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Brigham Young University 2001–2002 Speeches(2002年)187-193

BYU在職中に聞いたきわめて意義深い学術談義には,一つの共通した特徴がありました。多くの講話がそうであるように新しい事実を述べたり特定の見解を主張したりするのではなく,ある重要なテーマに関する聞き手の考え方を変えるのです。わたしは学術的な話をする講師ではなくディボーショナルの話者ですが,今日は同じ試みをしようと思います。タイミングという重要なテーマについて,聴衆である皆さんの考え方を多少なりとも変えたいと思います。

何年も前に,ある大学の学長の就任式で聞いた話から始めましょう。大学の運営において,タイミングがいかに大切であるかを示す話です。ある学長の任期が終わり,新学長が仕事に就こうとしていました。退職を前にしたこの賢明な学長は,激励の気持ちを表そうと,若い後任に封をした3つの封筒を渡して言いました。「職務の間に初めて危機が起こるまでこれを開けてはいけませんよ。どうしようもなくなったら,最初の封筒を開けてみなさい。少しは役に立つ忠告があるでしょう。」

新学長が危機に直面したのは,それから1年後でした。最初の封筒を開けると,紙が1枚あり,こう書かれていました。「前任者のせいにしなさい。」学長は忠告に従い,危機を乗り切りました。

その2年後,学長は指導力を問われるような重大な問題に再び直面しました。2通目の封筒を開いて読みました。「役員を再編成しなさい。」学長はそのとおり実行して人事を一新し,非難していた人たちの攻撃はやみ,彼の指導力にも新しい活力が生まれたのです。

さらに長い年月が流れ,今やベテランとなった学長に3度目の大きな危機が訪れました。今回も問題の解決策が書かれているはず,と期待を込めて封筒を開けると,やはり1枚の紙が入っていました。しかし,そこに書かれていたのは次のような言葉でした。「封筒を3枚用意しなさい。」新しい指導者と交代する時期が来ていたのです。

「タイミングこそすべて」とよく言いますが,もちろんこれは誇張です。しかし,タイミング肝心です。伝道の書には次のように書かれています。

「天の下のすべての事には季節があり,すべてのわざには時がある。

生るるに時があり,死ぬるに時があり,植えるに時があり,植えたものを抜くに時があり, ……

泣くに時があり,笑うに時があり,悲しむに時があり,踊るに時があり,

……抱くに時があり,抱くことをやめるに時があり,

……黙るに時があり,語るに時があ〔る。〕」〔伝道3:1-2,4-5,7

人生のあらゆる重大な決意において,最も大切なのは正しいことを行うことです。2番目は,1番目に劣らず重要で,正しいことを正しいときに行うことです。正しいことでも間違ったときにしてしまうと,思いどおりにいかず無駄に終わってしまうことがあります。正しい選択をしたにもかかわらずタイミングを間違えたために,自分の選択は正しかったのだろうかと困惑することさえあります。

Ⅰ.主の時

時に関して最初に触れたいのは,主は御自身の時刻表を持っておられるということです。主は,この神権時代の初期の長老たちに教えられました。「わたしの言葉は確かであり,果たされないことはない。」そしてこう続けられたのです。「しかし,すべてのことは時節にかなって起こる。」(教義と聖約64:31-32

福音の第一の原則は,主イエス・キリストを信じる信仰です。信仰とは信頼を意味します。神の御心を信頼し,神が物事をお進めになる方法を信頼し,神の時刻表を信頼することです。自分の時刻表を神に押しつけるべきではありません。ニール ・A・マックスウェル長老は次のように言いました。

「大切なのは,神の時を信頼できるほど十分に神を信頼することです。神がわたしたちの幸福を願っておられると本当に信じられるなら,神が最善と判断なさる計画が実現するようにすべきではないでしょうか。これは再臨や他のあらゆることについても同じです。神の全体的な計画や目的を信じるだけでなく,わたしたち一人一人のために主が判断される時を信じなければなりません。」〔Even As I AmSalt Lake City: Deseret Book, 1982年)93〕

さらに最近,4月の大会で,マックスウェル長老はこう言いました。「主の時についての信仰も試されますから,『御心が行われますように』と言うだけではなく,『あなたの時にかなって行われますように』と忍耐をもって言えるようになろうではありませんか。」(「望みをもって耕す」『リアホナ』2001年7月号,73)

実際,主の御心と主の時に対する完全な信頼なしには,主を本当に信じる信仰を持つことはできません。

この原則に反するのは,安楽死を擁護する人たちです。彼らは,神によってのみ決定されると心得るべき重要な問題である死の訪れを,自分たちの意思や選択によって早めようとしているのです。

