教会歴史
20 不吉な前兆


第20章「不吉な前兆」『聖徒たち—末日におけるイエス・キリスト教会の物語』第2巻「いかなる汚れた者の手も」1846-1893年(2019年)

第20章:「不吉な前兆」

第20章

不吉な前兆

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峠を下るラバに引かれた荷車

1858年の夏,軍隊がソルトレーク・シティーを通り過ぎようとしていたころ,カール・メーザーという名の教師は,ジョン・タイラー元合衆国大統領の家族からうれしい申し出を受けました。ここ数か月,カールは合衆国南部の広大な農園で,ジョン・タイラー,ジュリア・タイラー夫妻の子供たちに音楽を教えていました。ドイツからの移住者であるカールは,その高い教養と紳士的な立ち居振る舞い,知的なユーモアでタイラー家に感銘を与えました。今度は,自分たちの近くに住めるだけの給与を支払うので,子供たちを引き続き教えてほしいと言うのです。1

断るには惜しい申し出です。カールと妻のアンナがドイツから到着して間もないころ,金融危機が経済をまひさせていました。アメリカ合衆国,カナダ,ヨーロッパの各都市に住む何万もの人々が職を失ったのです。カールとアンナは一時期,仕事を見つけ,食卓に食べ物を並べるのに苦労しました。タイラー家の子供たちを教える仕事は,メーザー夫妻と3歳の息子ラインハルトにとって,幾らか経済的安定をもたらしてくれました。2

ところがカールは,タイラー家の申し出を受けるつもりはありませんでした。カールはかつてジュリア・タイラーに,自分が幸せになるために必要なものは,家族が住まう小さな家と庭だけだと言ったことがあります。彼女に伝えなかったのは,カールとアンナがシオンに集合するために合衆国へやって来た末日聖徒だということでした。カールが南部で職を探した一つの理由は,家族を養うという理由は別として,西部へ移り住むのに十分な資金を蓄えることでした。3

カールが初めて教会について学んだのは,ドイツに住んでいたときのことです。教会とそのメッセージに反対する本を読み終えたカールは,ヨーロッパ伝道部の指導者に連絡を取りました。程なくすると使徒のフランクリン・リチャーズとウィリアム・バッジという名の宣教師がドイツへやって来て,カールの家族に福音を教えました。カールとアンナはすぐさま福音を受け入れます。

ドイツでは教会への加入が違法とされていたため,フランクリンは夜になってからカールにバプテスマを施しました。カールは水から上がると,両手を天に掲げ,祈りをささげました。「お父様,今わたしがあなたの喜ばれることを果たせたのでしたら,その証をわたしにお与えください。何であれ,この手で行うべき事柄を示していただければ,わたしはそれを実行します。」4

その当時英語が分からなかったカールは,通訳者を介してフランクリンとやり取りしていました。ところが町まで歩いて戻る道中,カールとフランクリンは突如として互いの言っていることが理解できるようになりました。それはまるで,二人が同じ言語を話しているかのようでした。この異言の賜物の現れは,カールが求めていた証でした。そうしてカールは,どのような犠牲を払うことになろうとも,自分の言葉に忠実であり続けようと心に決めたのです。5

あれから3年がたった今,カールは自分がバプテスマの際に交わした約束を変わらず守ろうと努めていました。シオンへ向かう決意をしたカールは,タイラー家の申し出を辞退し,家族とともに北東部の州にある大都市,フィラデルフィアへ移りました。到着後間もなく,カールは教会の小さな支部を管理する召しを受けます。6

ユタにおける最近の危機的状況を前にして,このような支部は伝道活動や移住を支援し,あらゆる批判から教会を擁護し,教会に代わって政府に働きかけるという重要な役割を担っていました。しかし,ブリガム・ヤングが宣教師たちを帰還させ,東部の聖徒たちに西部へ来るよう勧めると,東部における支部の多くでは,こうした活動を継続するうえで必要な会員や資金を欠くようになりました。7

合衆国東部において末日聖徒でいることは,困難でもあります。過去10年間で,この地域における教会の評判は急速に悪化しました。多くの人々は,聖徒たちが反抗的で愛国心のない人々だと信じ続けていたのです。ある教会の指導者は,ニューヨーク市で殺害の脅迫を受けましたし,聖徒たちの中にはその信仰のゆえにタールを塗られ,羽根を付けられた者もいました。さらなる迫害を避けるべく,教会の会員であることを内密にしている者もいたのです。8

