2022
愛という永遠の原則
2022年11月号


愛という永遠の原則

天の御父が御自分の子供たち一人一人に抱いておられる愛は現実のものです。一人一人のために,そこにおられるのです。

愛という永遠の原則は,二つの大切な戒めに従って生活することによって実践できます。その戒めとは,心と精神と思いと力を尽くして神を愛することと,自分を愛するように隣り人を愛することです。1

ここユタ州で迎えた最初の冬のことを覚えています。一面の銀世界でした。ソノラ砂漠から来たわたしは,最初の数日は楽しみましたが,数日たつとあることに気がつきました。ガレージから家の前の道路まで雪かきをするために早起きしなければならないのです。

ある朝,吹雪が吹き荒れる中,汗をかきながら雪かきしていると,向かいに住むご近所さんがガレージを開けるのが見えました。彼はわたしより年配です。自分の雪かきが早く終われば彼を手伝えると思い,声をかけました。「お手伝いしましょうか。」

彼はほほえみながら言いました。「モントヤ長老,ありがとうございます。」それから彼は,ガレージから除雪機を取り出し,エンジンをかけると,ものの数分で自宅前の雪をすべて取り除きました。そして除雪機を運んで道を渡って来るとわたしに声をかけました。「長老,お手伝いしましょうか。」

わたしはほほえみながら言いました。「はい,ありがとうございます。」

わたしたちは喜んで助け合おうとしています。互いに愛し合っているからです。相手の必要はわたしの必要となり,逆もまたしかりです。相手がどの言語を話そうと,どの国の出身であろうと,わたしたちは兄弟姉妹であり,同一の父を持つ子供たちですから,互いに愛し合います。

ミニスタリングの発表がなされたとき,ラッセル・M・ネルソン大管長はこのように述べました。「人々を心にかけ,仕えるに当たって,より新しく,より神聖な方法を導入します。」2わたしにとって「より神聖な」とは,より個人的で,より深く,よりいっそう救い主の方法で行うことを意味します。一人ずつ,「互に愛し合う」3のです。

だれかのつまずきの石にならないようにするだけでは不十分です。困っている人に気づきつつも通り過ぎてしまっては不十分なのです。この人生で会うのは最初で最後になるかもしれない人に対しても,隣り人を助けるあらゆる機会を生かしましょう。

ではなぜ神を愛することがいちばん大切な第一の戒めなのでしょうか。

わたしたちにとって神がどのような存在であるかに理由があると思います。わたしたちは神の子供です。神はわたしたちの幸福を見守られ,わたしたちは神に頼っています。神の愛はわたしたちを守ります。神の計画には選択の自由が含まれます。ですから,わたしたちは間違いを犯すこともあるでしょう。

また神は,わたしたちが試され,誘惑に遭うのを許しておられます。しかし,間違いを犯したり,誘惑に陥ったりすることがあっても,わたしたちが贖われ,御前に戻ることができるように,この計画で救い主が与えられました。

人生における逆境は,わたしたちに与えられた約束の成就に疑いを生じさせます。天の御父を信頼しましょう。神は御自身の約束を常に守られます。わたしたちは神が教えたいと思っておられる事柄を学ぶことができるのです。

正しいことを行っても,人生の状況が良い状態から悪い状態へ,幸福から悲しみへ転じることがあります。神は,限りない憐れみと愛によって,また御自身のタイミングで,わたしたちの祈りにこたえてくださいます。

  • エリヤが水を飲んでいた川は枯れてしまいました。4

  • 純良な鋼でできていたニーファイの弓は折れてしまいました。5

  • ある少年は学校で差別を受け,退学になりました。

  • 夫婦が長いこと待ちわびた子供は,この世に生を受けてわずか数日で亡くなりました。

状況は変化します。

状況が楽観的から悲観的に変わっても,わたしたちは幸せを保つことができます。なぜなら幸福を左右するのは,置かれた状況ではなく,状況に対するわたしたちの態度だからです。ネルソン大管長が述べているように,「わたしたちが感じる幸せは,生活の状況ではなく,生活の中で何に目を向けるかにかかっているのです。」6

