教会歴史
9 御霊が語るままに


第9章「御霊が語るままに」『聖徒たち—末日におけるイエス・キリスト教会の物語』第2巻「いかなる汚れた者の手も」1846-1893年

第9章:「御霊が語るままに」

第9章

御霊が語るままに

画像
ヨーロッパの町の通りに立つ二人の男性

1849年10月6日,教会の秋の大会の初日,大管長会と十二使徒定員会は,ジョセフ・スミスの殉教以来,教会にとって最も大掛かりな伝道の取り組みを発表しました。ヒーバー・キンボールは大会の最初の説教の中で次のように宣言しました。「時は来ました。わたしたちはこの民に,わたしたちとともに地のすべての国民に王国を携えていくことに関心を持ち,携わってもらいたいのです。」1

ソルトレーク盆地に到着して以来,聖徒たちは定住し生きていくために力を費やしてきました。そして,その年は,大量の作物が実り,冬を越すのに必要な食糧を十分収穫できました。聖徒たちがとりでから出て,町に家を建設し始めた後,教会の指導者たちは聖徒たちを23のワードに組織し,各ワードをビショップが管理するようにしました。また,ソルトレーク盆地での新たな入植も始まり,盆地の南北に広がり,多くの聖徒たちは店,製粉所や製材所,および工場の建設を始めました。集合の地は,聖徒たちが神の民を受け入れるためにその地を整えたので,発展し始めていました。2

十二使徒は新たな伝道の取り組みを導きました。その年の初めに,ブリガムは定員会の空席を埋めるために,チャールズ・リッチ,ロレンゾ・スノー,エラスタス・スノー,フランクリン・リチャーズを召しました。それから,大管長会はチャールズをアマサ・ライマンを支援するためにカリフォルニアに,ロレンゾをイタリア人の聖徒であるジョセフ・トロントとともにイタリアに,エラスタスをデンマーク人の聖徒であるピーター・ハンセンとともにデンマークに,フランクリンをイギリスに,そして,老練の使徒であるジョン・テーラーをフランスに,それぞれ送りました。3

その大会で,ヒーバーはまた,聖徒たちが貧しい人々を助けるためにノーブー神殿で交わした聖約を守るのを助けることを目的とした新たなプログラムである永代移住基金について話しました。「わたしたちはここで健康に暮らし,食べ物も飲み物も豊富にあり,なすべきことも多くあります」とヒーバーは述べました。しかしまだ,多くの困窮した聖徒たちが,ミズーリ川の定住地やアイオワの中継所,ノーブー,およびイギリスで足止めされて留まっていました。時々,これらの聖徒たちの中には,落胆して,教会を去ってしまった人たちもいました。

ヒーバーはこう尋ねました。「わたしたちはあの聖約を果たしますか,それとも果たさないつもりですか。」4

新しいプログラムの下で,聖徒たちは貧しい人々がシオンに集まるのを助けるためにお金を寄付しました。それから移住者たちは旅費を賄うための貸付を受けました。その貸付は彼らがシオンに定住してから返済することになっていました。しかし,このプログラムが機能するには,現金による献金が必要でしたが,聖徒たちは物々交換経済にあったため,ほとんどの聖徒たちは現金による献金ができませんでした。大管長会は聖徒たちに余剰分を基金に献金するように求めましたが,それに加えて,カリフォルニアで金を掘るために宣教師を送る可能性についても議論しました。5

ブリガムはその選択肢に関して依然として慎重でした。ブリガムは金への渇望が善良な人々を堕落させ,シオンの大義から逸らせてしまうことになると信じていました。それでも,教会と移住者を財政的に助けることができれば,金は神聖な目的のために利用することができるでしょう。6ブリガムが宣教師を召してカリフォルニアの金鉱に送れば,彼らは神の業のために必要な多くの基金を恐らく集めることができるでしょう。

しかし,それに召される宣教師はこの世のものに執着心のない善良で義にかなった人でなければなりません。7


出会った当初,ジョージ・Q・キャノンはソルトレーク盆地からカリフォルニアまで金を求めてさすらう人々と同じように見えました。彼は22歳の独身で,大志に満ちた青年でしたが,家を離れたいとは思っていませんでした。雄大な山々と盆地の平穏な環境を気に入っていたのです。そのうえ,金を掘るために時間を浪費するような人ではありませんでした。彼にとっては一分一秒が大切な時間です。ジョージの望みは,本を読み,割り当てられた町の区画に日干しれんがで家を建て,エリザベス・ホーグランドという名の若い女性といつの日か結婚することでした。8

