歴代大管長の教え
ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業


ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業

大管長の任にあったある日のこと,ジョージ・アルバート・スミスに1枚の写真とメモが送られてきた。メモには「あなたのひととなりがよく表れているので,この写真をお送りします」と書かれていた。写真には,ある母親とその4人の幼い子供に話しかけているスミス大管長の姿が写っていた。その日,スミス大管長は汽車に乗ろうと急いでいるところを,子供たちに神の預言者と握手させてやりたいと思った母親に呼び止められたのだった。それを見ていた人がその場面を写真に収めたのだ。

メモには続けてこう記されていた。「わたしたちが〔この写真〕を大事にしているのは,車を降りて汽車に乗り継ごうと急いでいた多忙なあなたが,時間を取ってこの家族の子供一人一人と握手してくださったからです。」1

このような思いやりに満ちた行いは,ジョージ・アルバート・スミスの生涯と教導の業をよく表している。信仰について悩んでいる隣人に愛と励ましを与えたり,何千人もの人々に食物を与える大規模な福祉事業を組織したりと,ジョージ・アルバート・スミスは「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という救い主の戒めに従って生きた人であった(マルコ12:31)。

幼少期から青年期,1870年-1890年

ジョージ・アルバート・スミスは1870年4月4日,ジョン・ヘンリー・スミスと妻サラ・ファー・スミスの息子として,ソルトレーク・シティーのつましい家庭に生まれた。スミス家族は神の王国における奉仕という偉大な受け継ぎを持っていた。ジョージ・アルバートの父親は後に十二使徒定員会と大管長会に召されて奉仕した人であった。ジョージ・アルバートがその名を取って名付けられた祖父のジョージ・A・スミスは預言者ジョセフ・スミスのいとこで,1847年に末日聖徒の開拓者の第一陣としてソルトレーク盆地に到着した一人であった。ジョージ・A・スミスもまた,十二使徒であり,ブリガム・ヤング大管長の顧問であった。ジョージ・アルバートの曾祖父ジョン・スミスは,教会の祝福師として,またソルトレーク・シティーにおける最初のステーク会長として奉仕している。母方の祖父ローリン・ファーは,ユタ州オグデン市の最初の市長であり,同市で最初のステーク会長も務めた。

ジョージ・アルバート・スミスは両親を愛し,尊敬していた。助けを必要としている人に手を差し伸べるよう教えてくれた父親に感謝し,2福音の教えの中で子供たちを育てるために犠牲を払った母親を称賛した。彼は昔をこのように思い出している。「家族はとても貧しかったし,わたしが5歳のときに父が伝道に出ていましたが,母が不平を言うのを聞いたことがありませんでしたし,置かれた境遇を嘆いて涙を流す姿を一度も見たことがありません。だれよりもやり繰り上手の母でした。……

……父が伝道で家にいなかったとき,母は父の代わりをし,父の留守中に,まさに家長の役割を担いました。わたしたちは家族の祈りに集まり,食べ物を祝福し,だれかが病気のときには母が長老たちを呼びました。福音の儀式を信じる強い信仰があったからです。いつも厳密にじゅうぶんの一を納める人でした。そして,わたしの知るかぎり,『モルモニズム』が何かの間違いで,真実でないかもしれないなどといった考えは一度も頭に浮かんだことがないと思います。母は心の底から信じていたのです。」3

ジョージ・アルバート・スミスは,特に母親から祈ることと,神がこたえてくださると信頼することを教えられたと次のように回想している。「子供のころ母から受けた影響について思うと,敬虔けいけんになり,涙が出てきます。……まるで昨日のように覚えています。母がわたしの手を取り,階段を昇って2階へ行きました。そこで母の前にひざまずき,母の手を握りながら,祈るよう教えてもらいました。福音の精神と祝福したいという願いを心に抱いている母親たちに感謝します。母に祈りを教えてもらってから随分年月がたちましたが,あのときの祈りを今そのまま繰り返すことができます。その祈りは,自分には天の御父がいてくださるという確信をわたしに与え,御父が祈りを聞いてこたえてくださることを教えてくれました。わたしがもっと大きくなっても家族は2階建ての木造住宅に住んでいたので,風が強い日はまるで吹き飛ばされてしまいそうに揺れました。時には怖くて眠れないほどでした。わたしのベッドは小さな個室にあったので,そんな晩はよく,ベッドから抜け出してひざまずき,家が粉々になってしまわないように守ってくださるよう天の御父にお願いしました。すると,まるで御父の手を握っているかのように思われ,邪悪なものから守られると確信してベッドに戻ったものでした。」4

少年時代を振り返り,ジョージ・アルバート・スミスはこう言っている。

「「両親はとても質素な暮らしをしていましたが,わたしを彼らの家に送ってくださったことを造り主に心から感謝し,御名みなをほめたたえます。

……わたしは子供のときに,この業が主の業であることを学びました。地上に生ける預言者がいることを学びました。全能の主の霊感が,生活の中で喜んでその導きに従う人々に影響を与えることを学びました。

……自分の生得権に感謝すると同時に,家庭でイエス・キリストの福音を教え,模範を示してくれた両親に感謝します」5

ジョージ・アルバートは明るく陽気な少年として知られていた。友人たちはその快活な人柄を好んだ。ハーモニカやバンジョー,ギターを弾き,こっけいな歌を歌って友人を楽しませた。しかし,年齢の割に驚くほど強い責任感をはぐくむ経験もした。12歳のとき,ブリガム・ヤング・アカデミーに入学し,人生に計り知れない影響を与えた助言を受けた。後にこう述懐している。

「幸運だったのはカール・G・メーザー博士に指導を受けたことでした。教会の立派な学校を創設した,傑出した教育者でした。……学校に在籍中,メーザー博士から聞いた言葉の内容についてあまりよく覚えていないのですが,決して忘れられないであろうことが一つあります。これまで何度も繰り返してきた言葉です。……ある日,メーザー博士は立ち上がってこう言いました。

『あなたがたは自分が行ったことに対して責任を問われるだけでなく,思いについても,責任を問われることになるでしょう。』

自分の思いを制御する習慣などあまりなかった少年時代のわたしには,どうしたらよいかまったく分からずに,悩みました。その言葉が頭から離れませんでした。それから1週間か10日が過ぎたころ,突然メーザー博士の言葉の意味が分かりました。その考え方を理解できたのです。博士の言葉をどう解釈したらよいか突然分かったのです。つまり,この世の生活を終えるとき,自分の思いに対して責任を問われるのです。なぜなら人生は自分の思いを結集したものだからです。この助言がわたしの生涯を通じて大きな祝福となってきました。おかげで,不適切な考えを幾度となく遠ざけることができました。この世の働きを終えるときに向き合う自分とは,まさしく自分の考えが作り出したものであるということを知っているからです。」6