状況がおのずと変化するのをのんびり待つこともできますし,新たな状況を探し求め,もたらすこともできます。

  • ザレパテまで歩いたエリヤに,やもめが食べ物と水を与えました。7

  • ニーファイは木で弓を作り,獣をとって食糧にしました。8

  • 外で窓の近くに座って授業を聞き,ノートを取っていた少年は,小学校の先生になりました。

  • この夫婦は,救い主イエス・キリストを信じる信仰を大いに育み,救いの計画に信頼を寄せています。突如亡くなった待望の赤ちゃんに対する彼らの愛は,悲しみを超えるものでした。

このような質問を耳にします。「天のお父様,ほんとうにそこにおられるのですか。すべての子供たちの祈りを聞いてくださるのですか。」9質問にお答えします。「天の御父はこれまでも,今も,そしてこれからも常にあなたとわたしのためにいてくださいます。わたしは神の息子であり,神はわたしのお父様です。わたしは天父のように良い父親になれるよう学んでいます。」

妻とわたしはいつ,どんな状況下でも,何があろうと,子供たちのために常にそこにいるよう努めています。どの子供もかけがえのない存在です。彼らの価値は神にとって大いなるものです。どのような困難や罪,弱さを彼らが抱えていようと,神は彼らを愛しておられます。わたしたちも彼らを愛しています。

中央幹部としての召しを受けて,ソルトレークへたつ前の日のことです。子供たち全員が彼らの家族を連れてわが家に集まり,家庭の夕べを行いました。わたしたちはそこで愛と感謝を伝えました。レッスンの後,わたしは子供たち一人一人に神権の祝福を授けました。全員が涙を浮かべていました。祝福の後,長男が皆を代表して感謝の言葉を述べました。生まれてからこれまでにわたしたちが与えた大きな愛に対する感謝でした。

皆さんの子供が5歳であろうと,50歳であろうと,彼らを祝福してください。彼らとともにいてください。彼らのためにいてください。家族に物質的な必需品を提供することは,神の計画によって定められた責任ではありますが,喜びあふれる時間を子供たちとともに過ごすことを忘れてはいけません。

天の御父が御自分の子供たち一人一人に抱いておられる愛は現実のものです。一人一人のために,そこにおられるのです。その方法は分かりませんが,確かにそうしておられます。御父とその長子は,御父の業と栄光を推し進めるうえで一つであられ,「人の不死不滅と永遠の命をもたら〔され〕」10ます。御二方は聖霊を遣わし,必要に応じてわたしたちを導き,警告し,慰めてくださいます。

神は,この美しい地球を創造するよう,御自分の愛する御子に指示を与えられました。神は,アダムとエバに教えを授け,彼らに選択の自由をお与えになりました。神は長きにわたって使者を遣わされ,わたしたちが神の愛と戒めを享受できるようにしてくださっています。

神は,聖なる森で若いジョセフの真心からの質問にこたえ,ジョセフのことを名前で呼び,そしてこう言われました。「これはわたしの愛する子である。彼に聞きなさい。」11

神のわたしたちへの愛の最たるものは,ゲツセマネでの出来事に見られると信じています。生ける神の御子が祈りをささげられました。「わが父よ,もしできることでしたらどうか,この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし,わたしの思いのままにではなく,みこころのままになさって下さい。」12

イエス・キリストの贖いについて理解できているのはごく一部ですが,それは御父と御子に対するわたしの愛を増し,罪や不従順への欲求を減少せさ,もっと良い人になり,もっと良いことをしようという意欲を高めてくれることに気がつきました。

イエスは恐れず,疑いもせずにゲツセマネへと歩かれました。一人で酒ぶねを踏まなければならないと知りながら,御父に信頼を寄せていたのです。あらゆる苦痛と屈辱に耐えられました。そして訴えられ,裁かれ,十字架につけられました。十字架上での苦悩と苦痛のさなか,イエスは御自分の母親と愛する弟子の必要に焦点を当てられました。主は御自身の命をささげられたのです。

そして3日目に復活されました。墓は空となり,主は御父の右に立っておられます。御二方は,わたしたちが聖約を守り,御前に戻ることを選ぶよう望んでおられます。現在の第二の位は,最終的な位ではありません。わたしたちはこの地上の家に属する者ではなく,現世の経験を積んでいる永遠の存在なのです。

イエスはキリストであり,生ける神の御子です。主は生きておられます。主が生きておられるので,神のすべての子供たちが永遠に生きることができます。主の贖いの犠牲のおかげで,わたしたちは御二方とともに住むことができるのです。イエス・キリストの御名により,アーメン。