L・クック「永遠の中の日常『リアホナ』2017年11月号,52)

ヘブル4:15 。イエスはほんとうに「わたしたちと同じように試練に会われた」のでしょうか

ハワード W・ハンター大管長(1907-1995年)は次のように教えています:

画像
Howard W. Hunter

「次のことを心に留めておくことが大切です。それは,イエスは罪を犯すこともおできになったし,誘惑に負けておられたかもしれないということ,そしてそのために命と救いの計画が無に帰していたかもしれないということです。しかし,主は最後まで忠実であられたのです。もしもイエスがサタンの誘いに乗る可能性をまったく持っておられなかったとしたら,そこに真の試しは存在せず,結果として真の勝利は得られなかったでしょう。罪を犯す能力をことごとく取り去られていたならば,イエスは自由意志そのものをも取り去られていたはずです。人間の自由意志を擁護し,確実なものとされたのはイエス御自身でした。したがって,そう望まれたのであるから,罪を犯す能力も持っていなければならなかったはずです。パウロはこう書いています。『彼は御子であられたにもかかわらず,さまざまの苦しみによって従順を学び』( ヘブル5: 8 ),『罪は犯されなかったが,すべてのことについて,わたしたちと同じように試練に会われたのである。』( ヘブル4: 15 )主は完全で罪のない御方でした。しかしそれは,そうでなけれはならなかったからではなく,イエスが明確に,断固としてそうなることを望まれたからなのです。」

(ハワード・W・ハンター 「キリストが受けたもうた誘惑『聖徒の道』1977年2月号,51-52)

ヘブル 4:16 。「恵みの御座」にはどのような重要性がありますか

多くの古代文化では,招かれることなく王座に近づくことは命を危険にさらす行為でしたが,王に招かれたならば,自信をもって王座に近づき,話すことができました。 「はばかることなく」神に近づくとは,わたしたちが神の御座に近づくことを神が求めておられ,神の助けを受けるという自信を持つという意味です(New Testament Student Manual 〔2018年〕 477)。

神がわたしたちに与えてくれる慈悲について,十二使徒定員会のジェフリー R・ホランド長老は次のように教えています:

画像
Official Portrait of Elder Jeffrey R. Holland. Photographed January 2018.

「神御自身が最も喜ばれるのは,憐れみを受けることを期待していない人やその資格がないと感じている人に,憐れみを施されるときであり,このたとえが言わんとしていることは,まさにそれを表しているのです。」

(ジェフリー・R・ホランド「ぶどう園の労働者たち『リアホナ』2012年5月号,32)