1882年,それまで2年間十二使徒定員会で奉仕していた父親がヨーロッパ伝道部会長に召されたとき,少年ジョージ・アルバートは家庭で大きな責任を担うことになった。ジョン・ヘンリーの不在に伴い,ジョージ・アルバートは家族を養わなくてはならなくなったのである。13歳のとき,教会が所有するソルトレーク・シティーの衣料工場とデパートで働く仕事に応募したが,マネージャーは人を雇う余裕はないと断った。それに対して,ジョージ・アルバートは給料ではなく,仕事をくれるようお願いしているのだと言い,こう付け加えた。「わたしにその価値があれば,給料を払ってくださると知っていますから。」7その積極性が認められ,週給2ドル50セントで工場で働く仕事に就いたが,その強い労働意欲で,すぐに社内のいっそう良い職に昇格できたのだった。

18歳になると,鉄道測量会社に就職した。この仕事をしている間,砂漠の砂に照り返す太陽の光で目を傷めることになった。このため,ジョージ・アルバートの目は回復不能な損傷を受け,生涯,字を読むのが困難で,不快感に悩まされた。

伝道と結婚,1891-1894年

1891年9月,ウィルフォード・ウッドラフ大管長はジョージ・アルバート・スミスをユタ州南部へ短期間の伝道に召した。具体的には,その地域の青少年とともに働くことであった。それから4か月間,同僚とステークやワードに青少年の組織を作る手伝いをし,数々の集会で話し,教会の標準を守って生活するよう青少年を励ました。

伝道から戻ると,ジョージ・アルバートは,幼いころから思いを寄せていたウィルフォード・ウッドラフ大管長の孫娘,ルーシー・ウッドラフと交際を続けた。近所で育った二人だったが,ルーシーはジョージ・アルバートの性格に望ましい特性が育ちつつあるのに気づいていた。彼に対する尊敬の気持ちを日記にこう記している。「今晩,神への感謝の思いを胸に床に就く。……そして,地上に送られた最高の若者の一人であると,わたしが心から信じる人が寄せてくれる愛に対して,もっとふさわしくなる強さを頂けるように祈る。彼の善良さと思いやりに涙が流れる。」8

しかし,ルーシーに思いを寄せる人は多く,中には非常に裕福で,高価な贈り物をする人たちもいた。それに引き換え,ジョージ・アルバートは主への献身の深さでルーシーを引きつけたのである。彼はルーシーへの手紙でこう書いている。「もしあなたがお金のためにだれかと結婚したいなら,あなたにふさわしい相手はわたしではありません。なぜなら,わたしはずっと以前から,自分と自分の人生を金儲けではなく,主とこの世にいる主の子らを助けるためにささげると決めているからです。」9ルーシーは自ら選択し,1892年5月25日,二人はユタ州マンタイ神殿で結婚した。ジョージ・アルバートの父親が式を執行した。その日,ルーシーは自分の写真を入れた小さなロケットを夫に贈っている。彼はそのロケットを懐中時計の鎖に付け,心臓に近いところに下げて,亡くなるまでほぼ毎日身に付けていた。10

1か月足らずの新婚生活の後,ジョージ・アルバートは次の伝道に出発した。今度はアメリカ合衆国南部で宣教活動に従事する伝道であった。結婚の3週前に召しを受けていたため,彼の出発が差し迫っていることを知ってはいたが,二人にとって別れは楽ではなかった。4か月後,スミス長老が伝道本部の書記として奉仕する割り当てを受けたのに伴い,ルーシーが伝道本部で夫と一緒に奉仕するよう召されたとき,二人は大喜びしたのだった。

南部諸州伝道部の会長は七十人定員会会員を兼任していたJ・ゴールデン・キンボールであった。スミス長老が書記を務めていた間に2度,キンボール会長はソルトレークで重要な案件を処理するために伝道地を離れなければならなかった。最初はスミス長老が伝道部書記に召されてすぐ,そして2度目はそれから約1年後のことだった。どちらの場合も,伝道部の指導と管理の重責をスミス長老に託したキンボール会長は,数々の手紙を通じて支援と助言を与えた。スミス長老が伝道部会長代理を務めた期間は合計約16か月に上る。キンボール会長はそれほど長期間伝道部を留守にすることを心配したが,若い書記を信頼していた。スミス長老あての手紙にこう記している。「たとえ限りあるとは言え,わたしの識別力と知性により,あなたの誠実さとふさわしさの価値を認めることができます。ほんとうに認めています。」11別な手紙にはこう書かれている。「わたしがあなたの働きと熱意と明朗さに感謝していることだけは常に忘れないでいてほしい。」12

キンボール会長にはスミス長老の熱意と明朗さを目にする機会が何度もあった。あるとき,二人で旅をしていて,招かれて小さな丸太作りの家に泊まることになった。ジョージ・アルバート・スミスは後にこう回想している。

「真夜中ごろ,わたしたちは外から聞こえてくる恐ろしい叫び声と怒鳴り声で目が覚めました。ベッドに起き上がったとき,耳に入った汚らわしい言葉から,自分たちがどういう状況に置かれているのかを悟りました。夜空に輝く月の明かりで,大勢の人が外を取り囲んでいるのが見えました。キンボール会長は飛び起きると,身支度を始めました。男たちは扉をたたき,モルモンは出て来い,撃ち殺してやると口汚くののしっていました。キンボール会長はわたしに,起きて服を着ないのかと尋ねましたが,きっと主が守ってくださるから,ベッドを離れないとわたしは言いました。数秒後,大量の銃弾が部屋に撃ち込まれました。明らかに,暴徒たちは4つの集団に分かれ,四方から銃弾を浴びせていました。わたしたちの頭上を木の破片が部屋中に飛び交いました。そして,少しの間銃撃の音がやみました。それから再び銃撃が始まり,さらに多くの破片が飛び交いました。わたしはまったく恐怖を感じませんでした。人生で最も恐ろしい事件の一つを経験しているというのに,心穏やかに体を横たえていました。……主が守ってくださると確信していました。そして,そのとおりになりました。

暴徒たちはあきらめて,去って行きました。翌朝,扉を開けてみると,そこには南部で暴徒が宣教師を殴打したときに使ったと同じような,太いヒッコリーの枝を束ねて作った大きなこん棒が残されていました。」13

それから何年もたってから,ジョージ・アルバート・スミスは孫たちにこのときの経験を話し,主を信頼することの大切さを教えた。「しっかり覚えておきなさい。危険にさらされたときに主は助けてくださる。ただし,主にその機会を差し上げないといけないのだよ。」14

家族生活

1894年6月,ジョージ・アルバートとルーシーは伝道から解任された。ソルトレーク・シティーに戻って数か月後,ルーシーは祖父ウィルフォード・ウッドラフ大管長から祝福を受け,子供を授かると約束された。1895年11月19日,ルーシーは娘を出産してエミリーと名づけ,それから4年後には次女エディスが生まれた。末っ子のジョージ・アルバート・ジュニアは1905年に生まれた。