フィラデルフィアでカールが支部の会員たちを教え導き,教会の地区大会に出席し,次の移住の時節に向けた計画を手助けする中,アンナはお針子や家政婦として働いて家計を助けました。彼らは自分たちの小さな支部を強めるために,できるかぎりのことを行っていたのです。9しかしながら,教会がその地域や世界中で栄えるためには,聖徒たちは自分たちに対する誤った考えや誤解の山を切り崩す必要がありました。

任地へ戻り,救いの業を続ける宣教師をさらに必要としていたのです。


1858年の9月上旬,ユタ中央部に位置するフィルモアという町で,ジョージ・Q・キャノンは“Deseret News”(『デゼレトニュース』)の出版に携わっていました。新聞社は通常,ソルトレーク・シティーに本社を構えていましたが,その年の初めに聖徒たちが南部へ移動した際,ジョージと彼の家族は重たい印刷機器を梱包すると,150マイル(240キロ)近くの道のりをフィルモアまで運びました。10

今やソルトレーク・シティーに戻っても安全だと判断したジョージは,印刷事業を北部へ戻す決意を固めます。9月9日,ジョージと弟のデビッドは印刷機器を荷車に積み,ジョージの増え続ける家族とともにソルトレーク・シティーへと引き返しました。ジョージとエリザベスには1歳の息子ジョンと,もうじき出産予定の赤ん坊がいました。ジョージは2番目の妻サラ・ジェーン・ジェンを迎えており,彼女もまた出産を控えています。

フィルモアを出発して4日後,キャノン家族はソルトレーク・シティーからおよそ70マイル(115キロ)離れた町に立ち寄り,休息を取りました。ジョージが家畜を放していると,ラバの引く荷車に乗った男が彼のもとにやって来ました。その男はブリガム・ヤングが遣わした使者で,前の晩からジョージを捜していました。男によると,ジョージがすでにソルトレーク・シティーにいる,とブリガムは思っていたとのことでした。教会は再び宣教師を送り出しており,長老たちの一団が,ジョージとともに合衆国東部への伝道に出発するのを待っていると言うのです。

ジョージは混乱しました。一体東部へどんな伝道をしに行くというのでしょう。ジョージとエリザベスは30分以内に小さなスーツケースをまとめると,ジョンとともにソルトレーク・シティーへ急ぎました。一方,デビッドはサラ・ジェーンと印刷機器を携えて後に続きます。ジョージがソルトレーク・シティーに到着したのは,翌朝5時のことでした。朝食を終えるとすぐさまブリガムの執務室へ向かいます。ブリガムはジョージを出迎えて尋ねました。「準備はいいですか。」

「できています。」ジョージは答えました。

ブリガムは隣に立っていた男性たちの一人に向き直り,「そうなると言っただろう」と告げました。それから書記が,伝道に関する指示書をジョージに手渡しました。11

ユタ準州議会は再び合衆国議会に対し,州への昇格と,地元の政府高官を選出あるいは任命する権利を要求していました。教会に対する世論の評価が低いままだと,州昇格への嘆願がまたしても実らないと分かっていたブリガムは,東部の聖徒たちを管理するという特別な使命を果たすよう,そして,教会に関する肯定的な新聞記事を発行し,その評判を国中で高めるようジョージに求めたのです。12

ジョージはすぐさま,この使命の重みを感じ取りました。翌日には出発しなければならず,ソルトレーク盆地に家族が落ち着くのを手助けする時間は取れそうにもありません。それでもジョージは,主がその御心を果たす方法を与えてくださると信じていました。ハワイやカリフォルニアにおけるジョージの経験は,これほどの規模の任務とそれに伴う重責に彼を備えていました。自分のきょうだい,またおばとおじに当たるレオノーラやジョン・テーラーといった親戚たちが,妻や子供たちを助けてくれるであろうことも知っていました。

ブリガムはジョージに祝福を授け,宣教師として任命します。ジョージはそれからエリザベスとジョンに祝福を授けると,北部へ旅を続けているサラ・ジェーンとともに,彼らを主の見守りに委ねました。翌日の午後,ジョージと宣教師の小さな一団は,ロッキー山脈を越えて東部へと旅立ちました。13