ジョージとエリザベスは2年前に同じ開拓者仲間として西部に移住してきました。10代で孤児となったジョージは,おばとおじであるレオノーラとジョン・テーラーとともに,残りの家族のために家を用意するためにやって来ました。彼の弟や妹たちは盆地にいつ到着してもおかしくない状況でした。彼らは,両親が亡くなった後,自分たちを引き取ってくれたいちばん年上の姉と義理の兄である,メアリー・アリスとチャールズ・ランバートと一緒に旅をしていました。ジョージは彼らとの再会を心待ちにしていました。9

しかしながら,ジョージの家族が到着する前に,教会の指導者たちは,彼をカリフォルニアで金を掘る任務に召しました。10その責任が来たことはショックで,エリザベスにとってはうれしくありませんでした。ジョージは彼女を慰めようとして次のように言いました。「僕が召されたのはほんの1年だけだよ。僕が例えばフランスに3年間行く方がいいのかい?」

「わたしは,たとえ期間が長くても,あなたが金を見つけに行くより人を救いに行くほうがいいわ」とエリザベスは言いました。11

ジョージも同感でした。イギリスでの少年時代,彼はおじのジョンやウィルフォード・ウッドラフのような宣教師を尊敬しており,自分も同じように伝道に出て奉仕する日を楽しみにしていました。12しかし,金を掘りに行くという召しは,ほとんど想像できないものでした。

10月の大会の第1日目の後,ジョージは新しく召された宣教師やそのほかの人たちと会いました。ブリガムは神の事柄を尊ぶことについて,彼らに長い時間話しました。そして次のように教えました。「人はこの世の事柄への愛着心ではなく,心の中に神権への愛を持って常に生活しなければなりません。」13

その後数日間,ジョージは自分の任務の準備のために忙しくしていました。10月8日,ジョン・テーラー,エラスタス・スノー,およびフランクリン・リチャーズは,彼がその任務において成功し,ほかの宣教師たちの良い模範となれるように祝福しました。彼らはジョージに,天使が見守り,安全に帰還できることを約束しました。14

3日後,金を採掘するほかの宣教師たちとともに家を出発した際,悲しみと不安がジョージにのしかかりました。彼はこれまでの人生で幾度か引っ越しをしたことはありましたが,1日もしくは2日以上家族と離れたことは一度もありませんでした。彼はこの先どうなるか分かりませんでした。

金を採掘する宣教師たちは,アディソン・プラットとジェファーソン・ハントと落ち合い,彼らについてカリフォルニアに行く計画をしていました。ソルトレーク盆地から出る途中,宣教師たちは,ヨーロッパに向かう長老たちを見送る会合に立ち寄りました。百人ぐらいの聖徒たちが長老たちの見送りに集まっていました。様々な食べ物でいっぱいのテーブルでごちそうを食べている人たちもいれば,幌馬車の幌で作ったテントの下で踊っている人たちもいました。ジョージが馬に乗って会場まで行くと,ブリガム・ヤングの馬車が近づいて来るのが見えました。

馬車が止まると,ジョージは馬を降りて,ブリガムと握手をしました。ブリガムはジョージが任務で離れている間,彼のことを忘れず,また,彼のために祈ると告げました。預言者の優しい言葉に感謝し,ジョージは,もう一晩,同胞の聖徒たちのユーモアと友情を満喫しました。翌朝,彼と金を採掘する宣教師たちは馬に乗り,カリフォルニアに向けて南下しました。15


1850年3月,教会からの助けが必要かどうか確認するために,ブリガムの妻,メアリー・アンはルイーザ・プラットを訪問しました。ルイーザはどうこたえたらよいか分かりませんでした。メアリー・アンのような友人たちが,しばしば助けや夕食への招待を申し出てくれましたが,アディソンのいない生活はかつてないほど寂しく,それを変えてくれるものは何もないように思えました。

「ご主人の所に行きたいですか」とメアリー・アンは尋ねました。16

ルイーザは彼女に,もし教会が自分の家族を太平洋の島々に送る決定をすることがあれば,カリフォルニアまで連れて行くと,友人がすでに申し出てくれていることを伝えました。ルイーザはこのことをメアリー・アンに打ち明ける際,自分があまりにも行きたがっているように見えたのではないかと心配しました。ソルトレーク・シティーに残っていれば,恐らくあと5年はアディソンと離れ離れのままでしょう。しかし,太平洋の島々に行って彼と合流することにも危険が伴います。エレンとフランシスは間もなく結婚できる年齢になります。今は彼女たちをソルトレーク盆地から連れて出るのに最良の時期なのでしょうか。