ジョージ・アルバート・スミスは愛情深い父親で,子供たちに敬愛された。エディスは父親についてこう書き記している。「わたしにとって父は,娘に慕われる父親としてのすべての資質を備えていました。父親に対するわたしの期待をすべて満たしてくれたのです。」子供たちにとって特に印象深かったのが,愛する妻への接し方であった。「父が母に示した愛情と思いやりはすばらしいものでした」とエディスは記している。「母へ感謝の気持ちを表す機会を逃すことは一度もありませんでした。二人は周到な計画とチームワークで,何でも一緒にしていました。母は父にとって大切な存在でした。……わたしたち子供はみんな,母をとても愛していましたが,父の母に対する思いやりと優しさのおかげで,もっと母を愛するようになったと確信しています。」15

ジョージ・アルバート・スミスは父親として,福音に従って生きることによって感じた喜びを子供たちにも経験させたいと熱心に努力した。あるクリスマスの日,プレゼントを開け終わったとき,クリスマスプレゼントをもらえなかった子供たちに,おもちゃの一部をあげてはどうかと幼い娘たちに尋ねた。娘たちは,新しいおもちゃをもらったばかりなので,古いおもちゃを幾つか貧しい子供たちにあげてもいいと言った。

「新しいおもちゃからも幾つかあげようとは思わないかい」とジョージ・アルバートは優しく提案した。

娘たちはためらったが,最終的に新しいおもちゃの中から一つか二つを返上することに同意した。ジョージ・アルバートは娘たちを連れ,心当たりの子供たちの家まで行き,一緒にプレゼントを届けた。それは大変心が高められる経験だったため,帰りがけに娘の一人が興奮した声で言った。「これから帰って,残りのおもちゃを全部あの子たちに持って来てあげましょう。」16

十二使徒定員会,1903-1945年

1903年10月6日火曜日,ジョージ・アルバート・スミスは職場で忙しい一日を過ごし,総大会の部会に出席することができなかった。オフイスを出るころには午後の部会が終わろうとしていたので,子供たちをステート・フェアに連れて行こうと考えながら帰路に就いた。

家に着くと,大勢の人が彼の帰りを待っていたので驚いた。その一人の女性が進み出て,心を込めた祝いの言葉を述べた。

「一体どういうことですか」と彼は尋ねた。

「知らないのですか」とその女性が答えた。

「何のことですか。」

「あなたは十二使徒定員会の会員に支持されたのですよ」とその人は大声で叫んだ。

「そんなはずはありません。何かの間違いでしょう」とジョージ・アルバートは言った。

「ちゃんとこの耳で聞きましたよ」と彼女は反論した。

ジョージ・アルバートは言った。「スミス違いでしょう。わたしはそんなことはひとことも聞いていません。ほんとうだとは信じられません。」

その訪問者は訳が分からず,ほんとうに間違いかどうか確かめようとタバナクルへ戻って来た。そこで自分が正しいことを知らされた。ジョージ・アルバート・スミスは十二使徒定員会の最も新しい会員となったのである。17

娘のエミリーが後に,その日のスミス宅の状況をこう回想している。「まるでタバナクルにいた人がみんな芝生を横切って我が家に流れ込んで来たかのようでした。人々は泣きながら母にキスしていました。みんな父が使徒になったと言っていました。わたしたちは,使徒になるなんて最悪のことに違いないと思いました。」

知らせが真実であると確認されても,ジョージ・アルバートは約束どおり娘たちをステート・フェアに連れて行く決意を変えなかった。エミリーの記憶によると「父はフェアをほとんど見られなかったのですけど。フェアにいる間ずっと,壁を背に人々と話し続けていましたから。」18

2日後の1903年10月8日,ジョージ・アルバート・スミスはソルトレーク神殿の上階の部屋で,ジョセフ・F・スミス大管長によって使徒に聖任された。聖任後,彼は出席した十二使徒定員会の会員に感想を述べるよう勧められ,こう言った。「年配の方々に比べ,わたしは弱く,判断力に欠ける人間ですが,わたしの心はまっすぐで,主の業が進むよう誠心誠意願っています。……この業が神のものであるという生きたあかしがあります。福音が主御自身の指示と導きによって地上にもたらされ,今も昔も管理者として選ばれた人は確かに主のしもべであることを知っています。清くへりくだって生きることにより,たまの促しと勧告を受ける資格にあずかり,生涯を通じて導きを得られるよう願い,祈ります。」19

ジョージ・アルバート・スミスは十二使徒定員会でほぼ42年にわたって奉仕した。そのうち2年間は定員会会長を務めている。この間,多くの責任を果たし,様々な方法で世界中の人々を祝福した。

福音を分かち合い,教会の味方を作る

スミス長老には人を安心させ,敵を味方に変える天性があった。教会員でないある地元の実業家が後に大管長の葬儀でこう語った。「親しみやすい人でした。知り合いになりたいと思わせる人でした。彼の親しみのこもったほほえみ,心からの握手,それに温かいあいさつの言葉は,相手と同胞はらからに対する偽りのない友情を実感させてくれました。」20

教会がまだ世界であまり知られておらず,多くの人から疑いの目で見られていた時期,この才能は貴重であった。あるとき,スミス長老はウェストバージニア州で割り当てを果たしていると,市の役人がモルモン教徒の教えを布教している人を見つけたら逮捕すると脅かしていることを耳にした。スミス長老はその政策を変えてもらおうと,市の事務職員のイーグル氏を訪問した。長老は後に日記にこう記している。「最初に訪ねたとき,イーグル氏は非常に厳しい態度でわたしたちに応対し,その市ではモルモンは容赦のない扱いを受けるだろうとそっけなく言い渡した。……わたしは彼が誤ったことを吹き込まれていると思うので,座ってじっくり話をしたいと言った。……二人でしばらくわたしたちが信じている教えについて話し合った。別れを告げるころには,彼の態度はかなり軟化し,わたしと握手を交わして,名刺をくれた。偏見を少し取り除くことができたと確信してその場を去ることができた。」21それから3日後,スミス長老は再び彼を訪問し,モルモン書を1冊贈呈したのだった。22

スミス長老は常に教会について話す機会を探していた。割り当てを受けて旅行するときはいつでも,だれかに渡したいと思って,モルモン書,教会の機関誌,その他の教会の出版物を携えて行った。モルモン書にはイエス・キリストを証する強い力があることから,スミス長老はそれを理想的なクリスマス・プレゼントと考え,ほかの教会の友人や面識のない著名人にまで郵送することがしばしばあった。23そのようなクリスマ・スプレゼントに添えられた手紙の1通にはこう書かれていた。「あと数日でキリスト教徒が救い主の降誕を祝う日がやって来ます。その時期には友人のことを思う習慣があります。ですから,わたしからモルモン書を受け取っていただけるものと思います。……あなたの書棚にこれを喜んで置いていただけるものと信じ,クリスマス・プレゼントとして贈ります。」

それに対し,次のような返信が届いた。「この本を我が家の書棚に置き,偏見なく〔最初から終わりまで〕読ませていただきます。深く考えながら読む人は,必ずやその視野が広がり,寛容の精神を増し加えることができるでしょう。」24