その一方,サンピート盆地にあるエフライムのとりででは,アウグスタ・ドリウス・スティーブンズが,ついに家族のほとんどを自らの傍らへ引き寄せていました。聖徒たちが南部へ移動した際,義理の姉妹であるエレンとカレンは,父ニコライの後に続いてエフライムのとりでに向かいました。ソルトレーク・シティーでの警備任務を終えたアウグスタの兄たち,カールとヨハンもすぐさま合流しましたし,妹のレベッケもその町に住んでいました。唯一,母のアネ・ゾフィーはいまだデンマークにおり,教会員ではありません。14

4年前にヘンリー・スティーブンズと結婚して以来,アウグスタは家庭を切り盛りし,ヘンリーの最初の妻であり療養中のメアリー・アンの世話をしていました。アウグスタはメアリー・アンを心から愛しています。1519歳のとき,アウグスタはエフライムのとりでにおける女性扶助協会の初代会長にもなりました。病気の者や苦しむ者の世話をしながら,彼女と扶助協会の姉妹たちは布を織り,キルトを作り,また助けの必要な人に食糧や住む場所を提供し,孤児の面倒を見ました。町のだれかが亡くなると,彼女たちは死者の体を洗って服を着せ,埋葬着を作り,哀悼者を慰め,葬儀までの間,サン・ピッチ川から運んだ氷で遺体を保存しました。16

ドリウス家族が再会を果たす少し前,アウグスタは男の子を出産してジェイソンと名付けました。ジェイソンは1歳を迎えることなく,伝染病が流行する中,他界します。その悲しみをよそに,アウグスタはサンピート盆地にて,スカンジナビア人聖徒の形成する大規模な地域社会に居場所と確かな慰めを見いだしました。彼らは新たな住まいでの試練を堪え忍ぶうえで,共通の慣習や伝統,言語により励ましを受けていたのです。彼女の兄たちは伝道中,こうした聖徒たちの多くを教え,バプテスマを施しました。それにより,アウグスタと彼らとのきずなが強められていることは疑いようもありません。

1858年,エフライムのとりでに到着した際,カールとヨハンは農業に挑戦しましたが,バッタが作物を台無しにしてしまいます。アウグスタやヘンリーといった経験ある定住者の多くが,サンピート盆地での農業において同様の困難に苦しんでいたのです。この地域にやって来た最初の聖徒たちは,数年にわたって壊滅的な霜と昆虫被害に直面しました。この状況を乗り切ろうと,聖徒たちは二つのとりででともに生活し,共同の畑で働き,灌漑用水を共有しました。ついに豊作に恵まれると,彼らは穀物倉を満たし,そのほかの食糧も蓄えたのでした。17

1859年の夏,アウグスタの生活は一変しました。ブリガム・ヤングはサンピートに暮らす何組かの家族に,古びたスプリングタウンの定住地近くへ移り住むよう求めたのです。そこはアウグスタが初めてソルトレーク盆地にやって来たころ,短い間住んだことのある場所でした。アウグスタとヘンリーは,すぐさまその地へ移ります。男性たちは町の敷地と,農業用の640エーカー(260ヘクタール)の土地を調査しました。間もなくして農地は5エーカー(2ヘクタール)と10エーカー(4ヘクタール)の区画に測量され,各家族に配分されました。やがて家や山小屋,丸太造りの集会所が新たな定住地を美しく飾りました。この地域に多くのデーン族〔訳注—デンマークの民族〕が暮らしていることから,住民はこの地をリトル・デンマークという愛称で呼びました。18

スプリングタウンに定住してから,ヘンリーは製粉所を建設し始めました。その冬,山々から材木を切り出して運んでいたヘンリーは,ひどい風邪を引き,じきにしつこい咳に悩まされるようになります。咳がぜんそくへと悪化したため,ヘンリーは働くのが困難になってしまいます。町には医者が一人もいません。そのためアウグスタは自分が知り得たあらゆる治療法を試し,ヘンリーの呼吸を和らげようとしました。その甲斐なく,まったく効果は現れません。19

アウグスタとヘンリーがスプリングタウンへ移り住んで約1年がたったころ,大管長会はアウグスタの兄であるヨハンとカールをスカンジナビアの伝道地へ戻るよう召します。移動する手立てがなかった二人に向けて,エフライムのとりでとスプリングタウンの聖徒たちは荷車や馬,ラバを提供しました。20