主の教会で奉仕の業に携わるとき,いつというのは誰が,何を,どこでどのようにと同じように重要であることを忘れないでください。

時の大切さを明確に表す例として,地上における主の務めと,その後十二使徒に授けられた指示を見てみましょう。主は地上におられたとき,十二使徒に,異邦人には福音を伝えず「むしろ,イスラエルの家の失われた羊のところに行」くように指示されました(マタイ10:5-6マタイ15:22-26も参照)。そしてこの指示は,適切なときに使徒ペテロに与えられた偉大な啓示によって覆されました。そこで初めて,主が命じられたまさにそのときに,福音が異邦人にもたらされるようになったのです(使徒10-11章参照)。

この例が示すように,主は御自分の時を管理するために,絶えず啓示を与えておられます。わたしたちはこの啓示による導きが必要なのです。例えば,わたしたちあるいは子孫の多くは,新エルサレムの建設に関する預言の成就に間違いなく携わることになるでしょう(教義と聖約84:2-4参照)。しかし,その最もふさわしい時を御存じなのは主であり,わたしたちではありません。主が時は今であると言われるまで,この偉大な事業に向けて土地をならしたり基礎を築いたりすることは認められませんし,そうした祝福にあずかることもできません。他の多くのことと同様,主は御自分の定められたときに,御自分の方法で,新エルサレムの建設を進めていかれるのです。

わたしたちは主が指示された方法で準備を進めます。主の時が来たらすぐに応じられるよう備えておくのです。主は,次の段階に進む時を告げてくださいます。今は課せられた仕事と,今日求められていることに集中するだけです。このことに関して,主が次のような確信を与えておられることも忘れません。「わたしは,時が来ればわたしの業を速やかに行う。」(教義と聖約88:73

継続して与えられている啓示を受け入れない人は,物事を行うのに,早すぎたり遅すぎたり,あるいは,長くやりすぎたりするために,難しい事態に陥ることがときどきあります。多妻結婚はその良い例です。

主の時の重要性は,食物に関する主の律法でも明らかです。主は昔のイスラエルに,食べ物に関する一つの指示をお与えになりました。それから長い年月を経て,「終わりの時に」存在する「悪ともくろみ」のために(教義と聖約89:4),現代の状況に合わせて知恵の言葉が与えられました。これには,現代においてわたしたちに必要な祝福が約束されています。

主の時は,人生の重大な出来事にも当てはまります。教義と聖約のすばらしい聖句では,ある特定の霊的経験は「神自身の時に,神自身の方法で,神自身の思いに従って起こる」と宣言されています(教義と聖約88:68)。この原則は,啓示(オークス「御霊によって教え,学ぶ」『リアホナ』1999年5月号,14参照)や,誕生,結婚,死など,人生の重大な出来事のほとんどに当てはまります。新しい土地に引っ越すことさえそうなのです。

卓越した開拓者の生涯から例を挙げましょう。聴衆の皆さんの中にもそのような祖先を持つ人が大勢います。アンソン・コールはノーブーから逃れた最初の移住者の一人でした。彼とその家族は1846年の春,アイオワ州を横断して夏にアイオワ州カウンシルブラッフスに到着しました。その地でブリガム・ヤングは幌馬車隊を組織しており,アンソン・コールを最初の10台の幌馬車から成る部隊の隊長に任命しました。十二使徒は,コールの幌馬車隊に西へ行くように命じました。1846年7月22日に,幌馬車隊はミズーリ川をたって西に向かいました。神権の権能によって組織されたこの一団は,ロッキー山脈へ導かれ,大いなる力を帯びて西へと向かったのです。

現在のネブラスカ州を130マイル(210キロ)以上旅した後,この最初の幌馬車隊はその時点ではそれ以上進まないようにという新しい指示を受けました。そこで一団は冬を越す場所を見つけ,その後1847年春に東へ戻って,ミズーリのアイオワ側にいた教会の本隊と再び合流しました。そこに1年とどまったアンソン・コールとその家族は,西への旅にさらに備え,他の人々の準備も手伝いました。アンソンとその家族がようやく山間部の谷へと旅立ったのは,1846年に西へ向けて最初に出発してから2年後のことでした。ブリガム・ヤングは,西部の山間に新しい開拓地を開設する際に,従順で才覚に富んだアンソン・コールをしばしば起用しました。(The Journal of Anson CallUnited States: Ethan L. Call and Christine Shaffer Call; Afton, Wyoming: Shann L. Call, 1986年〕36参照)