市民活動への参加

スミス長老は教会員に,地域社会の問題にかかわって,世の中の状況を改善するために影響力を行使するよう勧めた。中央幹部という多忙な召しにもかかわらず,自身も幾つかの市民団体に参加していた。国際灌がい会議(International Irrigation Congress)と乾地農法会議(Dry Farming Congress)の議長に選出され,アメリカ独立戦争出征者全国協議会(National Society of the Sons of the American Revolution)の副議長を6期務めた。中央幹部がより効率よく旅行の割り当てを果たす一つの方法として,航空業を支援したスミス長老は,ウエスタン航空(Western Airlines)の取締役会に名を連ねていた。また,アメリカボーイスカウト連盟(Boy Scouts of America)にも積極的に関与し,1934年,スカウト活動の指導者に与えられる最高の章であるシルバーバッファロー章(Silver Buffalo)を授与された。第一世界大戦後の数年間は,アルメニアおよびシリア救済事業のユタ州会長,そして戦争で家を失った人々に住まいを提供することを目的とした国際住宅会議(International Housing Convention)の州代表も務めている。25

使徒に召されるまで,ジョージ・アルバートは政治活動に積極的に参加し,社会の改善に役立つと感じた大義や候補者のために熱心に運動した。中央幹部になってからは政治への関与は減ったが,自分の信じる大義については支持を続けた。例えば,1923年,結核患者のための療養所建設につながる法案をユタ州議会に提出するのを支援した。26

スミス長老の人への思いやりは,1933年から1949年まで会長を務めたSociety for the Aid of the Sightless(盲人支援協会)の奉仕に特に顕著に現れている。自身も視力を損傷していたスミス長老は,目の見えない人々に特別の同情を寄せていた。モルモン書の点字版の出版を監督し,目の見えない人々への点字教育やその他の方法で障がいに適応できるよう助けるプログラムを始めた。その努力により,奉仕を受けた人々から慕われるようになった。前述の協会の会員の一人が感謝の気持ちを表した詩が,スミス長老の70歳の誕生日に贈られている。

人生のあらしに打たれ

つらい涙をこぼすとき

孤独の冬が心を冷やし

空虚なこだまが響くとき

希望を求めて振り返る

この足もとは不確かでも

思いやりある人がいて

友情の炎を燃やしてくれる

穏やかな知恵にあふれ

思いやり深く,親切な心

神と人を信じる信仰により

……目の不自由な者たちに信仰のようなものを教えてくれた

その優しい,愛深い顔は

わたしたちには見えないけれど

わたしたちにも分かる

その人の思いやり深い心

彼の心に平安を感じ

自らの平安を知るようになる

その人の声に出さない祈りが聞こえ

自分は独りではないと知る

彼の信頼がわたしたちを強め

見えない道を歩ませる

わたしたちの魂は高められる

神と歩む人により。27

病気とその他の試練

ジョージ・アルバート・スミスは生涯を通して,あまり健康に恵まれなかった。水泳,乗馬,その他の活動を楽しみはしたが,体は虚弱で,丈夫ではないことが多かった。慢性的な目の問題以外にも,スミス長老は胃と腰の痛み,慢性疲労,心臓の問題など,生涯を通じて多くの病気を抱えていた。責任の多さから来るストレスと苦悩も体に負担をかけていたが,長老は初めのうち,健康上の理由で多忙なペースを落とそうとはしなかった。その結果,1909年から1912年まで,重い病気で病床に就き,十二使徒定員会の責任を果たすことができなかった。それはスミス長老にとって非常に苦しい時期であった。何としても奉仕を続けたいと望んでいたからである。1911年,父親が亡くなり,妻も重症のインフルエンザにかかったことから,スミス長老の回復はさらに難しくなった。

それから何年もしてから,この時期の経験を次のように述べている。

「何年も前,わたしは深刻な病気を抱えていました。実際,妻以外の人はみんな,わたしの生存をあきらめていたと思います。……わたしの体は衰弱し切ってほとんど動けなくなってしまいました。ベッドで寝返りを打つだけでも,非常に時間がかかり,疲れ果てるほどでした。

……ある日,このような状況の下,わたしは意識を失い,死んで霊界に行ってしまったかと思いました。気がつくと,大きな美しい湖を背に,巨大な森に向かって立っていました。周りにはだれもおらず,湖には船一つ浮かんでいませんし,どのようにしてそこにたどり着いたのかを示す物は何も見えませんでした。そこで気づいたのは,いや気づいたと思ったのは,自分は地上の業を終えて,ふるさとへ戻ったのだということでした。……

探索を始めると,すぐに森の中を通る道が見つかりました。その道はあまり通る人もいないようで,草に覆われていました。その道をたどってしばらくすると,森の中をかなりの距離を歩いたところで,わたしの方に向かって来る人が見えました。かなり大柄な人だということが分かり,わたしはその人に向かって歩みを速めました。なぜなら,それが祖父〔ジョージ・A・スミス〕だと気がついたからです。生きていたとき,祖父は体重が136キロ以上ありましたから,かなり体格がよかったことが分かるでしょう。祖父がやって来るのを見て,どれほどうれしかったことでしょう。わたしは祖父の名をもらい,常にそれを誇りにしていたからです。

祖父はわたしから1メートルほど前に来ると立ち止まりました。それはわたしにも立ち止まれという合図でした。それから,非常に真剣にわたしを見詰めてこう言いました。これは子供や若い人たちには決して忘れてほしくないことです。

『わたしは,おまえがわたしの名前を受け継いで何をしてきたのか知りたいのだ。』

すると,それまでわたしがしてきたことがすべて,走馬灯のように目の前に現れては消えていきました。あっという間にそこに立っているその瞬間に至り,この鮮やかな回想は終わりました。自分の一生涯が目の前に映し出されたのです。わたしはほほえんで祖父を見上げてこう言いました。

『わたしはあなたが恥ずかしく思うようなことは何もしませんでした。』

すると祖父は歩み寄ってわたしをしっかりと抱き締めました。ちょうどそのとき,わたしの意識が戻り,目を覚ましました。まくらはまるで水をかけられたようにぐっしょりぬれていました。祖父の質問に恥じることなく答えられたことへの感謝の涙でぬれていたのです。

このときのことを何度となく考えてきました。あれ以来,自分の名前を以前にも増して大切にするように努めてきたと述べたいと思います。ですから,少年少女,若い男性,若い女性,そして教会内外の若者たちにこう言いたいと思います。両親を敬いなさい。自分の名前を大切にしなさい。」28

やがてスミス長老は体力を回復し,この試練を克服することによって真理の証に対する感謝の思いを新たにした。次の総大会では聖徒たちにこう述べている。「わたしはここ数年,死の陰の谷を歩んできました。幕の向こう側にあまりに近づきすぎて,天の御父の特別な祝福がなかったなら,きっとこちら側にとどまることはできなかったでしょう。しかし,天の御父が祝福してくださったという証が曇ることは一瞬たりとありませんでした。死に近づけば近づくほど,この福音が真実であるという確信が深まりました。命を長らえた今,福音が真実であると知っていると喜んで証します。そして,それを教えてくださった天の御父に心の底から感謝します。」29