彼女は主の御心を知るためにしばしば祈りました。しかし,彼女の気持ちの中には,アディソンが自分のもとに来るよう手紙を書いてくれることを単に願っていた部分もありました。彼が何を望んでいるか分かれば,決断も簡単になるからでした。しかし,一方で,彼は果たして自分に来てほしいと思っているのか疑問に思う気持ちもありました。単に,もう一度行きたいという理由から,彼は今回の伝道の召しを受け入れたのでしょうか。

ある日,ルイーザはウィラード・リチャーズに次のように言いました。「もしわたしが長老であったなら,そんなに長い間家族から離れることには絶対に同意しません。」彼女は,わたしならできるだけ速やかに任務を果たてし帰還します,と言いました。ウィラードはほほえみを浮かべて何も言いませんでしたが,ルイーザは彼が自分に同意してくれていると思いました。17

ルイーザは4月7日の午前の大会に出席しました。ジョージ・A・スミスが2時間近く話をしました。彼の話の後,ヒーバー・キンボールが説教壇に立ちました。彼は次のように述べました。「国々に伝道に行く長老たちの召しを少し発表します。」ヒーバーは二人の男性を太平洋の島々に行くように召しましたが,彼はルイーザと彼女の娘たちについては何も述べませんでした。それから彼は次のように述べました。「トーマス・トンプキンスが,これまでアディソン・プラット兄弟が働いてきた島々に行くとともに,プラット兄弟の家族を彼のもとに連れて行くことを提議します。」18

言葉に言い表せない気持ちがルイーザの心を貫き通し,集会の残りの話はほとんど耳に入りませんでした。その部会の後,彼女は群衆の中からメアリー・アンを探し,彼女に,ブリガムに自分の姉妹と義理の兄弟である,キャロライン・クロスビーとジョナサン・クロスビーもその伝道に召すことを検討してくれるよう頼んでほしいと要請しました。メアリー・アンは同意し,翌日,クロスビー家族はその召しを受けました。

出発の直前に,ルイーザと娘たちは,ブリガムを訪問しました。ブリガムはルイーザに,彼女はその島々に行き,人々を教えるうえでアディソンを助けるために召され,任命されていることを伝えました。それから,彼女の必要なものがすべて与えられ,彼女がサタンに打ち勝つ力を得て,善を行い,平和に伝道から帰還することを祝福しました。19


プラット家族とクロスビー家族が島々に向けて出発したころ,ヨーロッパに新たに召された宣教師たちはイギリスで下船し,使徒たちはウェールズとスコットランドの支部を含むイギリス伝道部の短い視察を行いました。31歳のデンマーク人宣教師のピーター・ハンセンは,その間,エラスタス・スノーから自分とそのほかの北欧出身の宣教師たちが合流するまでは行かないように指示を受けていたにもかかわらず,デンマークまで旅を続けたがっていました。

ピーターは伝道部会長を尊敬していましたが,故郷を離れてから7年がたっていたので,彼にはその地で福音を宣べ伝える最初の宣教師になりたいという大きな願望がありました。コペンハーゲン行きの蒸気船が近くの港に入港していたので,ピーターはこれ以上一瞬たりとも待てないと心に決めました。

1850年5月11日に,彼はデンマークの首都に到着しました。通りを歩きながら,彼は自分の祖国に戻ったことをうれしく感じました。しかしながら,回復された福音の光を喜んで受け入れる人は,そこにはだれ一人いなかったため,彼は悩みました。ピーターがデンマークを去った7年前は,国には宗教の自由を保護する法律がなく,国が支持する教会以外の教義を宣べ伝えることが禁止されていました。20

大人になるにつれて,ピーターはこうした規制に不満を感じました。そこで,合衆国にいる兄が新たな宗教に加わったことを知ったとき,何としても兄の教会に加入しようと思いました。その決断が,厳格な宗教心を持つまじめな父親を怒らせました。ピーターが出発する日に,父親は彼のスーツケースを壊し,中身を焼いてしまいました。

ピーターはとにかく出発し,後ろを振り返りませんでした。彼は合衆国に移り,教会に加わりました。それから,ピーターはモルモン書のデンマーク語への翻訳を開始し,ソルトレーク盆地へ向かう最初の一団と一緒に旅をしました。その間,デンマークでは,立法府により,あらゆる宗教にその信条を広める権利が認められました。21