ドリウス兄弟が伝道を開始して数か月がたった1860年の夏,ジョージ・Q・キャノンは東部への伝道から帰還するよう求められました。21この2年の間,ジョージと聖徒たちの長きにわたる協力者トーマス・ケインは,教会に関する肯定的な記事を幾つも新聞に掲載し,教会に代わって陳情を行ってきました。カール・メーザーをはじめとする教会指導者と密接に働き,ジョージもまたニューヨーク,ボストン,フィラデルフィアといった東部の支部を強めてきました。22

それでも世論は引き続き,教会に真っ向から反対しています。共和党は,奴隷制度と一夫多妻制に終止符を打つ目的で近ごろ結成された新たな政党で,これらの行為は「野蛮さを表す対となる遺物」だとして訴えました。23共和党がこれら二つの行為を関連付けたのは,女性たちが逃げ場もなく多妻結婚を強いられているのではないかという,彼らの誤った憶測によるものでした。しかしながら,これら二つの問題のうち,奴隷制度は国内に大きな亀裂を引き起こしており,ジョージを含む多くの人々が国家的な災害を予測するまでになりました。

「解放や自由,そして自由主義を愛する者ならだれでも,これらの出来事を,我が国の栄光が急速に消え失せていくという感覚を持たずして見てはいられないはずです。」ジョージはブリガム・ヤングへの手紙にこう記しています。「合衆国政府の崩壊は避けられません。もはや,その時がいつになるかという疑問しか残されていないでしょう。」24

伝道中,ジョージもブリガムから手紙を受け取っています。その内容は,大管長会と十二使徒定員会が下した最近の決定事項についてでした。1859年10月に行われた集会で,ブリガムはパーリー・プラットに代わる新たな使徒を召すよう提案しました。そこでブリガムは,十二使徒たちに推薦を求めます。「忠実な男性であればだれでも,召しを尊んで大いなるものとするのに十分な知性を持つこととなるでしょう。」ブリガムは十二使徒たちにそう告げました。

「どのような原則に基づいて人々を選ぶべきか知りたいと思うのですが」と,パーリーの弟であるオーソン・プラットが言いました。

「もし人が生まれながらの優れた判断力によって推薦されるなら,すべての知識に対して主を求めるのに十分な忠実さと謙遜さ,それ以上の高い資質を持ち合わせている必要はありません。強さを得るために主を信頼する人です」とブリガムは答えました。「教養と才能に恵まれた人であればなおよいでしょう。」

「もし主が12歳の少年を指名されるのであれば,彼こそわたしたちが支持したいと望む人物です」とオーソンは言います。「しかし,選ぶ際にわたし自身の判断力を用いる余地があるのならば,様々な場所で試しを受けた経験豊かな人物,忠実かつ勤勉で,どのような状況に置かれようとも教会を擁護する才能豊かな人物を選ぶでしょう。」

ブリガムは,使徒たちがその職へ幾人かの男性を推薦するのに耳を傾けました。それから,「わたしはジョージ・Q・キャノンを十二使徒の一人として推薦します」とブリガムは言いました。「彼は謙虚ですが,その謙虚さゆえに,務めを果たす責任を放棄するとは思えません。」25

ジョージの召しは,春の総大会で発表されます。その間ジョージは家へ帰る支度を整えていました。自分が弱くふさわしさに欠けるという思いを抱きながらも,ジョージはその召しを受けます。「恐れと不安で身震いしました。」33歳のジョージは自分の召しについて知ると,すぐさまブリガムにこう書き送りました。「また主の慈しみと恵み,兄弟たちに対する愛と信頼について考えると,喜びに震えます。」26

数か月後に家路についたジョージは,複数の荷車隊と二つの手車隊の前を急ぎました。これらの隊は,ジョージが合衆国東部の支部,ヨーロッパ,そして南アフリカから来た聖徒たちで組織したものでした。27

1856年に起きた手車隊の悲劇を心に留めつつ,ジョージは賢明にも最後の手車隊を複数の荷車隊より早く行かせます。「いかなる不運をも避けるため,考え得るあらゆる手段を講じようと努めました」とブリガムに報告しています。「そして主の祝福があれば,彼らは全員目的地へ安全にたどり着くであろうと心から信頼したのです。」28