この開拓者の経験にどんな意味があるでしょうか。わたしたちは命じられている,あるいは正しい方向に進んでいるというだけでは十分ではありません。時も正しくなければならないのです。時が間違っている場合は行動を調整し,主の僕によって明らかにされる主の時刻表に合わせる必要があります。

主の時はよくこのようにして明らかにされます。数年前,ヒンクレー大管長は,儀式が行われている教会の神殿数を,わずか2,3年で約50から100に倍増するという,大規模な神殿建設計画を発表しました。神殿数を増やすことは,常に目標となってきました。しかし,このように早急で劇的な増加を教会と会員に対して正当に求めることのできた人は誰もいませんでした。主の預言者が第一の優先事項としてこれを指示するまで誰もできなかったのです。主の預言者だけが教会全体を西へ移動させることができました。主の預言者だけが,儀式が行われる神殿数をほんの2,3年で倍に増やすよう教会に指示できたのです。

2001年10月の総大会で,わたしは別の例を挙げて話しました。福音のメッセージに興味を持つよう人々に働きかけるうえで,主の時に従うことがどれほど大切であるかということです。福音を宣べ伝えることは主の業であって,わたしたちの業ではありません。したがって,伝道はわたしたちの時ではなく,主の時に行われるべきです。現在世界には,主の再臨の前に福音を聞かなければならない国があります。それは分かっていますが,強制することはできません。主の時を待たなければならないのです。正しい時を主は告げてくださいます。扉を開け,壁を取り去ってくださいます。主の助けと導きを祈り求めてください。主の手に使われる者となり,準備のできている国々や人々,つまり,今主がわたしたちを使って助けようとしておられる人々に福音を伝えることができるようになるためです。主はすべての子供を愛しておられ,あらゆる子供に,主の完全な真理を知り,豊かな祝福を得てほしいと願っておられます。主は,グループや個人の準備がいつ整うか御存じです。そして福音を伝えるために,主の時刻表に留意するようわたしたちに望んでおられます。

Ⅱ.第三者の選択の自由

主の時以外にも,人生の重要な目標の達成に影響を与えるものがあります。個人の業績の幾つかは,第三者の選択の自由にも左右されるのです。これは大学生の年齢にある若い人たちにとって,特に大切な二つの事柄に顕著に表れます。宣教師のときに経験するバプテスマと,結婚です。

2001年の夏,オークス姉妹とわたしは,ブラジルのマナウスを訪れ,アマゾン川沿いのその大都市で,100人ほどの宣教師に向けて話をしました。このようなときにはいつもメモを用意しているのですが,そのときは話をしようと立ち上がったとたん,御霊の促しを受けました。メモを脇にやり,タイミングの重要性について,すなわち今日ここで述べてきた聖句や原則について話す必要があると感じたのです。

わたしは宣教師に,最も重要な計画の中には,第三者の選択の自由や行動がなくては達成できないものがあると話しました。5人の意志と行動が伴わなければ,今月中に5人のバプテスマを達成することはできないのです。宣教師は計画を立て,働き,力の限りあらゆることを実行することができます。しかし,結果が望みどおりになるかどうかは,周りの人の意志と行動も影響するのです。宣教師の目標は,宣教師本人の選択の自由と行動力に基づいて立てるべきであって,第三者の意志や行動力を基にすべきではありません。

しかし,今日は宣教師に話した目標について詳しく述べるときではありませんので,代わりに,時の原則が人生の別な場面ではどのように働くのか,例を挙げて話しましょう。

Ⅲ.人生への適用

人生とは,何か別の計画を立てている間に降りかかるもののことだ,と言われます。自分の力ではどうにもできないことがあるため,毎日の生活で望んでいることをすべて計画し,達成することはできません。人生で起こる重大なことの多くは,前もって計画していたわけではなく,また,必ずしも歓迎できるわけでもありません。9月11日の悲劇的な米国同時多発テロやその後の急進的な影響は明らかな例です。最も義にかなった望みでさえかなわないことがあります。あるいは求めてきたのとは異なる方法または異なるときに実現するかもしれません。

例えば,望めばすぐに結婚できるとは言い切れません。自分の目指すときに折よく結婚することは祝福かもしれませんが,そうではないこともあります。妻のクリステンが良い例です。彼女が結婚したのは伝道を終え,大学を卒業して何年もたってからでした。年齢を重ねた独身者は興味深い経験をするものです。彼女が50歳の誕生日を祝うために姉の家にいたとき,姉の夫が新聞で読んだばかりの記事について話しました。「クリステン,今や君は50歳を越えた独身女性だから,結婚する確率はテロで死ぬ確率より低いんだってさ。」