この信教の自由が認められた新しい環境が自分の働きに益をもたらしてくれることを望みながら,ピーターは聖徒たちと幾つかの点で共通する信条を持つ教会の会員たちを探しました。彼は,バプテスト教会の牧師と話をし,その新たな法律にもかかわらず,国が支持する教会が依然として人々を宗教的信条によって迫害していることを知りました。ピーターは,合衆国において自分の信条により迫害された経験をしていたので,彼らに同情しました。彼はすぐにその牧師と会衆に回復された福音を伝え始めました。

義務感を感じて,ピーターは,自分が宣教師として戻って来たことを知った自分の父親も捜しました。ある日,ピーターは通りで父親を見つけ,呼びかけました。年をとった父親はピーターをぶっきらぼうに見ました。ピーターは自分がだれかを名乗りました。すると,父親は片手を上げて彼を追い払おうとしました。

父親は次のように言いました。「わたしには子供はいない。そしておまえ,おまえはこの地の治安を乱すために来たのだ。」

ピーターは父親の怒りに驚きもせず,影響も受けずに,自分の宣教師の務めに戻りました。彼はイギリスのエラスタスに手紙を送り,自分の伝道活動を報告し,モルモン書の翻訳の作業を続けました。彼はまたデンマーク語のパンフレットを作り,出版し,幾つかの賛美歌を母国語に翻訳しました。

エラスタスはピーターが自分の指示に従わない決断をしたことを快く思っていませんでしたが,6月14日にコペンハーゲンに到着した際,主の業が前進するための基礎をピーターが築いたことをうれしく思いました。22


1850年9月24日,使徒のチャールズ・リッチが金を採掘する宣教師たちを捜し求めて,カリフォルニア中央の金鉱宿営地に馬でやって来ました。到着したのは夕方で,金の採掘者たちは自分たちのテントや小屋に戻り,ランタンを灯し,ストーブに火をつけ,濡れた服を着替えていました。彼らが働いていた川岸に沿って,何千回もスコップやつるはしで掘られたために地面が割けているように見えました。23

金を採掘する宣教師たちがソルトレーク・シティーを発ってから,ほぼ一年が過ぎていました。これまでのところ,大量の金を見つけた人は一人もいませんでした。何人かの宣教師たちは,十分な量の金を見つけ,小分けにしてソルトレーク・シティーに送り,その一部を溶かして,貨幣に換金できました。しかし,彼らは見つけた金のほとんどを値の張る食料と必需品を買うのに使っていました。24その一方で,ゴールドラッシュの間に裕福になった地元の聖徒たちの中には,支援の提供をほとんどしない人たちもいました。サミュエル・ブラナンはすぐにカリフォルニアで最も裕福な人たちの一人になりましたが,什分の一を納めるのをやめ,教会とのつながりを一切否定しました。

チャールズは金を採掘する宣教師たちを宿営地で見つけました。彼が前回,数か月前に金鉱宿営地を訪れた際,宣教師やほかの金採掘人たちは,砂地の川底で金が見つかることを期待して川をせき止めていました。ほとんどの人々は依然として,川のせき止めに取り組むか,金探しをして日々を過ごしています。ジョージ・Q・キャノンは宿営地の店を経営していました。25

翌朝,チャールズは任務の将来について宣教師たちに話しました。採掘に最もよい季節はほぼ終わり,任務が成功しなかったことにより,金を探しに行くことに関してブリガムが抱いていた懸念が確かなものとなりました。チャールズは幾人かの宣教師に,生活費の高いカリフォルニアで冬を過ごすのではなく,ハワイ諸島で伝道を終えることを提案しました。ハワイ諸島では,多くの英語を話す入植者たちに福音を宣べ伝えながら,宣教師たちは安価に暮らすことができます。26

ジョージはチャールズに,自分は教会の指導者が最善と思うことを何でも行う用意ができていることを伝えました。もし指導者が彼にハワイに行ってほしいと願うならば,彼は行くでしょう。それに,金採掘場は若い末日聖徒にとっては危険な場所でした。宿営地では窃盗被害を耳にしたり,殺人が起きたことを耳にすることさえ珍しくありませんでした。ジョージ自身,一度,数人の採掘者たちから暴行を受け,無理やりのどにウィスキーを流し込まれたことがありました。27

宿営地を離れる前に,チャールズは宣教師たちを新たな伝道の召しに任命しました。彼は宣教師たちに次のように告げました。「あなたがたがハワイ諸島に到着したら,自分の義務について御霊が語るままに行動してください。」彼は,宣教師たちがハワイ諸島に着いてからどのようなことを行うべきかは,自分よりも御霊の方がよく御存じであると述べました。28