その後も,様々な病気や苦難がスミス長老を悩ました。恐らく,最大の試練は,妻ルーシーが関節炎と神経痛を患った1932年から1937年にかけてだったと思われる。彼女はひどい痛みに悩まされ,1937年にはほぼ常時,介護を必要とするようになった。そして,1937年4月,心臓発作を患い,かろうじて命を取り留めたものの,体力はさらに弱まった。

常にルーシーのことを心配しながら,スミス長老は最善を尽くして務めを果たし続けた。1937年11月5日,友人の葬儀で弔辞を述べて腰を下ろしたスミス長老に,すぐ帰宅するようにと書かれたメモが手渡された。後に日記にこのように記している。「すぐに集会所を出て家に向かったが,愛する妻はわたしの帰宅を待たず息を引き取った。わたしが葬儀で弔辞を述べている間に亡くなったのである。献身的な伴侶を失ってしまった。彼女のいない生活は寂しいものになるだろう。」

ルーシーが亡くなったとき,二人の結婚生活は45年と少しを数えていた。享年68歳であった。妻を失った寂しさは大きかったが,スミス長老は二人の別離は一時的なものにすぎないことを知っていたので,強められた。彼はこう書き記している。「わたしたち家族は悲しみに暮れているが,忠実であり続ければ,妻にまた会えると確信しているので,慰められている。献身的で,人の役に立ち,思慮深い妻であり母親であった。6年間も,彼女は様々な苦しみに耐えてきたのだから,きっと向こうで自分の母親やほかの家族と会い,喜んでいるだろう。……主は思いやり深い御方で,死にまつわるあらゆる悲しい思いを取り去ってくださった。そのことに深く感謝している。」30

ヨーロッパ伝道部会長時代

1919年,大管長に支持されたばかりのヒーバー・J・グラント大管長は,スミス長老をヨーロッパ伝道部会長に召した。出発を数日後に控えた総大会の説教で,スミス長老は次のように述べている。

「兄弟姉妹の皆さんに申し上げます。わたしは少し前まで弱々しい状態でしたが,中央幹部の兄弟たちがわたしに海外の伝道が可能だと感じるまでに,主が健康を回復させてくださったことを名誉,いや名誉以上に非常に大きな祝福である感じています。……

……次の水曜日,わたしは汽車で東海岸に向かい,大西洋を渡って,伝道地に赴きます。伝道に出る機会を神に感謝しています。この真理を知り,心から受け入れることができたことを感謝します。」31

当時,ヨーロッパは第一次世界大戦から復旧半ばにあった。わずか数か月前に終戦を迎えたばかりであった。戦争のため,ヨーロッパの宣教師の数は非常に少なく,スミス長老の任務の一つはその数を増やすことにあった。しかし,戦後のヨーロッパの切迫した経済状態のため,各国政府は宣教師に必要なビザの発行を渋っていた。さらに悪いことに,末日聖徒に対する誤解や偏見がまだ多かった。教会のイメージの改善を目指し,スミス長老は数多くの政府の高官や著名人と面会した。ヨーロッパをはじめ,世界各国における宣教師の目的を説明し,よく次のように述べた。「皆さんが持っておられる良いものはすべて持ち続けてください。皆さんの生活を豊かにするために神から与えられたものをすべて持ち続けてください。そのうえで,皆さんの幸福感と充足感をさらに高めるようなものをお伝えしたいと思います。」32スミス長老の下,伝道部で奉仕した宣教師の一人はこう言っている。「長老はその優れた能力と優しさで,人々の敬意と友情を勝ち取り,それまで宣教師に許されなかった譲歩を確保しました。」33

1921年に伝道を終えるころには,スミス長老はヨーロッパで伝道する宣教師の数を増やし,末日聖徒に関する幾つかの誤解を変えることに成功した。また,教会の擁護者となる友人を作り,長年の間,文通による交流を続けた。

教会史跡の保存

スミス長老は教会と教会史における偉大な出来事について話すのが大変好きだった。中央幹部としての任期中,記念碑の建設や,教会史上重要な場所への標識の設置など,歴史の保存に大きく尽力した。知人の一人はこう書いている。「長老は,若い世代に先祖の偉業に注目してもらうことで重要な奉仕をしていると信じていました。」34

まだ若い十二使徒のころ,ニューヨーク州のパルマイラへ行き,教会の代理人としてジョセフ・スミス・シニアの農場の購入について交渉した。またニューヨーク滞在中,ジョセフ・スミスが金版を入手したクモラの丘の所有者プリニー・セクストンとも会っている。セクストン氏は土地を教会に譲渡することに同意しなかったが,スミス長老と懇意になった。スミス長老がセクストン氏と良好な関係を維持していたこともあり,教会は最終的にその土地を手に入れ,そこに記念碑を建て,奉献することができたのである。

1930年,教会の創立100周年に当たり,スミス長老はユタ開拓者史跡協会(Utah Pioneer Trails and Landmarks Association)の設立に尽力し,初代会長に選任された。それから20年間,協会は100以上の記念碑と標識を設置したが,その多くはソルトレーク盆地へ至る開拓者の旅を記念するものであった。スミス長老はこれらの記念碑のほとんどで奉献式を執行している。35

長老は次のように書き記し,なぜ教会が史跡に関心を持つのか説明している。「個人についてはその思い出を忘れることのないように記念碑を建てる慣習がある。同様に偉大な出来事も記念碑を建てることによって恒久的に人々の記憶に残される。……多くの重要な地点が忘れられている現状をかんがみて,重要な出来事について後に続く人の注意を喚起するために,実体的な形で残すことが望ましいと感じるようになった。」36

ユタまでの道のりを開拓者たちと一緒に歩いた祖父を持つスミス長老は,信仰のために多くを犠牲にした初期の教会員に深い敬意を感じていた。扶助協会への説教の中で,手車隊の開拓者の歩いた道をたどっていたときに経験したことを次のように述べている。

「わたしたちはマーティン手車隊の多くの命が失われた所に差しかかりました。彼らが野営したと思われる場所を見つけました。手車隊員の子孫たちは,そこに標識を建てる手伝いをするために参加していました。それから,わたしたちはロック・クリークに到着しました。そこは1年前にわたしたちが臨時の標識を建てた場所でした。その時期は,美しい野草が至る所に咲き誇り,野生のアヤメもたくさん生えていました。わたしたちは花を摘み,前の年に積み上げた石塚の上にそっと手向けました。……そこには15人の教会員が一つの墓に葬られていました。飢えと寒さのために亡くなった人たちです。

御存じのように,ほかよりも天の御父をいっそう近く感じられる時と場所というものがあります。夏の暑さと冬の寒さの中,大平原を横断した開拓者の子孫であるわたしたちは,ウィリー手車隊が災難に遭ったロック・クリークの小さな渓谷でキャンプファイヤーを囲み,先祖の経験を語り合いました。……楽しいひとときでした。わたしたちのために,歴史が繰り返されていたのです。