結婚のタイミングというのは,人生で実に重要な,前もって計画することがほとんど不可能な出来事の一番良い例かもしれません。地上の生活における大切な事柄の中には,第三者の選択の自由や,主の御心と時に左右されるものがあります。同じように,結婚も必ずこうなると予測したり,計画したりすることはできません。わたしたちは義にかなった望みが実現するように努力し,祈ることができますし,また,そうするべきです。しかしそれでも,希望する結婚の時期を大幅に過ぎても多くの人が独身のままでいることでしょう。

では主の時を待っている間,何をすべきでしょうか。主イエス・キリストを信じる信仰は,わたしたちを人生のあらゆる出来事に備えさせてくれます。このような信仰があれば,人生の様々な機会に対処する準備ができます。そして,やって来る好機を生かし,何かを失って失望しても挫折せず進んでいくことができるのです。この信仰を働かせようとするとき,自分の力の及ばない事柄に関して従う優先順位と基準をしっかり定め,第三者の選択の自由や主の時を理由に何が起こったとしても,その優先順位と基準を忠実に守り通すことが必要です。これを実行することで,人生に一貫性が生まれ,指針と平安が得られます。自分の影響力が届かないどんな状況であっても,決意と基準を保つことができます。

時として,わたしたちは予想もしていなかったときに自分の決意が浮かび上がり,予想もしていなかった状況でその決意に応じて行動することになります。これまで他の人に教えてきた原則を,自分にはもう必要ないと思っているときに,再び自分自身の行動の指針とするのです。わたしはこのことを如実に示す経験をしました。ほとんどの末日聖徒の親は,子供がデートに行くときに注意を与えることの重要性を知っています。わたしは子供たちにそうしてきましたし,子供たちもわたしの勧めをよく心に留めていたと思います。わたしがクリステンと親交を深めていた頃,彼女に会いに行こうと家を出るとき,子供の一人が目を輝かせてわたしに言いました。「いい,お父さん。自分が何者か忘れないでね。」

独身成人は,決意し,奉仕することで,正しい時と正しい相手を待つ間の苦しい時期に,強く忠実でいることができます。決意と奉仕は周りの人にも霊感を与え,強めることができるのです。詩人ジョン・グリーンリーフ・ホイッティアは,これを「雪に閉ざされて」(“Snow-Bound”)というすばらしい詩に書き表しました。そこには生涯独身だった愛するおばの姿が描写されています。

誰よりも優しい女性

生涯結婚することはなかった

独りで家庭はなかったが,だたそれだけだった

愛を与えることに安らぎを見つけ

どこへ行っても愛された

穏やかで優しい人

〔ジョン・グリーンリーフ・ホイッティア,“Snow-Bound: A Winter Idyl,” Snow-Bound: Among the Hills: Songs of Labor: and Other Poems(Boston; New York: Houghton, Mifflin and Company, 1898年)352-357行〕

賢い人は次のことを決意します。「わたしは人生において主を最優先にし,主の戒めを守ります。」この決意を実行するか否かは,一人一人にかかっています。第三者がどのような決心をしても,この決意を守り通すことができます。この決意は,人生の最も重要な事柄に対する主の時がいつであっても,わたしたちをしっかり支えてくれます。

卒業までには結婚しようとか,最初の就職では最低どれくらいの収入を得ようなどと計画することと,これから自分が何をすべきかを固く決意することの違いが分かるでしょうか。

神を信じるなら,また,日々の生活で主の戒めを守り,主を第一にするという原則を固く守るなら,たとえ非常に重大なことであっても,一つ一つを計画する必要はありません。計画し,期待し,祈っていた事柄が,望みどおりの時期に実現しないこともあるでしょう。しかし,たとえそれが非常に重要なことであっても,拒絶されたと感じたり,落胆したりすることはありません。

生活の中で主を最優先にすることを決意してください。主の戒めを守り,主の僕から求められていることを行ってください。そうすれば永遠の命へと導かれるでしょう。ビショップに召されようと,扶助協会の会長に召されようと,結婚していようと,独身であろうと,たとえ明日死ぬことになろうと,それはあまり問題ではなくなります。将来何が起こるかは分かりません。基本的で個人的なことに最善を尽くしてください。そして主と,主の時を信頼してください。