宣教師たちはすぐに川に戻り,せきを完成させ,さらに砂金を抽出しました。数週間後,彼らは十分な量の金を見つけ,各自が700ドル以上を手にしました。その後は,それ以上見つかりませんでした。29

彼らはその後すぐに金鉱宿営地を出発し,海岸に向かいました。ある晩,彼らはカリフォルニアの聖徒たちと福音に関心のあるそのほかの人たちのために集会を開きました。ジョージは心配していました。そのような集まりで,宣教師たちは話すように期待されていましたが,彼はこれまで一度も信者でない人たちに説教したことがありませんでした。彼はいずれ話さなければならないと分かっていましたが,最初の話者にはなりたくありませんでした。

しかし,集会が始まってから,司会をしていた長老が彼に説教するように求めました。ジョージは仕方なく立ちました。彼は自分に言い聞かせました。「わたしは召しを受けている。だから,しりごみをすることはあり得ない。」彼は口を開きました。すると言葉がすらすらと出てきました。彼は次のように話しました。「世の人々は真理を見つけたいとどれほど切望しているでしょうか。わたしたちにはその真理が与えられており,一つの真理から次の真理に前進できる原則が与えられていることに,わたしたちはどれほど感謝すべきでしょうか。」

彼はさらに5分間話しましたが,その後,考えがまとまらなくなりました。頭の中が真っ白になり,残りの説教は言葉に詰まりました。当惑して,彼は席につきました。福音を宣べ伝える宣教師として初めての経験としては,さほど悪くはないものでした。

それでも,彼は完全には落胆していませんでした。彼は伝道の召しを受けていたので,責任を果たすのにくじけたり,失敗することはありませんでした。30


そのころ,15歳のフランシス・プラットは,20人以上のアメリカ人の聖徒たちを南太平洋伝道部まで運ぶ船の甲板から,トゥブアイ島を目にしました。船旅の間中ほとんどの時間,楽しめず,閉じこもっていたフランシスは,その瞬間に希望が湧いてきました。彼女はその島の浜辺に父の姿が見えることを願って,望遠鏡をのぞき込みました。姉のエレンは,船が接岸したらすぐに父が船に乗り込んでくると確信していました。

ルイーザもアディソンとの再会を心待ちにしていましたが,彼女は船旅の間ずっと船酔いをしていました。そのため,彼女はしっかりした陸,きちんとした食べ物,柔らかいベッドのこと以外ほとんど何も考えることができませんでした。彼女の姉妹のキャロラインも隣で苦しんでいました。吐き気で歩くこともままなりません。31

二日間逆風と危険な暗礁とに苦闘した後,船は島の近くに錨を下ろしました。二人のトゥブアイ人の男性が小舟をこいで出迎えにやって来ました。彼らが船に乗船してくると,ルイーザはアディソンが島にいるか尋ねました。「いません」と二人の中の一人が答えました。アディソンはタヒチ島で,囚人として収監されていました。カトリック教会以外の外国人宣教師はだれでも,フランス人の知事から疑いをかけられていたのです。

ルイーザは悪い知らせに必死に耐えましたが,娘たちは耐えられませんでした。エレンは座り込んで,手を膝の上で握り,顔は石のようにこわばっていました。ほかの娘たちは甲板の上を行ったり来たりしました。

すぐに別のボートが到着し,二人のアメリカ人が甲板まで上がってきました。その中の一人はベンジャミン・グラウアードでした。ルイーザがノーブーで彼と最後に会ったときは,彼は元気のいい若い男性でした。太平洋地域で7年間宣教師として奉仕してきた現在は,厳かで威厳がありました。喜びと驚きで目を大きく開いて,彼は新たにやって来た人たちを温かく迎え,陸地へと案内しました。32

浜辺で,トゥブアイの聖徒たちがルイーザとほかの乗客たちを歓迎しました。ルイーザはアディソンの最初の伝道のときからの友人であるナボタとテリーに会えるか尋ねました。一人の男性がルイーザの手を取り,“‘O vau te arata‘i ia ‘oe「わたしが案内します」と言いました。33

彼は島の内部に入って行き,ルイーザは後について行きました。彼女は最善を尽くして彼と意思疎通をしようとしました。残りの人々は笑いながら,すぐ後を歩いて進みました。ルイーザは頭上高く生えているヤシの木と島を覆っている豊富な植物に驚きました。あちらこちらに,サンゴから造ったしっくいで固めた長くて低い住居が建っていました。