……わたしたちが福音の祝福を得られるようにすべてを犠牲にした人々が実際そこにいるように感じられました。また,主がおられるかのように思えました。

……わたしたちは涙を流しました。その小さな集まりに感動し,30人か40人の中で涙を流さなかった人はいなかったと思います。その場を立ち去るとき,一人の善良な姉妹がわたしの腕を取り,言いました。「スミス兄弟,これからもっと善い女性になれるように努力します。」その女性は……最高の女性の一人だと思われるのですが,わたしたちの大部分が感じたように,幾つかの点で自分が達すべき理想の域に達していないと心に感じたのではないでしょうか。そこに葬られた人たちは,単に人生の何日かを犠牲にしたのではありません。この業の神性を信じる信仰の証として,命そのものを犠牲にしたのです。……

この組織〔扶助協会〕の会員が,大平原に葬られた,主を信じる信仰をもって問題に立ち向かった人々と同じくらい忠実であれば,これまでの多くの業績をさらに増し加え,自身と家族のうえに愛ある御父から豊かな恵みを受けるでしょう。」37

大管長,1945年-1951年

1945年5月15日の早朝,アメリカ東部を列車で移動中,スミス長老は伝言を届けに来た鉄道職員に起こされて目を覚ました。当時大管長だったヒーバー・J・グラント大管長が亡くなったのだ。スミス長老はできるだけ早く着けるよう列車を乗り継ぎ,ソルトレーク・シティーへ戻った。それからわずか数日後,十二使徒定員会の先任会員のジョージ・アルバート・スミスは末日聖徒イエス・キリスト教会の第8代大管長に任命された。

大管長となって最初の総大会で,自分を支持したばかりの聖徒たちに向かって次のように述べている。「ここにいる皆さんの中で,わたしと同じくらい,自分のことを弱く,取るに足りない者と感じている人はいるでしょうか。」38家族に対しても同じような心情を述べている。「この職を望んではいなかったし,自分にそれだけの力量があるとも思えなかった。でも,召された今となっては,全力を尽くしてその務めを果たすつもりだ。みんなに知っておいてほしいことがある。教会の責任が何であろうと,ホームティーチャーでもステーク会長でも,全力を尽くして果たしていれば,その責任はわたしの職と同じように重要なのだ。」39

スミス大管長の才能がこの召しに大変適していると感じた人は大勢いた。ある中央幹部はスミス大管長が支持されて間もなく,彼に対する信頼の言葉を次のように述べている。「主はある特別な使命を果たすために特別な人を召すとよく言われます。わたしはジョージ・アルバート・スミス大管長にどんな特別な使命があるか述べる立場にはありません。しかし,世界の歴史の中で特にこの時代ほど,兄弟愛が今ほど切実に必要とされている時代はほかにありませんでした。そして,わたしの知人の中で,ジョージ・アルバート・スミス大管長ほど人類を全体的にも個別にも,深く愛している人はいません。わたしはこのことを確かに知っています。」40

第二次世界大戦後の貧しい人々への援助

ジョージ・アルバート・スミスが大管長に就任してわずか数か月後に第二次世界大戦は終結した。ヨーロッパには戦争で家を失い,貧窮した人々が大勢いた。スミス大管長は速やかに教会の福祉プログラムを稼動させ,救援物資を送った。この取り組みについて,ゴードン・B・ヒンクレー大管長は後に次のように語っている。「わたしもそのとき,毎晩のようにこのソルトレーク・シティーのウェルフェアスクウェアへ来て,積み出し作業に携わりました。食糧は貨車に積み込まれて港まで輸送され,さらにそこから海上を船で運ばれました。〔1955年の〕スイス神殿の奉献式のときには,ドイツからたくさんの聖徒がやって来て,ほおを涙でぬらしながら,あの食糧のおかげで生き延びることができたと感謝しながら語っていたのを思い出します。」41

そのような悲惨な戦争の直後,世界の人々の中に霊的な必要が高まっていることもスミス大管長は知っていた。その必要にこたえるため,大管長は戦争によって伝道活動が中断していた国々における伝道部の再組織に着手した。また,聖徒たちに自分の生活の中で平安の福音に従って生活するよう勧告した。大管長は戦後間もなく,このように述べている。「現時点で感謝を表す最も良い方法は,この悲しみに満ちた世に幸せをもたらすために最善を尽くすことです。なぜならば,わたしたちは皆,御父の子供であり,自分が生きてきたことによってこの世界がより幸福な場所となるようにする義務を負っているからです。

…困っている人々を心に留め,必要としているすべての人に優しさと思いやりの手を差し伸べましょう。平和を喜ぶときに,その平和の代償として,愛する人を失った戦没者の遺族のことを忘れないようにしましょう。……

人々が心を神に向け,神に従順になり,それによって世がさらなる紛争や破壊から救われるように祈ります。死者を悼むすべての人の心と家庭に,天の御父だけがお与えになれる平安があるように祈ります。」42

福音を分かち合う機会の増加

スミス大管長は機会があるごとに福音を紹介していたが,新たな召しによってその機会はさらに増えた。1946年5月,メキシコの聖徒たちを訪問した。教会の大管長がメキシコを訪問するのはこれが初めてであった。スミス大管長は教会員と会い,大きな大会で説教しただけでなく,メキシコ政府の数人の高官を表敬訪問し,回復された福音について語った。メキシコのマヌエル・カマーチョ大統領を訪問したとき,スミス大管長一行は次のように説明した。「わたしたちは閣下と国民のために特別なメッセージを携えて来ました。皆さんの祖先とイエス・キリストの回復された福音についてお話しするためです。……わたしたちには……キリスト降誕の600年前,家族を連れてエルサレムを離れた偉大な預言者が,『約束の地,……ほかのあらゆる地に勝ったえり抜きの地』として知られたこの大いなるアメリカの地にやって来たことを記した書物があります。このモルモン書にはイエス・キリストがこの大陸を訪れ,御自身の教会を設立して十二使徒をお選びになったことも記されています。」

カマーチョ大統領は,自国に住む末日聖徒に対して敬意と称賛を表明し,モルモン書について大いに興味をそそられて尋ねた。「モルモン書を手に入れることができるでしょうか。これまで耳にしたことがありませんでした。」そこで,スミス大管長は皮表紙のスペイン語のモルモン書を大統領に進呈した。そのモルモン書には特に興味深い聖句のリストが添えられていた。カマーチョ大統領は,「全部を読み通します。わたしにも,国民にも,大いに興味深いものですから」と言った。43

開拓者の到着100周年を祝う

ジョージ・アルバート・スミスの6年に及ぶ大管長任期中で最大の出来事の一つは,1947年,教会が開拓者のソルトレーク盆地到着100周年を祝ったことだった。スミス大管長が監督の任に当たった一連の祝賀行事は全国から注目を集めた。その行事が最高潮に達したのは,ディス・イズ・ザ・プレース(訳注-「まさにこの地である」の意)記念碑の奉献であった。ソルトレーク・シティーの中で,開拓者が初めて盆地に足を踏み入れた場所に近い所に建てられたものである。1930年以来,スミス大管長は開拓者の偉業と信仰をたたえる記念碑を建てる計画にかかわっていた。しかし,大管長はその記念碑が,それ以前の探検者やほかの教会の宣教師,そして当時のアメリカインディアンの重要な指導者をも記念するものとなるよう,心を砕いたのだった。