当時ジョージとともに西部へ旅を進めた聖徒たちの中には,教会の祝福師であるジョン・スミスがいました。ジョンは1859年の終わりに東部へやって来ました。姉のロビーナと彼女の家族をユタへ集合させるうえで,再度手助けを試みるためでした。移住に適した時節が訪れるのを待つ間,ジョンとロビーナはノーブーに暮らすスミス家の親戚を訪ねました。親戚の中には,おばのエマとその子供たちもいます。29

エマはノーブーで平穏な生活を送っていました。彼女はいまだノーブーマンションに住み,かつての教会の資産を所有していました。その資産とは,1844年,亡くなる前にジョセフがエマへ譲渡したものです。ジョセフはエマを信用してその土地を譲渡しましたが,ジョセフの債権者の一部は後に,ジョセフが不正を働いたと確信して,この資産を売却のうえ返金するよう求めました。彼らがその告発を証明することはできませんでした。問題は1852年に落ち着きます。連邦判事は,教会の管財人としてジョセフが所有していた10エーカー(4ヘクタール)を超える土地のすべてが,借金を返済する目的で売却して差し支えないものであるという判決を下したのです。夫ジョセフを亡くした妻として,エマは売却による収益の6分の1を受け取りました。エマはそのお金で土地の一部を買い戻し,家族を養ったのでした。30

ジョンとロビーナは親戚の無事を確認しましたが,彼らは宗教に関しては意見を異にしていました。いとこのジュリアはカトリック教徒と結婚し,夫の宗教に改宗していました。ジョセフとエマの4人の息子たちは自らを末日聖徒だと認めながらも,父親がノーブーで教えた幾つかの原則,とりわけ多妻結婚を拒絶していたのです。31

これは,ジョンにとって何ら驚くことではありませんでした。エマは夫が多妻結婚についてひそかに教え,実践していたことを知っていましたが,息子のジョセフ・スミス三世は多妻結婚を,預言者ジョセフの死後にブリガム・ヤングが聖徒たちに紹介した原則だと信じていました。1848年,ジョンの家族がノーブーから立ち退こうというとき,ジョンはジョセフ三世に,一緒に西部へ向かい,父親の業を引き継いでいくよう説得を試みました。ところがジョセフ三世はきっぱりと断ります。

このように答えました。「このことで,霊のうえでの妻や,父の死後に設けられたそのほかの制度を支持しなければならないのであれば,わたしはほぼ確実にあなたの宿敵にならざるを得ないでしょう。」32

何年にもわたり,ジョセフ三世は教会を導くことに対して関心をほとんど示しませんでした。ところが1860年4月6日,ジョンとロビーナの訪問の後,ジョセフ三世とエマは聖徒たちの「新たな組織」が開催する大会に出席します。この組織の聖徒たちは,ブリガム・ヤングによる指導を認めず,合衆国中西部に留まっていました。集会の間,ジョセフ三世はこの新たな組織の指導者の職を引き受け,多妻結婚を非難することでユタにいる聖徒たちから遠ざかりました。33

数か月後,ジョンはロビーナと彼女の家族とともに,西部への旅路につきます。カールとアンナ・メーザーも,その旅の一員でした。険しい道を行く不慣れな生活の中,この若き教師,カールは全力を尽くして牛の一団を操りましたが,最終的には代わりになってくれる御者を雇いました。旅の途上で,百日咳が隊の子供たちを悩ますことはありましたが,それ以外はたいてい平穏無事に旅路が進んでいきました。34

8月17日,ソルトレーク・シティーまで約160マイル(257.5キロ)という地点で,ロビーナの14歳になる息子ハイラム・ワーカーが,誤って自分の腕を撃ってしまいました。腕はだめでも,せめておいの命は助けたいと願ったジョンは,すぐさま別の男性に隊を任せ,ハイラムをラバが引く荷車に乗せると,ハイラムとロビーナをソルトレーク盆地に急いで連れて行きました。

ラバに引かれた荷車がソルトレーク・シティーに到着したのは9日後のことで,医者はハイラムの腕を治すことができました。おいの無事を確認すると,ジョンは隊に戻り,9月1日に隊を町へと導きました。35