人生には予期せぬ曲がり角が幾つかあります。わたし自身の経験を例に話しましょう。

子供のころは宣教師になるつもりでいました。高校を卒業したのは1950年の6月です。その1週間後に,何マイルも離れた地で北朝鮮軍が北緯38度線を越え,アメリカは戦争に突入しました。わたしは当時17歳でしたが,ユタ州兵に登録していたため,動員と戦地勤務への準備命令を受けたのです。同世代の多くの若者が望み,計画してきた専任宣教師になるという目標は,突如として実現できなくなったのです。

もう一つの例を話しましょう。わたしはBYUの学長を9年務めて解任されました。それから2,3か月後に,ユタ州知事から州最高裁判所に任期10年の任命を受けました。48歳のときです。妻のジューンとわたしは,その後の人生について計画を立てようとしました。二人とも機会に恵まれなかった専任宣教師になりたかったのです。わたしたちの計画はこうでした。州最高裁判所に20年務める。69歳を前に1期10年の2期目が終了するので,そこで最高裁判所を引退する。それから伝道の申請を出し,夫婦で伝道する。

昨年の夏,69歳の誕生日を迎えたとき,この大切な計画が鮮明によみがえってきました。計画どおりに人生が進んでいたなら,今頃妻のジューンとともに伝道の申請書を提出していたはずでした。

この計画を立てた4年後,十二使徒定員会に召されました。夢にも思っていなかった出来事でした。主がわたしたちの考えとは異なる計画,異なるタイミングの判断を持っておられることを知って,わたしは最高裁判所の裁判官を退職しました。しかし,これで重大な出来事が終わったわけではありません。66歳のとき,妻のジューンががんで亡くなりました。その2年後に当たる今から1年半前,現在傍らにいる永遠の伴侶クリステン・マクメインと結婚したのです。

わたしの人生は,計画とは全く違ったものになりました。職業が変わり,私生活も変わりました。しかし,主に対する決意,すなわち主を第一にし,主が望まれることは何でも行えるように備えるという決意は,永遠に関わる重大な事柄の変更に際しても,わたしを支えてくれたのです。

主への信仰と信頼は,人生に何が起ころうとも,受け入れ,貫く力を与えてくれます。長年連れ添った妻の快復を願う祈りの答えが,なぜ「いいえ」なのかわたしには理解できませんでした。けれども主は,それが御心であるという証と,受け入れる力を下さいました。妻の死の2年後,すばらしい女性と出会いました。彼女は今,わたしの永遠の妻です。そして,これもまた主の御心であったことを知っています。

では,話を元のテーマに戻します。人生のあらゆる出来事を計画できるとは思わないでください。それがどれほど重大なことであっても同じです。影響を被ることが避けられない事柄に関して,主の計画と第三者の選択の自由を受け入れられるよう備えてください。計画はもちろんします。ただし,自分の決意に従って調整するのです。そうすれば,何が起こっても人生を全うすることができます。人生を永遠の原則にしっかりと結びつけ,状況や人の行動がどのようであっても,原則に従って行動してください。そうすれば,永遠の結果を確信して主の時を待つことができるのです。

タイミングの判断に関する最も大切な原則は,物事を永遠の見地に立って見ることです。この世の生活は永遠のほんの一部でしかありません。しかし,この世での行いが永遠の行く末を形作ります。人は自らの行動と望みの結果として人格を築き上げ,その人格は,自らが交わした聖約と,正しい権能によって施された儀式を通して確かなものとなります。アミュレクが教えたように,「現世は人が神にお会いする用意をする時期」なのです(アルマ34:32)。この事実は永遠の見地に立つ,すなわち永遠におけるタイミングを基準にして物事を見るうえで助けてくれるはずです。チャールズ・ W・ペンローズ管長は,ジョセフ・ F・スミス大管長の死を追悼して総大会でこう宣言しました。

「自分自身を永遠に存続するものにささげることができるのに,やがては滅んで過ぎ去ってしまうものに時間,才能,手段,影響力を無駄に費やすのはなぜですか。皆さんが属するこの教会と王国は,どんなに時間がたっても永遠に存続します。そしてこの世のものは過ぎ去り滅んで,復活のときにもその後にもとどまることがない一方で,教会とともにある皆さんはさらに強くなり,さらに力強くなる,と主なる神は言われます。」〔CR, 1919年6月,37〕

一人一人が主の言葉に注意深く耳を傾けて,死すべき世にあってどのように行動するべきか知ることができるよう祈っています。また,基準を定めて,決意することができるように祈っています。そのようにすれば,天の御父の時と調和し,波長を合わせることができるのです。イエス・キリストがわたしたちの救い主であられ,この教会は主の教会であることをイエス・キリストの御名によって証します。アーメン。