ディス・イズ・ザ・プレース記念碑の奉献に当たり,当時東部諸州伝道部の会長だったジョージ・Q・モリスは,善意の精神が強く感じられたのはスミス大管長の努力によるところが大きいと次のように述べている。「兄弟愛と寛容の精神が広まったのはスミス大管長の貢献によるものであり,それが奉献式にもよく表れていた。……記念碑そのものはでき得るかぎり個人の肖像の彫刻で表現しながら,人種や宗教の別なく,モルモンの開拓者に先立って西部山岳地帯で歴史的偉業を成し遂げた人々をたたえるものであった。奉献式の式次第の準備の段階で,スミス大管長の希望は,州や郡や市の役人だけでなく,おもだった宗教団体の代表者がすべて出席することであった。奉献式ではおもに,カトリック教会の神父,プロテスタントの祭司,ユダヤ教のラビ,そして末日聖徒イエス・キリスト教会の代表者が話者を務めた。プログラムが終わってから,東部からの訪問者が次のように感想を述べた。『今日きょう,わたしは霊的に洗礼を受け直したように思います。わたしが目にした光景はここ以外には世界中のどこにもあり得ないものです。今日ここで示された寛容の精神はこの上なくすばらしいものでした。』」44

高さ18メートルの記念碑は感慨深いものではあるが,開拓者をたたえる最良の方法は彼らの信仰と献身の模範に従うことだと,スミス大管長は教えた。記念碑の奉献の祈りの中で,大管長はこのように述べている。「天にまします父よ,……わたしたちは今朝,この静かな丘の中腹で,あなたのまえに立ち,御父の息子娘と彼らの献身をたたえるために立てられたすばらしい記念碑を見ています。……御父と御父の愛する御子を信じ,ここに住んで御父を礼拝したいと願うゆえにこの盆地にやって来た,信仰深い人々と同じ精神を持つことができますように。わたしたちの心に,礼拝と感謝の精神が引き続きありますように,お祈り申し上げます。」45

80歳で人生を顧みる

スミス大管長は高齢にもかかわらず,活動を制限する以前のような病を経験することもなく,その任期の大半を無事に責任を果たすことができた。80歳の誕生日を前にした1950年4月に出た記事の中で,スミス大管長は自分の生涯を振り返り,神がどれほど自分を支え,祝福してくださったか述べている。

「この80年というもの,わたしはイエス・キリストの福音のために世界中を100万キロ以上も旅をしてきました。様々な気候の場所や国々に行き,子供のころから,教会員からもそうでない人からも思いやりと助けを受けてきました。どこへ行っても,高潔な男女に出会いました。……

……自分のようにほんとうに弱く,もろい人間がこの偉大な教会の指導者に召されていることを考えると,どれだけ多くの助けが必要かということが分かります。天の御父の助けがあることを心から感謝すると同時に,生涯を通じて励ましと友情を下さった,国内外を問わず世界中で出会った最良の男女の皆さんに感謝します。」

続けて,長年自分が仕えてきた人たちへ愛を表明している。

「このような人たちとおつきあいさせていただくことはほんとうに祝福であり,この機会にわたしに寄せられた皆さんの思いやりに心の底から感謝します。また,この機会に皆さんに申し上げたいと思います。わたしがどれほど皆さんを愛しているか,皆さんにはとうていお分かりにならないでしょう。言葉ではとても言い表せないからです。そして,天の御父の息子と娘一人一人に愛を感じたいと望んでいます。

平均的な人に比べて,わたしは随分長生きしてきました。わたしの人生は幸せなものでした。自然の流れとして,向こう側からお呼びがかかるのはさほど遠いことではないでしょう。その時が来るのを楽しみに待っています。80年の生涯を過ごし,世界各国へ旅し,多くの立派で善良な男女と交流を持ってきた今,次の事柄をこれまで以上によく分かってきたと証します。神は生きておられ,イエスはキリストであられ,ジョセフ・スミスは生ける神の預言者でした。天の御父の指示によりジョセフ・スミスが組織した末日聖徒イエス・キリスト教会は……ペテロ,ヤコブ,ヨハネによってジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに授けられたと同じ神権の力と権能によって運営されています。これをわたしは,自分が生きていると知っているように知っています。また,このように皆さんに証するのは非常に厳粛なことであると知っています。それは,この証だけでなく,わたしが御父の名の下に教えてきたすべてのことについて,天の御父に対して責任を負っているからです。……すべての人への心からの愛と思いやりをもって,主イエス・キリストのにより証します。」46

それから1年後の1951年4月4日,81歳の誕生日にジョージ・アルバート・スミスは自宅で息子と娘たちに見守られながら静かに息を引き取った。

愛に満ちた素朴な奉仕

ジョージ・アルバート・スミスは教会や地域社会,世界中で,81年の生涯にわたり多くのことを成し遂げた。しかし,彼を個人的に知る人たちがいちばんよく覚えているのは,その思いやりと愛に満ちた多くの素朴な奉仕であった。スミス大管長の葬儀を管理したデビッド・O・マッケイ大管長はこう述べている。「ほんとうに気高い人物でした。彼は,ほかの人を幸せにしているときに最も幸せだと感じていました。」47

十二使徒定員会会員のジョン・A・ウイッツォー長老は,重大で困難な問題を解決しようとしていたときの経験を次のように語っている。

「一日の終わりに,わたしはかなり疲れてオフイスに座っていました。……疲れ果てていたのです。ちょうどそのとき,ドアをノックする音があり,ジョージ・アルバート・スミスが入って来て,こう言いました。『仕事が終わって帰宅する途中なのだけれど,あなたとあなたが解決しなければならない問題のことを考えてね。慰めと祝福を差し上げたいと思って来たのだよ。』

ジョージ・アルバート・スミスはそんな人でした。……わたしは決して忘れないでしょう。わたしたちはしばらく話し合いました。それからさよならと言うと,帰って行きました。わたしの気持ちは奮い立ちました。もはや疲れは感じませんでした。

お分かりのことでしょうが,愛というのは……単なる言葉でも心の内にある気持ちでもありません。ほんとうの愛とは,行動を伴わなければならないのです。あのときのスミス大管長は,それを実践してくれました。自分の時間と力をわたしに与えてくれたのです。」48

同じく十二使徒定員会会員でスミス大管長の親しい友人だったマシュー・カウリー長老は,葬儀で次のように弔辞を述べている。

「苦難や病,そのほかの災難に苦しむ人はだれでも,神の息子であるこの人のそばへ来た人は皆,徳と強さをもらいました。一緒にいることでいやされました。たとえ肉体的には癒されなくても,霊的には確かに癒されたのです。……

……信心深い人は神の近くへと導かれます。この神の人が今旅立ったのは,これまでのすべての旅の中で最も短い旅であるとわたしは確信しています。神は愛です。ジョージ・アルバート・スミスは愛です。神に近い,信心深い人です。神は彼を御自身のみもとに連れて行かれたのです。

……このような人物の生涯をたたえる言葉はありません。言葉では表現し切れないからです。彼の徳と優しい性格,すばらしい愛の資質をたたえる方法はただ一つ,わたしたちの行いによって表すしかありません。……