1860年11月4日,ウィルフォード・ウッドラフは,ウォルター・ギブソンという名の男がソルトレーク・シティーへ戻って来るのを歓迎しました。ウォルターは世界を旅する冒険家です。ウォルターは若いころ,メキシコや南アメリカを旅し,海を渡り,ジャワ島にあったオランダの刑務所から逃れてきました。36

ウォルターによれば,刑務所の中で声が聞こえ,太平洋に強力な王国を築くよう促されたと言います。それから何年も,この使命を手助けしてくれる人々を探し求めましたが,末日聖徒について話を聞くまで,ふさわしい団体を見つけることができずにいました。1859年5月,ウォルターはブリガム・ヤングにあてて手紙を書き,太平洋の島々に教会員を集合させるという計画を提案します。間もなくして,3人の子供たちと一緒にソルトレーク・シティーにやって来たウォルターは,1860年1月に教会に加わりました。37

ウィルフォードはその冬,ウォルターと友人になり,しばしばウォルターの旅行に関する講演に出席したり,親睦会で会ったりしました。38ブリガムは新たな集合地に関するウォルターの提案には何の関心もありませんでしたが,この新たな改宗者の持つ可能性は認めていました。39ウォルターは博学で話もうまく,教会での奉仕を切望しているようです。1860年4月,大管長会はウォルターを東部への短期間の伝道に召しました。ウォルターは召しを快諾します。40

それから半年,ウォルターは心躍る知らせとともにユタへ戻って来ました。ニューヨーク市にいる間,ウォルターは日本大使館の役人と聖徒たちについて話し,日本に来るよう招待を受けたというのです。日本人と良好な関係を築けると確信したウォルターは,招待に応じ,日本における伝道活動の道を備えたいと願いました。ウォルターは,回復された福音が日本からシャム〔訳注—タイの旧称〕,またその地域のほかの国々に広がり得るとも信じていました。

「これまで導かれてきたように,わたしは神の御霊にすっかり支配されることでしょう。」ウォルターは11月18日に開かれた集会で聖徒たちにこう語りました。「すべての国々の人類家族の子供たちとともにいると,家にいるかのように感じます。」41

ウォルターをアジアへ送るという見通しは,ウィルフォードを興奮させました。「主が驚くべき方法でウォルターの前に扉を開いてくださった。」ウィルフォードはそう日記に書き記しています。42

ブリガムも同意しました。「ギブソン兄弟はわたしたちのもとを離れ,これから伝道へ向かいます。」ブリガムは集会で聖徒たちにそう語りました。「わたしの知り得るかぎり,彼がここへ来た理由は主がここに導かれたためです。」43

翌日,ヒーバー・キンボールとブリガムはウォルターの頭に手を置きました。「あなたが神の栄光にひたすら目を向け,主の御名を呼び,主の知恵を求め,主の前に謙遜で柔和になろうと努めるかぎり,人の子らの善と福利に目を向けられますように。」そうしてヒーバーは次のように宣言しました。「あなたは非常に大きな祝福を受け,イスラエルの家を集め,多くの人々に悔い改めとバプテスマをもたらし,聖霊を授け確認することでしょう。」44

ウォルターと娘のタルーラは,2日後に太平洋へ向けて出発しました。45


ウォルターが旅立った1か月後,合衆国から離脱していた南部の州サウスカロライナは,この度のエイブラハム・リンカーンの合衆国大統領就任によって,国内の経済と政治における勢力均衡に変化が生じ,奴隷制度に終止符が打たれるのではないかと恐れていました。ウィルフォード・ウッドラフはこの憂慮すべき出来事を,ジョセフ・スミスが28年前に受けた啓示の成就であるとすぐさま認識します。1832年のクリスマスの日,主は預言者に,サウスカロライナで間もなく起こる反逆と,それが多くの人の死と苦悩に終わることを警告されていたのです。46

「剣と流血により,地に住む者は嘆き悲しむであろう」と主は宣言されました。「また,地に住む者は,飢饉と,悪疫と,地震と,天の雷と,猛烈なまぶしい稲妻によっても,全能の神の激しい怒りと憤りと懲らしめの手を感じるであろう。そしてついに,定められた滅びが,すべての国をことごとく終わらせるであろう。」47

「我々は,合衆国が迎える恐ろしい時のために自らを備えなければならないだろう。」ウィルフォードは1861年1月1日付の日記にこう綴っています。「不吉な前兆が見える。我々の国家は崩壊へ向かう運命にあるのだ。」48