テリーは新しい宣教師たちに会ったとき,喜びにあふれました。彼女は病気で静養していましたが,ベッドから起き上がってごちそうの準備を始めました。調理用の穴で豚を焼き,魚を揚げ,島に生えている根から作った粉でパンを作り,様々な新鮮な果物を並べました。彼女が調理を終えるころには,島中の聖徒たちが新しく到着した人々と会うために集まりました。

一行は満月が空高く輝いている間,ごちそうを楽しみました。その後,トゥブアイの聖徒たちが大勢家の中に入り,アメリカ人の聖徒たちが英語で賛美歌を歌っている間,草で作った床敷きの上に座っていました。それから島の聖徒たちが自分たちの言語で賛美歌を歌いました。彼らの声は大きく澄んでいて,完璧なハーモニーを奏でました。

ルイーザは音楽を楽しみながら,家の外を眺め,美しい景色に感銘を受けました。美しい黄色の花をつけた背の高い日よけの木々が家を囲んでいます。月の光が枝越しに何千もの異なる形で降り注いでいます。ルイーザは自分の家族が移動してきた長い道のりと,このように美しい場所に来るために経験してきた苦難について考えました。彼女はそこに神の御手があったことを知りました。34


ルイーザがトゥブアイに到着してから2か月後,金を採掘していた宣教師たちは,オアフ島のホノルルを見渡せる山の中腹に登り,伝道の業のためにハワイ諸島を奉献しました。翌晩,伝道部会長はジョージ・Q・キャノンに,ジェームズ・キーラーとヘンリー・ビグラーと一緒にオアフ島の南東にあるマウイ島で働くよう割り当てを与えます。35

マウイ島はオアフ島より少し大きな島でした。マウイ島の中心となる町であるラハイナは長く平坦な浜辺沿いにあり,港がありませんでした。海からは,町の大部分がヤシの木と生い茂った葉に隠れて見えませんでした。遠く背後にある高い山脈がぼんやりと見えました。36

宣教師たちは伝道するために行きましたが,彼らはすぐに,島には期待していたほど多くの白人の入植者はいないことが分かりました。ジョージは落胆しました。金を採掘していた宣教師たちは,英語を話す入植者たちに福音を教えることができることを期待してハワイにやって来ました。しかし,だれひとり回復された福音に興味があるようには見えませんでした。彼らは,もし白人のみに福音を宣べ伝えていたら,彼らの伝道はすぐに終わり,成功しないということに気づきました。

ある日,自分たちの選択肢について話し合いました。そして次のように自問しました。「福音を宣べ伝えるのを白人だけに限定するべきだろうか。」彼らはハワイ人に伝道するようには一度も指示を受けていませんでしたが,伝道してはならないという指示も受けてはいませんでした。カリフォルニアで,チャールズ・リッチは彼らに,彼らの伝道を導く御霊に頼るよう簡潔に助言しました。

ジョージは,自分たちの召しと義務はあらゆる人々に福音を伝えることであると信じていました。もし彼とほかの宣教師たちが努力してその土地の言語を身に付けるならば,アディソン・プラットがトゥブアイで行ったように,彼らはその召しを尊んで大いなるものとし,より多くの人々の心と思いに触れることができるでしょう。ヘンリーとジェームズも同じように感じました。37

宣教師たちはすぐに,ハワイ語は彼らにとって理解するのが難しいことが分かりました。単語一つ一つが次の単語の一部になっているように思えました。38それでも,多くのハワイ人は彼らが学ぶのを熱心に助けてくれました。マウイ島には教科書があまり多くなかったので,宣教師たちはホノルルから幾つか取り寄せました。ジョージの話したいという願望はとても強かったので,言語を練習する機会を決して見逃しませんでした。時には,彼とほかの宣教師たちは一日中家で,ハワイ語を読んで勉強しました。

次第に,ジョージは自信をもってその言語を使えるようになり始めました。ある晩,彼と同僚たちが家で座って,近所の人たちとハワイ語で話していると,ジョージは突然自分が彼らの話していることの大部分を理解できることに気づきました。彼は跳び上り,自分の頭の横に手を置いて,異言を解釈する賜物を受けたと叫びました。

彼らの話す言葉一つ一つを聞き分けることはできませんでしたが,全体の意味を理解することができました。感謝の気持ちで満たされ,主が祝福してくださっていることを知りました。39