皆さん,もう少し寛容になり,互いとのかかわりでもう少し優しく,もう少し互いに思いやって,相手の気持ちにもう少し寛大になろうではありませんか。」49

ジョージ・アルバート・スミスの墓石には次のような言葉が刻まれている。愛に満ちた奉仕の生涯を要約するのにふさわしい言葉である。

「キリストの教えを理解し,広め,だれよりもよくそれを実行した。思いやり,忍耐,知恵,寛容,理解力のある人だった。各地で善行をした。ユタとアメリカを愛したが,偏狭ではなかった。愛の必要性と力を心から信じた。教会と家族に対して限りない愛情を抱き,熱心に尽くした。そして,その愛には限りがなく,人種,宗教,身分の別なく,すべての人に注がれた。人々に対し,また人々について,よく次のように語った。『わたしたちは皆御父の子供である。』」

  1. D・アーサー・ヘイコック,“A Day with the President,” Improvement Era,1950年4月号,288

  2. “Pres. Smith’s Leadership Address,” Deseret News1946年2月16日付,教会欄,6参照

  3. “Mothers of Our Leaders,” Relief Society Magazine1919年6月号,313-314

  4. “To the Relief Society,” Relief Society Magazine,1932年12月号,707-708

  5. “After Eighty Years,” Improvement Era,1950年4月号,263

  6. “Pres. Smith’s Leadership Address,” 1

  7. メルロ・J・ピュージー,Builders of the Kingdom(1981年),209

  8. ルーシー・ウッドラフの日記,1888年2月5日,George Albert Smith Family Papers, University of Utah,箱番138,第1巻

  9. エミリー・スチュアート・スミス,“Some Notes about President George Albert Smith,” 1948年5月,George Albert Smith Family Papers, University of Utah,箱番5,3ページ

  10. エミリー・スチュアート・スミス,“Some Notes about President George Albert Smith,” 5参照

  11. J・ゴールデン・キンボール,1893年3月18日付手紙,George Albert Smith Family Papers, University of Utah,箱番72,フォルダ12

  12. J・ゴールデン・キンボール,1893年6月30日付手紙,George Albert Smith Family Papers, University of Utah,箱番72,フォルダ15

  13. “How My Life Was Preserved,” George Albert Smith Family Papers, University of Utah,箱番121,スクラップブック1,43-44ページ

  14. “How My Life Was Preserved,” 43

  15. イーデス・スミス・エリオット,“No Wonder We Love Him,” Relief Society Magazine,1953年6月号,366,368

  16. Builders of the Kingdom,240参照

  17. Builders of the Kingdom,224-225参照

  18. エミリー・スミス・スチュアート,“Pres. Smith Mementos At Y.” Deseret News,1967年10月14日付,教会欄,6-7

  19. George Albert Smith Family Papers, University of Utah,箱番100,フォルダ23,11ページ

  20. ジョン・F・フィッツパトリック,Conference Report,1951年4月,172

  21. ジョージ・アルバート・スミスの日記,1906年10月27日付,George Albert Smith Family Papers, University of Utah,箱番73,第3巻,70ページ

  22. ジョージ・アルバート・スミスの日記,1906年10月30日付,George Albert Smith Family Papers, University of Utah,箱番73,第3巻,72ページ

  23. フランシス・M・ギボンズ,George Albert Smith: Kind and Caring Christian, Prophet of God(1990年),208-209参照

  24. グレン・R・スタッブス,“A Biography of George Albert Smith, 1870 to 1951”(ブリガム・ヤング大学博士論文,1974年),295

  25. ブライアント・S・ヒンクレー,“Greatness in Men: Superintendent George Albert Smith,” Improvement Era,1932年3月号,270,271参照

  26. “A Biography of George Albert Smith,” 283参照

  27. アイリーン・ジョーンズ,“The Understanding Heart,” Improvement Era,1940年7月号,423

  28. “Your Good Name,” Improvement Era,1947年3月号,139

  29. Conference Report,1921年10月,42

  30. ジョージ・アルバート・スミスの日記,1937年11月5日付,George Albert Smith Family Papers, University of Utah,箱番74,第11巻,83-84ページ

  31. Conference Report,1919年6月,42,44

  32. Conference Report,1950年10月,8

  33. ジェームズ・ガン・マッケイ,“A Biography of George Albert Smith,” 141で引用

  34. ジョージ・Q・モリス,“Perpetuating Our Ideals through Markers and Monuments,” Improvement Era,1950年4月号,284

  35. “Markers and Monuments,” 284参照

  36. レスリー・O・ラブリッジあての手紙,1937年3月15日付,George Albert Smith Family Papers, University of Utah,箱番67,フォルダ25

  37. “To the Relief Society,” Relief Society Magazine,1932年12月号,705-706

  38. Conference Report,1945年10月,18

  39. Builders of the Kingdom315-316

  40. ジョセフ・F・スミス,Conference Report,1945年10月,31-32;ジョセフ・F・スミスは教会の祝福師であり,第6代大管長ジョセフ・F・スミスの孫である。

  41. ゴードン・B・ヒンクレー,Conference Report,1992年4月,75 または『聖徒の道』1992年7月号,57-58

  42. “Some Thoughts on War, and Sorrow, and Peace,” Improvement Era1945年9月号,501

  43. アーウェル・L・ピアース,Conference Report,1951年4月,112-113参照

  44. “Markers and Monuments,” 284-285

  45. “Dedicatory Prayer,” Improvement Era,1947年9月号,571

  46. “After Eighty Years,” 263-264

  47. デビッド・O・マッケイ,Conference Report,1951年4月,3

  48. ジョン・A・ウイッツォー,Conference Report,1951年4月,99

  49. マシュー・カウリー,Conference Report,1951年4月,168-169

南部諸州伝道部の宣教師たち。新婚のルーシー(左から3人目)とジョージ・アルバート・スミス(ルーシーの隣に座っている)は伝道本部でともに奉仕した。

1921年の十二使徒定員会。後列左からジョセフ・フィールディング・スミス,ジェームズ・E・タルメージ,スティーブン・L・リチャーズ,リチャード・R・ライマン,メルビン・J・バラード,ジョン・A・ウイッツオー。前列左からラジャー・クローソン,リード・スムート,ジョージ・アルバート・スミス,ジョージ・F・リチャーズ,オルソン・F・ホィットニー,デビッド・O・マッケイ。

ジョージ・アルバート・スミス長老は点字版モルモン書の発行を監督した。

天使モロナイがジョセフ・スミスに金版を渡したクモラの丘の記念碑。

スミス大管長と顧問のJ・ルーベン・クラーク・ジュニア(左)とデビッド・O・マッケイ(右)

ディス・イズ・ザ・プレース記念碑。開拓者のソルトレーク盆地到着を記念するこの碑は1947年,スミス大管長により奉献された。

執務室のスミス大管長

ジョン・ヘンリー・スミスとサラ・ファー・スミス夫妻の子供たち。左はジョージ・アルバート・スミス。